せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

智頭往来の宿場町・智頭を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、因幡街道の智頭を歩いてみたいと思います。

興雲寺

石谷家住宅を出て、智頭往来を歩くと寺院がありました。こちらは興雲寺という古刹です。もともとは智頭の街の東側にある牛臥山の麓にありましたが、文禄2(1593)年に「高麗水」という洪水で埋まり、再建後も無住の寺院となっていました。現在の位置に移されて復興したのは寛永2(1625)年とされています。

興雲寺を眺める

石段の下に立つと、山々を背景に瓦屋根の本堂が佇んでいるのを眺めることができました。興雲寺が発展することになったのは復興後間もない江戸時代の寛永9(1632)年のことでした。国替えで初代鳥取藩主となった池田光仲がこの寺に泊まり、父である池田忠雄の位牌を祀ったことがきっかけです。以後、興雲寺の寺領は鳥取藩に安堵され、発展していくことになりました。

御本陣跡

智頭往来を外れて街中を歩くと、石碑のある広場がありました。こちらは御本陣跡です。

因幡街道最大と言われた宿場町である智頭には鳥取藩主が参勤交代の際に宿泊する本陣が置かれていました。藩主が江戸へ向かう際には智頭は鳥取を出て最初に宿泊、鳥取へ戻る際には最後に宿泊する大切な場所でだったそうです。藩主と所縁のある興雲寺があることもあって、智頭は鳥取藩にとって重要な宿場町だったのでしょう。もともと交通の要衝であったこともあり、江戸時代の智頭は大変な賑わいとなったそうで、鳥取藩から逗留禁止のお触れが出されるほどだったと言われています。

中町公民館

御本陣跡の傍には洋風建築の建物がありました。こちらは中町公民館です。宿場町と言えば近世以前の建物が残されているイメージがありますが、石谷家住宅もそうですが、ここ智頭では近代以降の建物も目立ち、宿場町でなくなり交通が移り変わってからも発展していったことがわかります。

千代川を眺める

千代川に架かる備前橋から智頭の街並みと山々を眺めてみました。

備前橋を渡ると智頭駅は間近です。上郡へと戻るディーゼルカーで宿場町、そして、林業の街として発展してきた街を後にすることにしました。

川面に映る街並み・因幡街道平福を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、因幡街道沿いに街並みの残る平福を歩いてみたいと思います。

利神城跡

平福陣屋跡からは利神山を望むことができました。山の上にはかつて平福を治めた利神城(りかんじょう)の石垣が残されていて、山麓からもはっきりと城跡を望むことができます。

利神山に城が築かれたのは平福の町が整備される前、南北朝時代のことです。播磨守護赤松氏の一族の別所敦範なる人物が利神山の上に山城を築いたのが始まりでした。その後、安土桃山時代の終わりの池田輝政の甥の池田出羽守由之が城とともに城下町を整備したのは前回訪ねてきたとおりですね。整備された頃の利神城は三層の天守が備えられた立派なもので、天守が雲海の上に浮かぶように見えたことから「雲突城(うんとつじょう)」という別名もあったそうです。城の完成を聞いて平福を訪ねた輝政は山上にそびえる立派な天守に驚き、幕府に警戒されることを恐れて即刻破却するように命じたほどでした。実際に、由之が備前国の下津井城へ城番として移ると天守を始めとした利神城の主な建物の多くは取り壊されてしまいました。

平福の街並み

陣屋跡から今度は平福の北側を歩いてみることにしました。うだつのある民家や醤油蔵が建ち並び、こちらにも宿場町の面影を感じる街並みが続いています。

山上の利神城が破却されたのちも山麓には城主屋敷が残され、江戸時代の元和元(1615)には輝政の六男の輝興が平福の地を与えられて平福藩が立藩しました。しかし、輝興が赤穂藩を継ぐこととなり平福を離れると平福藩はわずか16年で廃藩となります。平福が城下町だった期間はわずかですが、整備された町は宿場町として発展する基礎になっていったのでしょう。

利神城石塁

街並みから佐用川を渡った先に草に覆われた土手が残されていました。こちらは利神城の石塁の跡です。町人町から川を隔てたこの辺りには城主屋敷や武家屋敷が建ち並んでいましたが、今は田畑になっています。

登城道跡

石塁の向こうにはかつての登城道が続いています。しかし、木々に覆われた沢筋のようになっていて、歩くことはできないそうです。また、山上の城郭も石垣が崩れる危険があるために今は一部のツアーを除いて立ち入りはできません。

石塁を横切る智頭急行

石塁は智頭急行の建設の際に取り壊されていて、今は線路が横切っています。ちょうど京阪神と鳥取を結ぶ特急列車が高速で通過していきました。

平福を眺めて

平福の街中に戻り、川の畔から街並みを眺めてみました。

かつては城下町、そして、宿場町として大いに栄えた平福。山間に静かにたたずむ街には今も賑やかだった頃を偲ばせる趣ある街並みが残されていました。

川面に映る街並み・因幡街道平福を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、因幡街道の平福を歩いてみたいと思います。

川面に映る街並み

佐用川沿いの街並みを眺めてみました。
特に趣のある三軒は兵庫県の景観形成重要建造物に指定されているそうです。真ん中の瓜生原家住宅は古くから鋳物業を営んでいたそうで、現在は蕎麦屋となっています。

平福の街並み

街道側へ戻り、平福の街並みを眺めてみます。落ち着きがある街並みが続いているだけでなく、観光客も多くはないため、ゆっくりと街道沿いの街並みを眺めて歩くことができました。

平福の街が整備されたのは安土桃山時代の末頃からと言われています。慶長8(1600)年、当時の姫路城主の池田輝政の甥の池田出羽守由之が平福の町の東側の利神山にあった城を姫路城の支城として整備し、山麓に城主や武士の屋敷、町人町を整備して城下町として整えたことが始まりです。江戸時代の元和元(1615)年に一帯は平福藩として立藩し、平福は城下町として栄えることとなりました。しかし、寛永8(1631)年には早くも平福藩は廃藩となってしまい、城下町は因幡街道の宿場町として残されることになります。

武蔵初決闘の場

宿場町の外れへ歩くと、六地蔵が立ち並ぶ古い墓地がありました。この辺りは美作出身という説もある宮本武蔵が初めて決闘をして見事に勝利した場所と言われていて、石碑が建てられています。

平福陣屋跡

武蔵初決闘の場から国道沿いに歩くと擁壁の上に立派な門がありました。こちらは平福陣屋跡で、智頭急行の車窓からもよく目立つ平福のシンボルのような建物です。平福藩が廃藩になった後、平福は旗本の松平氏が治めることになり、平福陣屋が築かれました。門の向こうは駐車場になっていて陣屋の建物は失われていますが、幕末の元治元(1864)年に建てられた門が今も平福の町を見守るようにそびえています。

城下町から宿場町へと町の在り方を変えながら栄えてきた平福の町、もう少し歩いてみたいと思います。

川面に映る街並み・因幡街道平福を訪ねて(前編)

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松の内が明けてお正月気分もすっかり遠くなってしまった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

平福駅

山陽姫路駅から列車を乗り継いで着いたのは佐用町にある智頭急行平福駅です。

平福の街並みを眺めて

佐用川の畔にある平福は佐用町の北の山間にあります。古くから宿場町として栄えた町で、駅からも趣のありそうな街並みが望めますね。

平福本陣跡

駅前から街中に入ると立派な門が佇んでいました。こちらは平福本陣跡です。

平福は現在は佐用町の一地区となっていますが、近世には姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の最大の宿場町として大いに栄えた町です。長らく鉄道が通らなかったために市街化が進まず、古くからの街並みが今も残されています。本陣とはおもに大名が参勤交代などの際に宿泊していた宿で、こちらの本陣は鳥取藩の藩主が使っていたものでした。本陣として整備されたのは江戸時代の初めの寛永頃、当時の鳥取藩主・池田光仲によるものとされています。ただ、歴代の鳥取藩主は参勤交代では平福の北側の大原智頭で宿泊することが多かったそうで、ここ平福の本陣で宿泊することは少なかったそうです。

平福本陣の内部

門をくぐった先は社のある庭園となっていました。平福本陣の建物などは失われ、跡地は街の北側にある素戔嗚尊神社の御旅所として使われています。立派な門は平成になってから復元されたものだそうです。

佐用川沿いの景色

平福を代表する景色がこちらの佐用川沿いの景色です。街道の街並みと言えば道沿いの景色のイメージですが、ここ平福では街道沿いの景色だけでなく、いわば裏側の街並みの景色も楽しめるのが他にはないものと言えるでしょうか。

佐用川沿いに美しい街並みの残された平福をもう少し歩いてみたいと思います。

清和源氏発祥の地・多田を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、多田を歩いてみたいと思います。

多田神社の境内

石段を上った先の多田神社の境内は広々としていました。奥には檜皮葺の本殿がそびえています。現在の本殿は戦国時代に焼失したものを再建したものですが、それでも建てられたのは江戸時代の初めの寛文7(1667)年の建築で、歴史ある神社らしい趣があります。

前回も見てきたように多田神社は天禄元(970)年に源満仲が邸宅を築いたことが始まりとされています。確かに、猪名川を見ろす高台に位置する神社の境内はまるで砦のような雰囲気にも思えますね。ちなみに、先日訪れた妙見山に祀られる鎮宅霊符神(妙見大菩薩)は満仲の邸宅に祀られていた神像を妙見山に遷したことが始まりとされています。

満仲・頼光両公神廟

境内の奥には満仲・頼光両公の神廟がありました。満仲の息子の頼光は大江山の酒呑童子や土蜘蛛の退治の伝説で知られています。

鎌倉時代の源氏の幕府の成立によって清和源氏発祥の地とされる多田院には多数の寺坊が建てられて非常に栄えましたが、その後、将軍家の断絶やこの地を治めた「多田源氏」が没落し、次第に衰退していきました。しかし、「清和源氏発祥の地」ということは一種のブランドのようなもので、その後、多田荘園の地頭職に就いた鎌倉幕府執権の北条氏は多田院の再興に貢献しました。その後、室町幕府になっても足利将軍家の庇護を受けて発展していきます。

鬼首洗の池

境内には「鬼首洗の池」という物々しい名前の池がありました。こちらは源頼光が丹後・大江山の酒呑童子を退治して都へ戻る途中にここ多田へ立ち寄り、酒呑童子の首を洗い清めたという伝説のある池です。多田院に頼光が祀られるようになったのは北条氏による再興の頃からと言われています。

戦国時代の天正5(1577)年には織田信長の甥の織田信澄の軍勢によって火がはなたれ、本殿をはじめとした多田院の堂宇は焼失し、境内は荒廃してしまいます。しかし、江戸時代に入ると清和源氏にルーツを持つという徳川氏の大きな庇護を受けるようになって「西日光」とまで呼ばれるようになりました。

猪名川渓谷

多田神社を出て、神社の前の御社橋の上に出てみました。この辺りは「猪名川渓谷」と呼ばれていて、川を見下ろしてみると岩場が露出した荒々しい景色が広がっていました。

西日光」を眺めて

御社橋を渡って、多田神社を振り返って眺めてみました。朱塗りの橋の向こう、川を見下ろす高台に南大門を始めとした瓦葺の建物が並ぶ光景は「西日光」と呼ばれた威容を今に伝えるようです。

帰り際にもう一度、猪名川渓谷の川面を見下ろして能勢電鉄の多田駅へと戻ることにしました。

清和源氏発祥の地・多田を歩いて(前編)

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紅葉の盛りも過ぎつつあり、年末が迫る頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

多田駅

妙見山を訪ねる途中に立ち寄ったのは能勢電鉄多田駅です。

多田御社道の碑

駅前からは石畳の道が伸びていて、道路脇には「多田御社道」と刻まれた石碑が佇んでいました。

猪名川

駅前からまっすぐ伸びる道を歩いていくと、猪名川のほとりに出ました。

多田神社

猪名川沿いの住宅地の中を歩いていると、立派な石垣が現れ、急な石段の上には楼門がそびえています。こちらは多田神社です。

多田神社の歴史は非常に古く、平安時代に遡るといわれています。天禄元(970)年、清和源氏興隆の祖とされる源満仲がこの地に居館を構えて、多田院鷹尾山法華三昧寺(多田院)という寺院を建立したことが始まりとされています。現在の多田神社は神道の神社ですが、明治時代まで千年近くの間は寺院で、この周辺の地名には今も「多田院多田所町」「多田院西」のように「多田院」の名前が残されています。現在では源満仲から曾孫の義家までの五代を祀り、清和源氏発祥の地とされています。

南大門

石段を上がると南大門がそびえていました。神社になった今でも建物の呼び名には仏教寺院だった頃の名残が残されています。

次回も多田の地を歩いてみたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、能勢の妙見山を歩いてみたいと思います。

信徒会館「星嶺」

紅葉の参道を歩いていると、突然ガラス張りの巨大な現代建築が現れました。こちらは能勢妙見山の信徒会館の「星嶺」という施設です。ガラス張りの外観は妙見菩薩の降臨や北極星を表現しているとのこと。通常は公開されていないようですが、月例法要や行事の際には一般の参詣客も中に入ることができるそうです。見上げるような高さで、上階からの眺めは気持ちが良さそうですね。

能勢妙見山の山門

信徒会館「星嶺」を回り込むと能勢妙見山の山門が現れました。

能勢妙見山

山門から階段を降りると能勢妙見山の境内です。妙見山の山頂から少し下った狭い平地に堂宇や売店、寺務所が建ち並んでいます。

奈良時代に開かれたこの山に鎮宅霊符神(妙見大菩薩)が祀られるようになったのは前回もご紹介したように平安時代、清和源氏の始祖とされる源(多田)満仲が邸宅に祀っていた神像をこの場所へ遷したことが始まりでした。その後、満仲の孫の源頼国はこの能勢の地を領地として能勢氏を名乗るようになります。安土桃山時代に当主をつとめた能勢頼次は本拠地だった丸山城(妙見山の北側)が織田信長の軍勢に攻め落とされたのに伴って当時は為楽山と呼ばれていた妙見山に城を築くとともに、織田方の明智光秀の配下に入りました。しかし、天正10(1582)年、本能寺の変が起こります。頼次は明智方につきますが羽柴秀吉に敗れ、能勢の地へと攻め込む軍勢を避けるために備前へと落ち延びていきました。

能勢妙見山の本殿

境内の一角に本殿がありました。ケーブルカーで上ってきた参詣客や登山者が列をなしてお参りをしていました。能勢妙見山は寺院ですが、神仏習合の名残が色濃く残り、こちらのお堂も「本殿」、別名「開運殿」とどこか神社風です。

本能寺の変で先祖代々所領としてきた能勢の地を失った能勢氏ですが、関ヶ原の戦いの功でこの地、能勢へ戻り、妙見山の北側の山麓に真如寺を開きました。また、妙見山上の城跡にはこの開運殿を開いて山の名前を為楽山から妙見山へ改めました。江戸時代には妙見菩薩や北極星信仰の聖地として広く知られるようになり、多くの参詣客が訪れるようになりました。山上にはかつての旅館が売店になっていたり空き家となっていたりしながら残されていて、かつての賑わいを今に伝えているようです。

能勢の山々を眺める

信徒会館「星嶺」の前へ戻り、能勢の山々や街並みを見下ろしてみました。
丹波高地の南に位置する妙見山はとても深く、どこか神々しさを感じるような気がします。深い深い山へと鉄道やケーブルカーを敷設した先人たち、そして、この場所を憩いの場として育んできたたくさん人々に思いをはせながら去りゆくケーブルカーやリフトを見送りたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、能勢の妙見山を訪ねてみたいと思います。

妙見の森リフト

妙見の森ケーブルで着いたのは妙見の森と呼ばれるエリアで、バーベキュー場などがあり、山上のちょっとした行楽地となっています。ここからは妙見の森リフトに乗り換えて山上を目指します。この妙見の森リフトも戦前に開業した当初はケーブルカーで、現在も運行されている妙見の森ケーブルが「下部線」、リフトになっている山上側が「上部線」と呼ばれていて、二本のケーブルカーを乗り継いで山上へ向かっていました。戦後に路線が復活する際、上部線は建設コストの削減のためにリフトに変更されたようです。

山上への道

紅葉を眺めながら妙見の森リフトに乗って妙見山駅に着きました。ここからは木立の中の山道で妙見山を目指します。

奈良時代に開かれ、北極星信仰の聖地として古くから信仰を集めていた能勢妙見山のアクセスには古くから「妙見街道」と呼ばれる道がありました。現在のケーブルカーとリフトを乗り継ぐルートのやや南東の初谷川に沿った道で、終盤の妙見山付近は非常に険しい道が続いています。現在ではケーブルカーとリフトが公共交通機関でのアクセスのメインですが、山上へは車道も通じていて、乗用車でもアクセスできるほか、以前は山麓の豊能町や茨木だけでなく梅田や京都からも直通のバスが運行されていました。

鳥居跡

リフトの妙見山駅から木立の中を歩いていると丸い礎石が現れました。こちらは鳥居跡です。大正14(1925)年に妙見鋼索鉄道の上部線と下部線のケーブルカーが開業すると、参拝のルートが街道からケーブルカーの駅からの道がメインとなったためこの場所にも鳥居を設けたそうです。ただし、当時の鳥居は戦時中の昭和19(1944)年にケーブルカーがいったん廃止されたさいに撤去されてしまいました。

能勢妙見山へ

木立の中を通り抜けると、休憩所や商店などが現れ、少し賑やかな雰囲気となりました。こちらは能勢妙見山の門前です。

能勢妙見山の歴史は奈良時代にさかのぼるとされています。当時は為楽山(いらくさん)と呼ばれていた妙見山に僧・行基が北辰星(北極星)を祀り、大空寺という寺院を開いたのが始まりとされています。その後、鎮宅霊符神(妙見大菩薩)を深く信仰していた源満仲が屋敷に祀っていた神像をこの山へ遷し、妙見大菩薩と北極星信仰の聖地となりました。

境内の紅葉

ちょうど紅葉の始まりの時期で、境内は鮮やかに彩られていました。

間もなくお別れとなるケーブルカーとリフトで訪ねた妙見山をもう少し歩いてみたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(前編)

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そろそろ紅葉の季節を迎えるころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

妙見口駅

阪急宝塚線の川西能勢口から日生中央行きの能勢電鉄に乗り換え、さらに山下駅で乗り換えて着いたのは妙見線の終点の妙見口駅です。能勢電鉄の沿線には住宅地が広がっていましたが、妙見口駅の周辺はのどかな里山が広がっています。

吉川の里

妙見口駅から歩くことにしました。道沿いには田畑が広がり、柿が実っています。

ケーブル黒川駅

妙見口駅から15分ほどで妙見の森ケーブル黒川駅に着きました。妙見口駅は大阪府豊能町ですが、歩いている間に県境を越えて、ケーブル駅があるのは兵庫県川西市です。

能勢電鉄と妙見の森ケーブルはこの先、能勢妙見山への参拝客輸送の目的で開業したのが始まりでした。妙見線が妙見駅(今の妙見口駅)まで開業したのは大正12(1923)年で、能勢電気軌道(今の能勢電鉄)と地元有志の出資する妙見鋼索鉄道のケーブルカーが開業したのは大正15(1925)年のことでした。鉄道とケーブルカーの開業で能勢の山深くにある能勢妙見山への交通アクセスは飛躍的に向上しました。しかし、太平洋戦争中の昭和19(1944)年に妙見鋼索鉄道のケーブルカーは不要不急路線として廃止。レールなどは資材として供出されてしまいました。

妙見の森ケーブル

現在の妙見の森ケーブルは戦後の昭和35(1960)年に妙見ケーブルとして復活したものですが、令和5(2023)年12月3日の営業をもって廃止となることが決まっています。別れを惜しむ人たちでケーブルは混雑していて、15分ほど並んでようやくケーブルカーに乗ることができました。

お別れの迫るケーブルカーに乗って能勢妙見山を訪ねてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河の集落をかつての湯山街道が貫いています。新しい家々が建ち並んでいますが、緩く曲がった古い道の雰囲気が今も残されています。

街道の道標

街道沿いに古い道標が立っていました。苔むした道標には「有馬大坂」「山田兵庫」という文字が刻まれています。ここ淡河は東播と有馬温泉、大坂を結ぶ東西の湯山街道と兵庫への南北の街道が交わる交通の要衝でした。

戦国時代、三木合戦の戦いの中で淡河を治めていた淡河城羽柴秀吉の手により落城してしまいました。しかし、合戦後の天正7(1579)年、秀吉は淡河に定期市を開くことを許し、市に対して税を取らない楽市とする制札を立てました。戦いの舞台となった淡河でしたが、楽市に定められたことで街道沿いの商業地や宿場町として発展していくことになります。ちなみに、この時の制札は前回ご紹介した歳田神社に保存されているのが近年発見されたそうです。

淡河本陣跡

道標の近くの街道沿いに立派な瓦葺の建物が佇んでいました。こちらは淡河本陣跡です。

江戸時代に入ると淡河は明石藩に属することになり、明石藩主をはじめとした大名が参勤交代などで湯山街道を通る際の宿泊所として本陣が整備されました。この本陣職を長くつとめたのは秀吉が楽市を定めた際に街の整備に貢献した大庄屋の村上家だったとされています。戦後、淡河は神戸市に編入されます。本陣の役割を終えた淡河本陣はやがて空き家となり放置されていました。現在のように整備され利用されるようになったのは平成29(2017)年のことで、映画『るろうに剣心』のロケ地としても使用され注目を集めるようになりました。

淡河本陣跡の内部

淡河本陣跡の内部には瓦屋根が立派な母屋だけでなく土蔵や茶室まで残されていて、現在はカフェや集会所として利用されています。江戸時代の風情を残す畳の間を山々を渡る風が吹き抜けていきました。

夏の暑さの中にどこか秋の雰囲気も感じるようになったこの頃。まもなく実りの季節を迎えるかつての宿場町を訪ねてみてはいかがでしょうか。