せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

春を待つ明石港を歩いて(前編)

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桜のつぼみも膨らみ、春本番が間近の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

魚の棚

山陽電車で着いたのは山陽明石駅
駅の浜側には明石の台所「魚の棚」の商店街が続いています。大漁旗が並ぶアーケードの下の店では明石の海で獲れた海産物を扱う店が軒を連ねていました。

魚の棚の西側

魚の棚商店街を通り抜けて西側に出ると、南北の道と交差しました。道は緩やかにカーブを描いています。こちらは山陽電車の前身の兵庫電気軌道の線路跡です。

山陽電車の前身の兵庫電気軌道が開業したのは明治時代の終わりの明治43(1910)年のことです。当初は兵庫から須磨までの間の路線でしたが、順次西へ西へと延伸し、大正6(1917)年4月12日に明石へと到達しました。当時の路線は現在の山陽電車の本線から浜側の国道2号線沿いに敷設されていて、山陽明石駅前の明石駅前交差点付近に「明石駅前駅」、そして、国道から海に向かって曲がったこの辺りに「明石駅」が開設されました。

明石港

南北の道を歩くとジェノバラインの明石港にたどり着きました。

当時の明石駅が担っていた重要な役割が淡路島方面への航路との接続で、ここ明石港からは播淡聯絡汽船の航路が淡路島の岩屋へと出ていました。運営会社は変わりましたが、今もここ明石港からは岩屋へと高速船の航路が出ていて、明石海峡架橋後も日常の足として利用されています。一方、淡路島との連絡の役割を担っていたかつての明石駅はというと、神戸~姫路間の直通運転の開始に伴なう明石駅前の線路が付け替えのために昭和6(1931)年に廃止されてしまいました。今では道路の形状にかすかに線路の名残を感じるのみです。

明石港と淡路島を眺める

明石港から淡路島を眺めてみました。なだらかな丘陵が広がる本土側とは違い、対岸の淡路島側は険しい山々が連なっています。

海の幸に恵まれた明石港、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、明石の東二見駅周辺を歩いてみたいと思います。

御厨神社参道

弘法大師の霊水から少し歩いたところに海から内陸へと真っすぐに伸びる道がありました。「御厨神社」「三神宮」とあるように、こちらは御厨神社の参道です。

御厨神社

道の先にあったのは御厨神社(みくりやじんじゃ)です。

御厨神社の境内

御厨神社の境内は広々としていました。神社の上には秋の空が広がっています。

広く風格のある境内からも感じられるように、東二見の御厨神社は長い歴史を持った古社です。古い資料は焼失してしまったそうで詳しい創建時期は分かっていないそうですが、伝説では神功皇后の三韓征伐にさかのぼるとも言われています。この地の沖合の二見浦に船を停泊させて兵糧を集めた際に、住民が食物を奉ったのがこの場所といわれています。神饌を調進する場所という意味の「御厨」という名前もこの伝説に因んでいるとされていますが、諸説があるようです。

御厨神社の本殿

広い境内の奥には本殿が佇んでいました。

現在は東二見の街中にある御厨神社ですが、かつてはもう少し海沿いの二見漁港にも近い君貢神社の位置にあったと言われています。君貢神社の位置にあった頃には九州・太宰府へ向かう菅原道真が神社に立ち寄って宿泊し、近くの丘を「仮寝の岡」と呼ぶようになったという伝説があります。「卯ノ花ノ森」と呼ばれる現在の位置に移ったのは平安時代の長暦年間(1037~1040年)とのこと。ちなみに、参道の入り口の石碑に刻まれていた「三神宮」は元々の神社に道真の縁あって勧請された天満宮と平安時代に勧請された八幡宮の三つの社を示しています。

楼門から眺めて

楼門越しに南側、参道の方を眺めてみました。現在、御厨神社から海は見えませんが、沿岸が埋め立てられる以前は最初に訪れた参道の入り口のすぐ近くにまで浜が迫っていました。そうした海に近い立地もあって、海運業や漁業に関する参拝者が多いそうで、拝殿には船を描いた絵馬が飾られていました。

来月10月には山陽鉄道フェスティバルが開催されることとなり、注目される東二見。駅から少し足を延ばして、播磨灘の海の幸で栄えた港町の風情が今も残る街並みを訪ねてみてはいかがでしょうか。

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、東二見を歩いてみたいと思います。

東二見の町並み

引き続き、東二見の町を歩いていくことにします。
入り組んだ路地に趣きのある建物が残る街並みからは播磨灘の漁業で賑わった当時の面影を感じることが出来るようでした。

京極稲荷大明神・山野口稲荷大明神

東二見の町を歩いていくと、住宅地の路地に立派な松の木がそびえ立っていました。松の木の下のは二つの小さな社があり、それぞれ京極稲荷大明神・山野口稲荷大明神という名前だそうです。

薬師寺

松の木の近くには寺院がありました。こちらは薬師寺で、「原の薬師さん」と呼ばれて地域では親しまれています。

弘法大師の霊水

薬師寺の傍には川沿いに一段下がった空間があり、お地蔵さんが立っていました。こちらは「弘法大師の霊水」と呼ばれる湧き水です。

伝説では、村人が水に困っていたところ、この地を訪ねた弘法大師が地面を錫杖で突くと水が湧き出したそうです。この湧き水は干ばつでも枯れることがなく、今も千年以上にわたって湧き出し続けているとのこと。また、この湧き水を傍の水かけ地蔵に掛けると願いが叶うとも言われています。

松の木が見守る霊水

霊水の傍にも立派な松の木がそびえたっていて、まるで湧き水を見守っているのかのようでした。

昔ながらの町並みに松の木が印象的な東二見をもう少し歩いてみたいと思います。

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(前編)

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彼岸に入り、暑さのやわらぎ始めた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

東二見駅

山陽電車で着いたのは東二見駅。山陽電車の車庫や車両工場のある拠点となる駅です。
毎年10月末に開催される「山陽鉄道フェスティバル」でもお馴染みの駅ですね。

東二見の町並み

駅の周辺は浜国道が通り賑やかな雰囲気ですが、南の浜側へ向かって歩くと昔ながらの商店が建ち並ぶ街並みが続いていました。

観音寺

浜側へ向かって歩いた先に立派な山門がそびえていました。こちらは観音寺という寺院です。

現在は観音寺という名のこの寺院ですが、もとは法船寺という名前でした。寺の名前が改められたのは江戸時代のことで、境内の観音堂に安置されている観音像にちなんでいるとのこと。この観音像は安土桃山時代の天正9(1581)年と江戸時代の寛政2(1790)年の二回も寺の堂宇を焼く火災に遭っていますが、いずれの火災でも観音堂は無事でした。そのことにちなんで、観音像は「火防観世音」と呼ばれているそうです。

長徳禅寺

観音寺の近くにあったのが長徳禅寺という臨済宗の禅寺で、こちらも安土桃山時代の創建と伝わる古刹です。

清高大明神

長徳禅寺の近くには清高大明神という小さな社が佇んでいました。
東二見は古くから播磨灘の漁業で栄えた地域です。昔ながらの町並みに社や古刹が佇む雰囲気はかつての賑わいを今に伝えるようですね。

次回はもう少し東二見を歩いてみたいと思います。

初夏の錦ヶ浦を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、初夏の魚住を歩いてみたいと思います。

住吉神社の楼門

魚住の住吉神社の境内の海側に佇んでいるのが楼門です。江戸時代前半の慶安元(1648)年に明石の和坂村山崎清左衛門なる人物によって建立されたもので、立派な造りが印象的ですね。

住吉神社の鳥居

楼門の向こうには参道が続いています。松林に囲まれた参道の向こうに佇むのは鳥居で、その向こうには播磨灘が広がっています。住吉神社の前の海は「錦ヶ浦」と呼ばれていて、錦ヶ浦へ向かって伸びる参道はここ魚住の印象的な光景です。

前回も見てきたように、ここ住吉神社の創建は神功皇后が三韓征伐へ向かう途中にこの地へ立ち寄ったことが由来とされています。その際、神功皇后がここで松の枝に衣を干したそうです。その衣が風に風にたなびいてまるで錦のように見えたことからこの地が「錦ヶ浦」と呼ばれるようになったと伝わっています。

錦ヶ浦を眺める

鳥居を通り抜けて、海辺へ出てみました。現在の住吉神社の前は漁港になっていて、多くの漁船が並んでいます。海の向こうには淡路島の山々が霞んでいました。

石灯籠と錦ヶ浦

鳥居の傍から錦ヶ浦を眺めてみました。土手には航路の安全を祈る常夜灯が建てられていました。この美しい別名はこの地が古くから景勝の地だったことを今に伝えているようですね。

もう少しこの景色を眺めていたいと思いましたが、電車の時間が迫って来たので魚住を後にすることにしました。住吉神社ではこれから紫陽花の季節を迎えます。梅雨の晴れ間には、花と海の景色に彩られた古社を訪ねてみてはいかがでしょうか。

初夏の錦ヶ浦を訪ねて(前編)

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梅雨の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽魚住駅

山陽電車で着いたのは山陽魚住駅です。

住吉神社

駅から浜国道を渡り、住宅街を歩いた先にあるのが住吉神社です。

住吉神社の境内

訪ねたのが休日ということもあって、住吉神社の境内は多くの人で賑わっていました。

播磨灘沿岸に住吉という名の神社は数多くありますが、こちらの住吉神社は特に歴史があり、起源ははるか古代に遡るとされています。神功皇后の三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨に遭ったために神功皇后の船はここ魚住へ避難しました。その際に住吉大神を祀ったところ、暴風雨がおさまり、船は進軍を続けることができました。その後、神功皇后は摂津へ住吉大神を祀る神社を築きますが、雄略天皇8(464)年に住吉大神の神託で播磨の地に勧請されたのがこの住吉神社です。

藤の花

境内は藤の名所として知られています。訪れた時は藤の花は終わりかけで、現在は紫陽花の花が見ごろを迎えている頃でしょうか。雄略天皇8(464)年の住吉大神の勧請の際、大藤を切って海に浮かべて神意を伺ったところ「この藤の枝の流れ着く処に、我を鎮祀れ」とお告げがあったとされています。その大藤が流れ着いたのが魚次浜(魚住浜)だったことがこの場所へ社を築いた由来だそうです。藤は住吉神社と縁の深い花なのでしょう。境内の藤は例年4月中旬~5月初めに見ごろを迎えるそうです。

能舞台

境内で目を引くのが松の絵が鮮やかなこちらの能舞台です。江戸時代の寛永4(1627)年に初代明石藩主の小笠原忠政が建立したもので、明石市の文化財に指定されています。訪れた時はちょうど琴の演奏会が開かれていました。こちらの能舞台では毎年5月に能楽の奉納がおこなわれていますが、使われている機会はそれほど多くありません。こうして舞台が使われているのを見られたのは貴重な光景でした。

新緑の眩しい住吉神社から、もう少し初夏の魚住を歩いてみたいと思います。

古代遺跡と的射・藤江を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、藤江を歩いてみたいと思います。

藤江別所遺跡

藤江漁港から青龍神社の方へ戻りました。山陽電車の築堤の下に水道施設があり、その柵の中に石碑がありました。こちらは藤江別所遺跡です。

藤江別所遺跡は弥生~古墳時代頃の祭祀の跡が見つかった遺跡です。さらにこの辺りは「鉄船の森(かなふねのもり)」と呼ばれて、伝説では鉄製の船がこの辺りに沈んだために、鉄分を含んだ水が湧き出すようになったそうです。発掘調査でも鉄分を含む水が湧き出す井戸の跡が見つかったそうです。一説では、この地域を治めていた豪族が鉄分の吹き出す井戸を神聖なものとして扱い、祭祀の場としてしたともいわれています。

御崎神社

藤江別所遺跡から坂道を上ると、神社の境内へ入りました。こちらは御崎神社です。

御崎神社の境内

御崎神社の境内は広々としています。その中で気になる盛り土のようなものがありました。こちらは「藤江の的射」に使われるものです。神事ではこの段々状の土盛りの上に的が据え置かれます。奥のネットは矢が木々の向こうの山陽電車の線路に落ちるのを防ぐためのものです。

「藤江の的射」は毎年1月に御崎神社で開かれる弓矢の神事で、明石市内に残る唯一の弓矢の民俗芸能とのことです。伝説では神々を乗せた船がこの辺りを通りかかった際、船夫が錨を誤ってアカエイの鼻に下ろしてしまいました。怒ったアカエイは船を沈め、船夫は悪霊となりました。この悪霊を鎮めたのが御崎神社の山王権現で、それに因んでこの「藤江の的射」が執り行われるようになりました。

藤江の的射

御崎神社の創建は南北朝時代の応安5(1372)年とされますが、アカエイの伝説は先ほどの「鉄船の森」と結び付けられるような説もあり、祭祀の場としてはとても古い歴史があるのかもしれません。ちなみに、「藤江の的射」は新型コロナウィルス感染拡大の影響で長らく中止が続いてきましたが、2023年は3年ぶりに明後日1月15日に開かれる予定です。

的射は年に一度ですが、住宅地の中に祭祀の場が佇む藤江を歩くと、この地が海の幸の恵みを受けて古くから人々が生活を営む場所だったことが伺えます。まだ寒い季節が続きますが、古式ゆかしい祭祀の地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

古代遺跡と的射・藤江を訪ねて(前編)

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年が明けてから、いつもより暖かい日が続いているこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

藤江駅

山陽電車で着いたのは藤江駅です。

藤江駅前オアシス

駅の店舗があった場所は無料休憩所「藤江駅前オアシス」として地域の方々の憩いの場となっています。山陽電車や明石海峡大橋の描かれた壁画が鮮やかに駅舎を彩っていました。

青龍神社

交通量の多い浜国道を歩くと、道路沿いに鳥居が現れました。青龍神社の鳥居です。

青龍神社の境内

神社は藤江川に切り取られたような小高い丘の上にあります。

この神社自体も鎌倉時代の建長6(1254)年の創建と伝わる古社ですが、神社のある丘は藤江出ノ上遺跡と呼ばれる縄文時代の遺跡となっています。かつては今の浜国道の辺りまで海が入り込んでいたそうです。青龍神社以前にこの場所には厳島神社があったそうで、今も末者として厳島神社が祀られています。はるか古代より海の神を祀る場所だったのかもしれませんね。

龍泉寺

浜国道を渡った先には龍泉寺という禅宗寺院がありました。こちらも青龍神社と同じ建長6(1254)年の創建と伝わる古刹です。

藤江漁港

龍泉寺から住宅地の中を通り抜けると、播磨灘に面した藤江漁港へ出ました。あいにくのお天気のおかげで寒々とした景色ですが、晴れていれば播磨灘と淡路島の島影を望む景色を楽しめたのでしょうね。明石名産のタコやタイが水揚げされるという藤江漁港。この豊かな海の幸が古代の人々の生活を支えてきたのでしょうね。

住宅地の広がる中に古代遺跡の眠る藤江、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

新緑の明石城を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、明石城を歩いてみたいと思います。

石垣の高低差

前回石段を上った辺りを眺めてみました。この辺りは本丸と二ノ丸をつなぐ部分にあたり、橋のように細くなっています。石垣の下を見下ろすと、結構な高さがあることに驚きます。もともとの山肌を削って作られたのでしょうが、すさまじい高低差に驚いてしまいますね。

明石城の二ノ丸

本丸の東隣に広がるのは二ノ丸です。明石城では本丸と同じ高さの二ノ丸が連なっていて、城の南北からの攻撃に備えるために櫓が設けられていました。本丸と同じくやはり櫓は現存せず、広く平らな空間が広がっています。

明石城の東ノ丸へ

低い土塁で二ノ丸と区切られているのは東ノ丸です。もとは全部が二ノ丸だったそうですが、後に分割されて三ノ丸となり、石垣の下の平地に三ノ丸が整備されてからは東ノ丸と呼ばれるようになったそうです。

東ノ丸からの眺め

東ノ丸からは三ノ丸方面からの攻撃に備えたとも言われていて、石垣の上からは明石の街並みと明石海峡大橋を眺めることができました。

近世に築城された明石城は明石や東播地域を広く治め、播磨灘を望む要衝の守備を担っていました。そんな城が役目を終えたのは近代に入った明治6(1873)年のこと。廃城となった城は大蔵省の所管となりましたが、後に民間に払い下げられて櫓の多くは解体されてしまいました。

明石城から明石市街を見下ろす

改めて、石垣の上から明石の市街地を眺めてみました。

明治に入り、広々とした明石城の二ノ丸や三ノ丸は学校の用地となるなど、城としての姿は失われていきましたが、後に明石公園として整備されたのはこれまでに見て来たとおりです。現在では明石の歴史を今に伝えるだけでなく、市街地の中に広がる緑地として、多くの方の憩いの場となっています。徐々に生活が戻りつつある中で、イベントも開催されるようになってきましたね。これからの季節、明石公園で歴史を感じながら、新緑や庭園を彩る花々を楽しんでみてはいかがでしょうか。

新緑の明石城を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石公園を歩いてみたいと思います。

明石城の石段

樹木屋敷や芝生の広場のある辺りから明石城の本丸へは急な石段を登っていきます。平野に広がる明石の街に建っている明石城は平城のように見えますが、実際は「明石の岡」「赤松山」と呼ばれた丘陵の舌端に築かれた平山城です。そのせいでしょうか、思ったよりも大きな高低差があります。

明石城巽櫓

石段の先には巽櫓がそびえています。明石城の建物の多くは失われていて、現存するのは二基の櫓だけです。こちらの巽櫓は明石城が築城される以前に明石を治めていた船上城から移設されたとされ、一説には船上城の天守だったとも言われています。ただし、築城当初の建物は焼失していて、現在の建物は江戸時代に再建されたものです。

人丸塚

巽櫓の傍には木々が鬱蒼と茂った森がありました。こちらは人丸塚と言われ、平安時代の歌人・柿本人麻呂の墓とされています。もともとこの地には楊柳寺という寺院があり、その寺の境内に柿本人麻呂の墓とされる古墳がありました。明石城の築城の際に寺は移転して現在の月照寺となり、併せて柿本人麻呂を祀る柿本神社が建立されましたが、塚と人麻呂を祀る社はこの地に残され、明石城の守り神となりました。

明石城坤櫓

城の本丸の南西には坤櫓がそびえています。こちらは京都の伏見城から移築されたものとされています。二重破風を持ち大きく立派な櫓で、天守が設けられなかった明石城では天守の代わりに使われたそうです。城内にはこの他にも櫓があり、本丸には四隅に櫓が備えられていましたが、多くは取り壊されてしまい、現存するのは巽櫓・坤櫓だけです。

明石城天守台

天守台は本丸の西側にあり、今では木々に囲まれていました。築城当初はここ本丸に本丸御殿がありましたが、築城からわずか12年後の寛永8(1631)年に焼失。その後は現在のトーカロ球場や芝生広場の位置にあり、城主の私邸の役割を持っていた下屋敷を拡張して行政機能を持たせた「居屋敷曲輪」とし、幕末まで使用されました。

天守台からの眺め

天守台からは坤櫓越しに明石の街並みを見下ろすことができました。
播磨灘とこの丘陵に挟まれた狭い平野に西国街道が通る城下町が広がる明石は今も昔も交通の要衝でした。明石城は当時、幕府が仮想敵とした西国大名の防衛のために築かれたとされています。

次回はさらに新緑の木々に分け入りながら明石城を歩いてみたいと思います。