せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

旧山陽道の街並み・大蔵谷を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
引き続き、大蔵谷界隈を歩いてみたいと思います。

円乗寺

稲爪神社を出ると、どこか風情ある街並みが続いています。
こちらの山門が立派な寺院は円乗寺。

旧山陽道の街並み

円乗寺から一本南の道路が旧山陽道です。
これまで見てきた地域のように古い建物がずっと続いている…というわけではありませんが、ところどころに趣のある建物が残されています。

大蔵谷は山陽道の宿場町として、古くから栄えた町です。近世に入り、明石藩主となった小笠原忠政が明石城を築くと、大蔵谷は多くが明石の城下町に組み入れられました。何だかこのあたりの経緯は姫路の野里地区(詳しくはこちら)に似ているような気がしますね。近世の後半には城下町の都市機能と宿場町の機能を併せ持ち大いに発展したといわれています。

鍾馗さんとマンション

歴史的な建物とマンションが混在しています。屋根にいるのは鍾馗さんと呼ばれる道教の神様です。屋根に像を置くと魔除けになるとのこと。
こうした現代と近世が入り混じった光景があるのがある意味、大蔵谷の特徴というべきでしょうか。

近世都市として発展した大蔵谷ですが、現代に入るとこの地域の中心は山側の明舞地区へと移っていきました。また、この地域も神戸や明石への通勤通学に便利な土地であることもあって再開発が進められています。今のような光景がすぐになくなるというわけでもありませんが、しばらくすれば大きく景色が変わっているかもしれません。

ウサギの卯建

街並みを歩いていると見つけたのがウサギの装飾の入った卯建のある家。
実は、私よりも一年半ほど早くむ~さんパパが紹介している(こちら)のですが、やはり、街並みの中では目立つ存在です。卯建の「卯」とウサギをかけたものなのでしょうが、粋ですね。

ここから山陽電車の大蔵谷駅はすぐ。のんびり普通車に揺られて帰途に就くことにしました。

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旧山陽道の街並み・大蔵谷を歩いて(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、大蔵谷界隈を歩いてみたいと思います。

稲爪神社楼門

国道から稲爪神社の正面に回ってみました。
海側にそびえるのは神社の楼門です。
お祭りなので、提灯に明りが灯っていて、何だかいい雰囲気ですね。

境内の茅の輪

訪れたとき、境内には大きな茅の輪がありました。毎年6~7月に日本の多くの神社で行われる夏越しの大祓がこの神社でも行われています。この茅の輪をくぐると厄払いができ、今年の残り半分を健康に過ごすことができると言われています。

稲爪神社はかつて「稲妻神社」と呼ばれていました。ものものしい名前の通り、歴史は古く、由来ははるか古代の推古天皇の時代にさかのぼります。神社の由緒やその他の資料によると、このとき、五体皆白銅の不死身の鉄人が率いた軍勢が西アジアから朝鮮半島の三韓(高句麗・百済・新羅の三カ国)を征服し、さらに日本に攻め込んできたとのこと。全身を鎧で覆った鉄人の軍勢に日本軍は歯が立たず、九州は攻略され、四国の伊予にまで進軍してきました。このとき、鉄人征伐の命を受けた伊予の役人・小千益躬なる人物は鉄人の弱点は足の裏であるとの三嶋大明神のお告げを聞き、降参したふりをして朝廷のある大和までの先導役を務めることになります。ちょうど明石に着いたころ、突然の稲妻に驚いた鉄人が落馬。その隙に足の裏を射てついに鉄人を討ち、日本から退却させました。のちに益躬は鉄人を討ったこの地に社を建てて三嶋大明神を祭りました。これが稲爪神社の始まりといわれています。

楼門から海側を眺める

楼門から海側を眺めてみます。かつては海を望むことができたのでしょうが、今は住宅が立ち並び、水平線を見ることはできません。

稲爪神社に伝わるものと同様の伝説は伊予にも残されているようなのですが、このときの鉄人が何者なのかはよくわかりません。しかし、全身鉄の鎧の軍勢となると、中東あたりから天山山脈やシルクロードの砂漠を越えて軍勢が攻めてきたのだろうかと想像してしまいます。大蔵谷からはるかシルクロードを想像するとは思いませんでしたが、こうした歴史が何気なくあるところが山陽沿線の面白いところですね。

大蔵谷へ

何だか稲爪神社で長くなってしまいましたが、引き続き、旧山陽道の風情を求めて大蔵谷を歩いてみたいと思います。

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旧山陽道の街並み・大蔵谷を歩いて(前編)

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梅雨明け間近と思ったら、何やら台風が近づいていますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

人丸前駅

今回訪れたのは山陽電車の人丸前駅
何だか、先日も訪れたばかりなので、あまり新鮮な気がしません。

休天神社

人丸前駅から国道2号線を歩いてたどり着いたのが休天神社(やすみてんじんじゃ)。近くのバス停の名前にもなっていて、大きな神社なのか?と思ったのですが、小ぢんまりとした静かな神社でした。簡単に読めそうで何だか読みにくい名称にはもちろん由来があります。

休天神社はその名の通り菅原道真を祭る天満宮です。その由緒はというと、延喜元(901)年、京都で左遷されて九州の太宰府に流されることになった菅原道真が九州への道中にこの地を訪れました。このとき、山陽道に設けられた明石駅家の駅長は道真の顔見知りで、道真をもてなしたと言います。その駅家の跡地は今の太寺付近にあったとされ、現在は石碑が築かれています…って、そういえば、以前、太寺を訪ねた際に訪れていますね(詳しくはこちらへ)。

休天神社の境内

神社の境内に入ると、国道を走る車の騒音が少し遠ざかったような気がしました。

太宰府に流されて程なく延喜3(903)年、道真は亡くなりました。その報を伝え聞いた駅長が道真を祭る祠を築いたのがこの休天神社の始まりとされています。変わった名前は境内に道真が座って休んだ石があるからとのこと。

稲爪神社

休天神社から国道を渡ると現れたのが鬱蒼とした森。
こちらは稲爪神社の森です。これまた変わった名前の神社ですが、境内は地域のお祭りをやっているようで賑やかな雰囲気です。なかなか入るのには勇気がいりますが、ちょこっとお邪魔させてもらいましょう。

次回は稲爪神社から旧山陽道を巡ってみたいと思います。

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明石港界隈を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
今回も、前回に引き続き明石港界隈を歩いてみたいと思います。

材木町の街並み

ジェノバラインのりばから材木町方面へ歩いてみることにしました。
この界隈は地図を見ると明石川と明石港に囲まれて半島のような地形になっています。その中の街並みはというと、ごく普通の住宅地が広がりますが、どことなく港町の風情を感じます。

岩屋神社

住宅地の中を歩いていると、大きな神社にたどり着きました。こちらは岩屋神社
明石近辺で「岩屋」 というと、明石の対岸である淡路市岩屋地区を思い浮かべてしまいますが、この岩屋神社はその名の通り淡路島の岩屋から遷ってきた神社だと言われています。

岩屋神社は第13代成務天皇の頃の成務天皇13(143)年に淡路島の岩屋から遷った神社だとされています。古くからこの地域の信仰を広く集め、江戸時代には明石藩の産土神とされました。当時は広大な社領を持ち、名実とも東播磨の大社として新港されてきました。
また、淡路島から遷ったという由緒に因んでこの明石港から林崎の赤石付近(こちらの林神社の訪問記事で紹介しました)へ舟を出す「おしゃたか舟神事」が毎年7月の夏季例大祭の際に執り行われています。

淡路島を望む

神社から海側を見ると、家並の間に淡路島の島影を望むことができました。

旧波門崎燈籠台

岩屋神社から海辺に出ると、石造りの灯台が現れました。こちらは「旧波門崎燈籠台」で、明暦3(1657)年に当時の明石藩主・松平忠国が築いたものです。

近世、城下町とともに現在の位置へ築かれた明石港は「波門崎」と呼ばれる岬と、築造の際に浚渫した砂を積み上げて築いた防波堤である「中崎」に囲まれた港でした。周辺の瀬戸内の港と違い、明石港は明石藩の港として設けられていて、藩の物資の輸送拠点や漁港等として使用されていたそうです。ただし、その立地から淡路島への航路の拠点としては重用されていて、多くの船が明石海峡を渡っていきました。この旧波門崎燈籠台はそうした船の目印として設けられたもので、戦後の昭和38(1963)年に新しい灯台が設けられるまで、実に300年以上も明石海峡を見守ってきました。

明石港を眺める

旧波門崎燈籠台から明石港を眺めてみました。明石藩の港として発展し、近代以降も淡路島・四国方面への航路の拠点として栄えた明石港ですが、前回も見てきましたように環境の変化によってその機能は失われてきました。一方で、漁業は現在も盛んで、今も多くの漁船が明石海峡へ漕ぎ出していきます。今月上旬の半夏生で注目された蛸や、お正月には欠かせない鯛など、今も関西の食卓を彩っています。

魚の棚でお刺身でも買って帰ろうかなと思いながら、帰途に就くことにしました。

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明石港界隈を歩く(前編)

投稿日:



まだまだ梅雨の空が広がるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

魚の棚

今回訪れたのは山陽明石駅。駅前は再開発工事の真っただ中で、至る所に仮囲いが設けられています。あと数年もすれば景色は様変わりすることでしょう。山陽明石駅から南に少し歩くと魚の棚商店街の西端に出ます。
商店街はちょうど七夕まつりの飾り付けがされていて、華やかな雰囲気です。

魚の棚界隈の街並み

玉子焼きを…というところですが、ストイックな(?) 歴史部は魚の棚の前を素通りして街中に…。この界隈ではどうしても魚の棚に目が行きがちですが、違ったところへ視線を向けてみると、こんな街並みが。明石にもうだつの街並みがあるのです。

ジェノバラインのりば

港に向かって歩き、突き当りのジェノバラインのりばに着きました。かつて、本州と淡路島には多数の航路がありましたが、明石海峡大橋の開通で多くが廃止されてしまいました。「たこフェリー」こと明石淡路フェリーがいわゆる「1000円高速」で廃止されたのは記憶に新しいですね。現在はこのジェノバラインが唯一明石と淡路島を結んでいます。

明石は瀬戸内海航路の拠点の一つとしてでなく、淡路島・四国方面への航路の拠点としても栄え、古くから港として整備されてきました。「明石の泊」などと呼ばれていた古代の明石港は現在の明石港とは異なり、西側の明石川河口付近にあったとされていますが、詳しいことはわかっていません。現在の明石港が整備されたのは近世に入ってから。元和3(1617)年に明石藩主となった小笠原忠真が現在の明石城の築城と合わせて、現在の場所に新港を築造したのが始まりです。

明石港を望む

ジェノバラインのりばの傍から明石港を望むことができました。遠くには淡路島の島影も望むことができます。ちょうど、ジェノバラインの船が淡路島から到着しました。
道路の時代となり、淡路島への港としての明石港の存在感はかなり薄くなっていますが、今も、ジェノバラインは多くの方が利用されています。「たこフェリー」の代替を兼ねて、今年には原付を乗せることができる新型船が導入されるとのこと。たまには船でのんびりと淡路島を訪れてみてもいいかもしれませんね。

この辺りは明石港の序の口。次回、もう少し歩いて明石の歴史を感じてみましょう。

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