夏の気配も感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
高砂駅
山陽電車創立110周年のヘッドマークを付けた直通特急が到着したのは高砂駅。今回は高砂の街を歩いてみたいと思います。
高砂の街並み
飲食店や商業施設のある駅周辺から街中に入ってみると、早速こんな趣のある景色が続いています。
堀川の眺め
街中を歩いて、市街地の東を流れる堀川に架かる橋に出ました。川の向こうには工場や倉庫が建ち並んでいますが、川には小舟がいくつも繋がれていて、今も船の通り道になっていることを感じさせます。
高砂の歴史は古く、古代にまで遡ると言われています。市街地の東を流れる加古川が運んだ土砂がデルタ洲を形成し、この中洲や周辺にできた入り江が港として使われていて、平安時代には瀬戸内航路の寄港地となったようです。高砂の地名自体も、土砂が高く堆積した様子を指す「たか・いさご」が由来とのこと。加古川の河口に位置したことを生かし、近世に入ると姫路藩城主の池田輝政が港湾の整備を行ない、瀬戸内だけでなく加古川流域からの物資の集散地として発展することになりました。古代からの港町が近世以後も都市として残ることは多くはないので、よほど立地がよかったということなのでしょう。このあたりの歴史は、揖保川の河口にある網干と似ています。
船溜まりの跡
街中を歩いていると、堀川が東西に大きく食い込んだ箇所に着きました。こちらは船溜まりの跡で、現在も小舟がいくつも繋がれています。
倉庫の跡か
かつて、堀川沿いには倉庫や蔵屋敷が建ち並び多くの船が行きかっていました。最初に訪れた橋の付近には百間蔵と呼ばれる姫路藩の蔵があり、この船溜まりの付近にも荷揚げの倉庫が建ち並んでいて、明治中頃まで賑わっていたそうです。その跡なのか、船溜まりの南側には木造の建物が今も建ち並んでいました。
加古川によって生まれ、加古川とともに発展してきた高砂の街。
次回ももう少し歩いてみたいと思います。
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