せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

未来都市の跡~姫路市営モノレールを追う(前編)

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酷暑に大雨の荒々しい天気が続くこの頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。
山陽沿線歴史部の内膳正です。

暑さがほんの少しだけ治まった曇り空の日、姫路を訪れてみました。

三つ目の姫路駅

商業施設や展望デッキができ、なかなか賑やかになった駅前ですが、今回目指すのは山陽百貨店の南側のこちら。整備されて跡形もありませんが、かつて、ここには三つ目の姫路駅、姫路市営モノレール姫路駅がありました。

下町を行く高架

山陽電車の高架橋を潜ったあたりからは高架橋が残っていました。 ところどころ途切れてはいますが、今にもモノレールが走ってきそうな雰囲気です。
姫路市営モノレールは昭和41(1966)年に「姫路大博覧会」の輸送手段として、姫路~手柄山間が開業しました。当初は観光用の目的でしたが、軽量車体を用いるなど高速化にも対応していて、広畑広峰への延伸、姫路市内環状線などが計画され、なんと、兵庫県を縦断して香住鳥取へ路線(!?)まで目論んでいたと言われます。もし実現していれば、兵庫県の交通網は今とは大きく変わっていたことでしょう。

大将軍駅

モノレールの高架橋を辿っていくと現れたのがこの高層ビル。高架橋はビルの中に吸い込まれていきます。このビルは旧住都公団が建設した高尾アパートという集合住宅ですが、モノレールが乗り入れていた3・4階部分には大将軍駅が設けられていました。家の下が駅という便利な立地ですが、モノレールの始発が遅く終電が早かったのと、姫路駅から5分もかからないこととで利用者はほとんどなかったそうです。

反対側より

今にも列車が飛び出してきそうな雰囲気で、モノレールが存在したことを今に伝える建物ですが、駅部分の耐震性に問題があるそうで、近いうちに取り壊されることが決まりました。

線路は続く

大将軍駅から高架橋はさらに伸びていきます。
引き続き、追っていくことにしましょう。

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A:モノレール姫路駅跡
B:高架橋跡
C・D:高尾アパート(大将軍駅跡)


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つはものどもが夢の跡~三木を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、東播・三木を巡っていきたいと思います。

雲龍寺

城山の麓には、雲龍寺という寺院があります。
天徳2(957)年の創建とされる非常に歴史のある寺院で、別所氏の帰依を得ていた由緒正しい古寺ですが、三木合戦で焼失してしまいました。しかし、三木合戦の後に秀吉から寺領の寄進を受けるなど、手厚い優遇を受けることになり発展しました。

別所長治夫妻首塚

広い敷地内には別所長治夫妻の首塚が残されていました。
自害の後を別所長治より託された当時の住職が夫妻の首を譲り受け、この地に塚を築いたと伝えられています。

そういえば、前回黒田官兵衛つながりで…と言っておきながら、黒田官兵衛が出てきていませんね。三木合戦当時、織田軍の参謀役として実績を積んでいた黒田官兵衛はというと、実は三木合戦自体にはあまり深く関わっていません。毛利方についた荒木村重を説得するために荒木氏の居城の伊丹・有岡城を訪れ、幽閉されていたのです。三木合戦で活躍したのは官兵衛の盟友で、やはり織田軍で参謀役として重用されていた竹中半兵衛でした。竹中半兵衛の作戦により三木城はかなり追い詰められることになったわけですが、戦の最中、病で命を落としてしまいました。伊丹城から助け出された黒田官兵衛は竹中半兵衛の死を知り、非常に悲しんだそうです。竹中半兵衛の墓は織田軍の陣があった平井山にあるそうですが、かなり距離があるのでまたの機会に改めることにします。

三木の街並み

城山を降りて三木の市街地を行くと、古い街並みが現れました。
三木合戦の後、三木城には秀吉やその家臣の中川氏、杉原氏などが入れ代わり立ち代わり入ることになりましたが、江戸時代に入って明石藩に編入され、明石城の小笠原氏が治めることになりました。しかし、程なく元和3(1617)年の一国一城令により廃城となります。
城を失った三木ですが、古くから街道の要衝であったことに加え、三木合戦の戦後処理のために秀吉が商工業者への優遇措置を行ったために経済都市として発展していきました。市街地には今でも、当時をしのぶ街並みが残されています。

のこぎりの看板

商工業者の中でも発展したのは鍛冶業で、三木金物として全国に知られるようになりました。
街道筋にはこんなのこぎり型の看板を掲げた商店があります。

旧玉置家住宅

市街地の中でも特に風格があるのが、この旧玉置家住宅です。
文政9(1826)年、当時飛び地領として三木を治めていた上州館林藩(現在の群馬県)の越智松平氏が藩政改革のために設けた切手会所(銀行のような施設)として建てられた建物で、明治に入ってから玉置家の住宅となりました。今は国の登録有形文化財となり、三木市が管理して一般に公開されています。

美嚢川の流れ

見学させていただいた旧玉置家住宅は、間口が狭く奥行きがあるといういかにも町屋という造りで、 奥へ奥へと進むと庭園に行き当たりました。青々とした芝生がまぶしい庭園の向こうには、美嚢川の流れを望むことができます。三木の町が辿ってきた激動の歴史をこの川はどのように眺めてきたのでしょうか。
川面を渡る風で汗を乾かしてから、三木を後にすることにしました。

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A:三木城跡
B:雲龍寺
C:のこぎりの看板の商店
D:旧玉置家住宅


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つはものどもが夢の跡~三木を訪ねて(前編)

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炎暑の候、皆様方におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
山陽沿線歴史部の内膳正です。

前回の黒田官兵衛つながりで三木城を訪れてきました。沿線ちゃうやん!という突っ込みが聞こえてきそうですが、黒田官兵衛に免じて許していただけたらと思います。

神戸電鉄三木上の丸駅

降り立ったのは神戸電鉄粟生線の三木上の丸駅
その名の通り、駅のすぐ裏が三木城跡です。

美嚢川と三木市街

城山からは美嚢川と三木の市街地が望めます。ちょうど、神戸電鉄の電車が鉄橋を通過していきました。

三木合戦図

三木城自体は江戸時代初期に廃城となったために城内に建物は残っていないのですが、こんな看板が。
三木の干し殺し」と言われた三木合戦の絵図です。

室町期の播磨は置塩城を拠点とする赤松氏が治めていました。しかし、戦国期の混乱で力を失い、三木の別所氏御着の小寺氏英賀の三木氏を始めとする多くの豪族が割拠する状況になりました。中でも最も大きな勢力を持っていたのが三木の別所氏であるとされます。これらの豪族は、戦国期の初期には地域内で小規模な衝突を行っていたようですが、天下統一というより大きな時代の流れの中で、中国地方の毛利氏と新興の織田氏、どちらの勢力につくかという選択を迫られるようになりました。
御着・小寺氏は家臣の小寺官兵衛(後の黒田官兵衛)の判断で織田氏方につくことになりましたが、三木の別所氏は一旦は織田方になびいたものの最終的には毛利氏方につくことになりました。
最大勢力だった別所氏が毛利氏についたことで播磨の情勢は一変、毛利氏へ傾いていきます。
別所氏を討つため、織田氏は三木へと兵を進めました。

別所長治公辞世の碑

森閑とした木立の中にこんな碑がありました。
ここは三木城の天守台跡とのこと。

羽柴秀吉率いる織田軍を迎え撃つ三木城を待っていたのは悲惨な籠城戦でした。補給ルートを織田軍に潰され、援軍も絶たれたため、多くの人が餓死したと言われています。

開戦から二年近くたった天正8(1780)年1月、困窮する別所氏に対して秀吉側から出した要求は城主・別所長治を始めとする別所氏一族の自害と引き換えに城兵の命を保証するというものでした。別所長治はその要求を飲み、一族は秀吉からの酒と肴で最後の宴を開き、自害。三木城は開城しました。
石碑の歌は別所長治が自害の際に詠んだ辞世の歌と言われています。

蝉時雨の降り注ぐ城跡はそんな壮絶な歴史があったことが信じられないくらい穏やかな雰囲気でした。
とりあえず、城跡を後にし、三木の市街地を目指すこととしましょう。

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広峰山に黒田家の原点を求めて

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暑い日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
山陽沿線歴史部の内膳正です。

突然ですが、ブログをご覧のみなさんは海派ですか? 山派ですか?
生まれも育ちも山奥の私はバリバリの山派です。
というわけで、今回は夏に向けて山の紹介をさせていただきます。

訪れたのは姫路の広峰山
姫路駅から乗ったバスをその名も「広峰」停留所で降りると、待ち構えているのはかなり本格的な登山道。どうやら広峰山を甘く見ていたようです。

丁石

道沿いにはこんな石碑が。
麓の参道入り口から山腹にある広峯神社までの距離を示す丁石です。
1丁は約109mで、この丁石は「十八丁」まであったので、麓から神社までの距離は約2kmということになります。

広峯神社に

山道を一時間近く歩き、何とか広峯神社に到着しました。

境内からの景色

かなり登っただけあって景色はよく、境内からは姫路の市街地が一望できます。夜には夜景の名所になるとのこと。天気が良ければ四国や和歌山まで見えるそうですが、訪れた時は生憎の曇り空でした。

広峯神社の社殿

広峯神社は古い神社で、 天平5(733)年に吉備真備によって創建されたと伝えられます。ということは、姫路城や姫路の町が姿を現す前からこの地に建っていたということで、非常に長い歴史を持っています。
現在は素戔嗚尊(すさのおのみこと)や五十猛命(いそたけるのみこと)を祭っているのですが、明治以前の神仏習合の考え方では、素戔嗚尊に姿を変えていたとされる牛頭天王(ごずてんのう 別名・祇園神)を祭っていました。そのことから祇園社の総本宮とされます。同じく素戔嗚尊を祭る京都・八坂神社と何だか被っているような気がしますが、どうやら諸説があるようで、今も論争になっているそうです。

御師屋敷

神社から少し歩いた山の中には古い民家がありました。
神社に仕え、神符や暦を売り歩いていたとされる御師(おし)の家でしょうか。

黒田官兵衛を生んだ黒田家は、備前・福岡から流れてきたのち、ここ姫路で一族に代々伝わる目薬「玲珠膏(れいじゅこう)」を売って財を成したと言われています。
その目薬の販売に貢献したのがこの御師のもつネットワークでした。
先述のように、広峯神社は長い歴史を持つ神社で、その信徒は播磨だけでなく西日本に広く存在していました。 目薬を御師の販売ラインナップに加えてもらったことで、巨大なマーケットと広峯神社の御利益というプレミアを手にすることができ、黒田家の目薬は生産が間に合わないくらい売れに売れたそうです。
目薬の売り上げで、流れ者だった黒田家は有力豪族へと成長し、やがて当時姫路を治めていた御着小寺家に召し抱えられることになりました。
そうした意味では、ここ広峯神社は姫路での黒田家、並びに黒田官兵衛の原点と言っても過言ではありません。

現在、広峰山では目薬の販売はされていないのですが、夏でもさわやかな風が吹く広峰山で、神社の長い歴史や黒田家に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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幻の中世都市・英賀を訪ねて(後編)

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こんにちは、内膳正です。
引き続き、英賀の町を歩いていきます。(前回までの記事はこちらへ前編中編

田井ヶ浜

英賀神社から南に向かい、山陽電車の高架橋をくぐったところ。今は駐車場や住宅地になっていますが、この辺り、中世には田井ヶ浜と呼ばれる英賀の港でした。今となっては想像することも難しいのですが、かつてはここまで播磨灘が広がっていたのです。

田井ヶ浜之址碑

埋め立てなどでかつての面影は完全に失われていると思ったのですが、近くにあったお地蔵さんの境内に「水城 英賀城之港 田井ヶ浜之址」と刻まれた石碑がありました。この碑自体は後世に建てられたもののようですが、ここが港だったことを今に伝えています。

広辻口跡

英賀の町の東部にあったとされる本丸跡を探して水尾川沿いを歩いていると、また石碑を発見しました。この碑にある「広辻口」は英賀のほぼ東端にあった木戸口です。ということは、本丸跡は完全に行き過ぎているということに…。とりあえず、来た道を戻ることにしました。

英賀の末期は戦いに翻弄されました。
天正3(1575)年の英賀合戦では黒田官兵衛率いる小寺軍と、播磨への進出のために姫路城を狙う毛利水軍三木氏との連合軍とが激しく戦いました。司馬遼太郎『播磨灘物語』にはわずかな兵と農民たちに旗を持たせた擬兵を用いて毛利水軍を撃退した官兵衛の華麗な戦法が描かれています。

天正8(1580)年の英賀攻めでは、東播の三木城を落として中国地方への進軍を開始した秀吉軍の攻撃を受けることになりました。四方を川や堀、海に囲まれた英賀の守りは非常に堅固でしたが、開戦翌日の夜、秀吉の策略にかかった三木氏の一部が城内に敵を誘導してしまい、城内は混乱。そこへ秀吉軍が火を放ったために、城も町も火の海となり、一夜にして灰燼に帰しました。

英賀城本丸跡

広辻口跡から住宅地の中を歩いていると、英賀城本丸跡の石碑を見つけました。
考えていたよりも東にあるような気がしましたが、ここが英賀城の本丸だったようです。
ただし、周りは古い住宅街が広がるばかりで、石碑以外に当時を偲ばせるものは何もありません。
何かないかと周辺を散策してみましたが、あきらめて、職人や商人で賑わった町や、この地で戦い散っていった武士たちに思いをはせながら、西飾磨駅に向かうこととしました。

中世の播磨に栄え、そして、消えていった幻の中世都市・英賀を三回に渡って歩いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
そろそろ梅雨明けも間近、この夏は英賀を歩いて、みなさんなりの中世都市の姿を思い描いてみるのもいいかもしれません。
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