せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

川面に映る街並み・因幡街道平福を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、因幡街道沿いに街並みの残る平福を歩いてみたいと思います。

利神城跡

平福陣屋跡からは利神山を望むことができました。山の上にはかつて平福を治めた利神城(りかんじょう)の石垣が残されていて、山麓からもはっきりと城跡を望むことができます。

利神山に城が築かれたのは平福の町が整備される前、南北朝時代のことです。播磨守護赤松氏の一族の別所敦範なる人物が利神山の上に山城を築いたのが始まりでした。その後、安土桃山時代の終わりの池田輝政の甥の池田出羽守由之が城とともに城下町を整備したのは前回訪ねてきたとおりですね。整備された頃の利神城は三層の天守が備えられた立派なもので、天守が雲海の上に浮かぶように見えたことから「雲突城(うんとつじょう)」という別名もあったそうです。城の完成を聞いて平福を訪ねた輝政は山上にそびえる立派な天守に驚き、幕府に警戒されることを恐れて即刻破却するように命じたほどでした。実際に、由之が備前国の下津井城へ城番として移ると天守を始めとした利神城の主な建物の多くは取り壊されてしまいました。

平福の街並み

陣屋跡から今度は平福の北側を歩いてみることにしました。うだつのある民家や醤油蔵が建ち並び、こちらにも宿場町の面影を感じる街並みが続いています。

山上の利神城が破却されたのちも山麓には城主屋敷が残され、江戸時代の元和元(1615)には輝政の六男の輝興が平福の地を与えられて平福藩が立藩しました。しかし、輝興が赤穂藩を継ぐこととなり平福を離れると平福藩はわずか16年で廃藩となります。平福が城下町だった期間はわずかですが、整備された町は宿場町として発展する基礎になっていったのでしょう。

利神城石塁

街並みから佐用川を渡った先に草に覆われた土手が残されていました。こちらは利神城の石塁の跡です。町人町から川を隔てたこの辺りには城主屋敷や武家屋敷が建ち並んでいましたが、今は田畑になっています。

登城道跡

石塁の向こうにはかつての登城道が続いています。しかし、木々に覆われた沢筋のようになっていて、歩くことはできないそうです。また、山上の城郭も石垣が崩れる危険があるために今は一部のツアーを除いて立ち入りはできません。

石塁を横切る智頭急行

石塁は智頭急行の建設の際に取り壊されていて、今は線路が横切っています。ちょうど京阪神と鳥取を結ぶ特急列車が高速で通過していきました。

平福を眺めて

平福の街中に戻り、川の畔から街並みを眺めてみました。

かつては城下町、そして、宿場町として大いに栄えた平福。山間に静かにたたずむ街には今も賑やかだった頃を偲ばせる趣ある街並みが残されていました。

川面に映る街並み・因幡街道平福を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、因幡街道の平福を歩いてみたいと思います。

川面に映る街並み

佐用川沿いの街並みを眺めてみました。
特に趣のある三軒は兵庫県の景観形成重要建造物に指定されているそうです。真ん中の瓜生原家住宅は古くから鋳物業を営んでいたそうで、現在は蕎麦屋となっています。

平福の街並み

街道側へ戻り、平福の街並みを眺めてみます。落ち着きがある街並みが続いているだけでなく、観光客も多くはないため、ゆっくりと街道沿いの街並みを眺めて歩くことができました。

平福の街が整備されたのは安土桃山時代の末頃からと言われています。慶長8(1600)年、当時の姫路城主の池田輝政の甥の池田出羽守由之が平福の町の東側の利神山にあった城を姫路城の支城として整備し、山麓に城主や武士の屋敷、町人町を整備して城下町として整えたことが始まりです。江戸時代の元和元(1615)年に一帯は平福藩として立藩し、平福は城下町として栄えることとなりました。しかし、寛永8(1631)年には早くも平福藩は廃藩となってしまい、城下町は因幡街道の宿場町として残されることになります。

武蔵初決闘の場

宿場町の外れへ歩くと、六地蔵が立ち並ぶ古い墓地がありました。この辺りは美作出身という説もある宮本武蔵が初めて決闘をして見事に勝利した場所と言われていて、石碑が建てられています。

平福陣屋跡

武蔵初決闘の場から国道沿いに歩くと擁壁の上に立派な門がありました。こちらは平福陣屋跡で、智頭急行の車窓からもよく目立つ平福のシンボルのような建物です。平福藩が廃藩になった後、平福は旗本の松平氏が治めることになり、平福陣屋が築かれました。門の向こうは駐車場になっていて陣屋の建物は失われていますが、幕末の元治元(1864)年に建てられた門が今も平福の町を見守るようにそびえています。

城下町から宿場町へと町の在り方を変えながら栄えてきた平福の町、もう少し歩いてみたいと思います。

川面に映る街並み・因幡街道平福を訪ねて(前編)

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松の内が明けてお正月気分もすっかり遠くなってしまった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

平福駅

山陽姫路駅から列車を乗り継いで着いたのは佐用町にある智頭急行平福駅です。

平福の街並みを眺めて

佐用川の畔にある平福は佐用町の北の山間にあります。古くから宿場町として栄えた町で、駅からも趣のありそうな街並みが望めますね。

平福本陣跡

駅前から街中に入ると立派な門が佇んでいました。こちらは平福本陣跡です。

平福は現在は佐用町の一地区となっていますが、近世には姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の最大の宿場町として大いに栄えた町です。長らく鉄道が通らなかったために市街化が進まず、古くからの街並みが今も残されています。本陣とはおもに大名が参勤交代などの際に宿泊していた宿で、こちらの本陣は鳥取藩の藩主が使っていたものでした。本陣として整備されたのは江戸時代の初めの寛永頃、当時の鳥取藩主・池田光仲によるものとされています。ただ、歴代の鳥取藩主は参勤交代では平福の北側の大原智頭で宿泊することが多かったそうで、ここ平福の本陣で宿泊することは少なかったそうです。

平福本陣の内部

門をくぐった先は社のある庭園となっていました。平福本陣の建物などは失われ、跡地は街の北側にある素戔嗚尊神社の御旅所として使われています。立派な門は平成になってから復元されたものだそうです。

佐用川沿いの景色

平福を代表する景色がこちらの佐用川沿いの景色です。街道の街並みと言えば道沿いの景色のイメージですが、ここ平福では街道沿いの景色だけでなく、いわば裏側の街並みの景色も楽しめるのが他にはないものと言えるでしょうか。

佐用川沿いに美しい街並みの残された平福をもう少し歩いてみたいと思います。

えびす祭と兵庫津・柳原を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、兵庫の柳原を歩いてみたいと思います。

福海寺

大黒祭が執り行われていたのは福海寺です。

福海寺は南北朝時代の康永3(1344)年の建立と伝わる古刹です。柳原蛭子神社と並ぶように佇んでいますが、実はこちらの方が長い歴史を持っています。建立は足利尊氏とされ、建立以来足利将軍家の信仰を深く集めていました。元々この場所には針ヶ崎観音堂というお堂がありました。新田義貞に追われた足利尊氏がこの観音堂で匿われて九州へ逃れ、再び兵庫の港に戻って京都へ上り幕府を開いたことから、ここ兵庫の海が尊氏にとって「福の海」であるとして、観音堂を今のような寺院として、この寺号に定めたとも言われています。

西惣門跡

柳原蛭子神社のある角には「西惣門跡」と刻まれた石碑がありました。この辺りはかつては兵庫津の街で、柳原蛭子神社や福海寺のある辺りには西国街道の兵庫への入り口となる西惣門がありました。明治時代初めころまで福海寺は堀と塀で囲まれた砦のような姿で、街を防御するための拠点としての性格も持っていたそうです。

兵庫大仏

福海寺から西国街道を歩き、能福寺を訪ねました。こちらも平安時代の延暦24(805)年に最澄が建立したとされる古刹で、明治時代に建立された兵庫大仏は兵庫のシンボルのような存在ですね。

兵庫運河

能福寺から少し歩くと兵庫運河に差し掛かりました。商業施設の向こうには兵庫津ミュージアムが開館しています。ちょうどこの辺りには兵庫の街の代官所としての機能を持つ兵庫城がありました。近代以降、港の中心は徐々に東へと移っていくこととなりますが、この街の持つ歴史と繁栄が今の柳原えびすの賑わいを支えたのですね。

兵庫運河の穏やかな水面を眺めてから、畔にある中央市場前駅から地下鉄に乗って帰途に就くことにしました。

えびす祭と兵庫津・柳原を歩いて(前編)

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新年あけましておめでとうございます
本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします

柳原えびす

遅くなってしまいましたが、今年の散策を始めることにしました。
まだお正月気分が残る中、神戸高速線の大開駅から歩いて着いたのは兵庫区の西柳原町です。
JR兵庫駅にほど近い場所に鎮座しているのは「柳原えびす」こと柳原蛭子神社(やなぎわらひるこじんじゃ)です。

十日えびす

柳原蛭子神社が特に賑わうのは正月明けの1月9日から11日まで「十日えびす大祭」です。訪れたときは祭りを間近に控えて境内に色鮮やかな提灯が飾られていました。

兵庫県でえびす神社と言えば西宮の西宮神社が知られています。もともと蛭子神はイザナギ・イザナミの最初の子が不具の子であったために葦の船に乗せられて流されたものとされ、船が流れ着いた先で海の神となりました。のちに蛭子神は農業や商業の神としてまつられるようになり、えびす神を商業の神として信仰するえびす講が広まるようになりました。

柳原蛭子神社の境内

柳原蛭子神社の境内も色とりどりの提灯で飾られていました。

現在、阪神間を中心に1月10日や15日頃に行われている「十日えびす」はえびす講の親交の広まりの中で10月や1月におこなわれるようになったえびす祭が変化していったといわれています。ここ柳原に蛭子神社が建立された時期ははっきりとわかっていませんが、江戸時代初め頃には神社があったという記録があり、神社がある兵庫の街が発展するとともに「十日えびす大祭」も執り行われるようになったとされています。

福海寺

柳原蛭子神社の北側の道はかつての西国街道です。かつての街道を挟んで佇んでいたのは「柳原大黒天」こと福海寺です。大黒天を安置するこちらの寺では「十日えびす」と同じ期間に大黒祭が執り行われ、多くの参拝客で賑わいます。

「十日えびす」で賑わう柳原をもう少し歩いてみることにしました。