楽しいむ〜さん一家

【旧流路】湊川を歩く(後編)

投稿日:


神戸電鉄湊川駅から北へ向かうと、新湊川との交差部分に「神戸の台所」東山商店街の入口があります。阪神大震災以前はここから川沿いに上流へ向かってアーケードの無い商店街があり、む~パパの記憶では絶版になった製品が店頭に並んでいる怪しげな模型店もありましたが、現在はきれいに取り壊されて道路になっており、ここからまだ商店街が続いていたという雰囲気はもうありません。
広場と言うべきでしょう。アーケードを含めロータリー状になった商店街の北端に近い部分。
東山商店街は戦後のヤミ市から発展したものということですが、位置的には旧湊川の川筋に沿ったものと考えられます。アーケードのこの曲がりくねった様子は、かつての川の流路を彷彿とさせますが、真相はいかに・・・。
庶民的な商店街を歩くと、あちこちに「行列のできる店」に出会います。いちいち並んでいるわけにもいかないので、先へ・・・。
この先、商店街は左に逸れ、坂を下ります。旧湊川の堤防上から神戸方(東側)の堤防下に向かってアーケード街が続いているのが分かります。
堤防の途中、坂道に建つ看板建築のお店。それぞれつながっていないのかも知れませんが、隣り合う2階部分がどうなっているのか、非常に気になります。
パークタウンと呼ばれる部分。1階は旧湊川堤防下、2階の上部が湊川公園と同じ高さとなると思われます。旧天井川の堤防をうまく利用しています。
湊川公園のトンネル上から商店街入口を。ここから見ると1階が道路と同じ。2階があって、その屋上部分が湊川公園(旧湊川の堤防上)という立体的な位置関係がよく分かります。
湊川と言えば、大楠公。「湊川の戦い」で討死した楠木正成はかつて日本史のヒーローでした。(現在もヒーローであることに変わりありません。)
この湊川公園と同じ高さから始まる新開地のアーケード街。新開地は旧湊川堤防を切り開いて出来た土地で、ゆえに「新開地」と言います。この商店街は旧堤防上から坂を下って現在の新開地駅方面へ向かいます。

【旧線跡】湊川を歩く(前編)

投稿日:


神戸電鉄の起点、湊川駅。そこはNHK「ブラタモリ」でも紹介された兵庫と神戸の境界線でもありました。今回は少し周辺を歩いてみましょう。

11月28日で95周年を迎えた神戸電鉄湊川駅。1928(昭和3年)開業当時の駅舎が現在もそのまま残っています。神戸高速鉄道開業の1968(昭和43)年以降、電車は地下に新設されたホームを経由して新開地駅へ直通していますが、開業時は写真の地面と同じ高さにホームがある終端駅でした。
この湊川駅の駅舎は湊川公園の下にあります。ここは当時天井川だった旧湊川付替え工事に伴って埋め立てられた土地で、一段高い堤防部分をくり抜いて道路としたのが写真の湊川トンネル。上部が湊川公園というわけです。写真右側に見えるビルは神戸電鉄本社です。
このトンネルは1921(大正10)年に完成したとのこと。山手幹線をまたぐ風景は神戸の人にとってはおなじみですが、なぜここにトンネルがあるのか知らない人も多いことでしょう。
あ、そうそう。湊川駅の西向かいには「人工衛星饅頭」で知られる大吉屋さん。人工衛星というよりはUFOではないかという人もいますが、それはともかく。

「人工衛星饅頭」は今川焼の一種ですが、現在でも100円なのは良心的価格というべきでしょう。なかなかの人気のようで行列が出来ていました。

少々脱線しました。さて駅に戻りましょう。1枚目写真の1階部分。元はここにホームがあり、電車が発着していました。現在もなんとなくターミナルの雰囲気を残しています。
この先の旧線跡トンネル部分は歩行者用通路として利用されています。手が加えられているので線路跡とはイメージしにくい空間ですね。
通路突き当りにあったタイルには「武庫連山海陸古覧」という江戸時代終わりごろの兵庫津付近が描かれた絵がありました。左に突き出たのは和田岬。中央が兵庫津で、よく見ると西代や板宿の集落、左奥には須磨の町と鉢伏山が描かれています。
付近の地下道に描かれた湊川トンネルの絵。山手幹線と新開地方面へ分岐する市電の姿。右側の高い建物は神戸タワー。周辺の緑や湊川公園の階段が堤防らしい形を今より残しているような気がします。
分かりにくい写真ですが壁の向こうは神戸電鉄の線路。鈴蘭台方面から来た電車は一度トンネルを抜け、短いこの切り通し区間を通って地下に入ります。現在はそのまま現湊川駅を経て新開地へ向かっていますが、開業時は少し左寄りに進み、トンネルを出たところで地上駅に顔を出すようになっていました。運転台から見ると今でも旧線跡が残っているのが見えるそうですよ。

付替え工事によりルートの変わった湊川(新湊川)。次回は元々のルート上に開けた商店街を散策します。

【阪急神戸三宮駅】未だに残る戦争の傷跡

投稿日:


む~パパ、ネットに載っていた記事を確かめに神戸三宮にやって来ました。

新装なった阪急神戸三宮駅ビルと山陽電車6000系。ビルの下部は1936(昭和11)年の阪急神戸線開業時に建設された「神戸駅(のちの阪急三宮駅)ビル」をモチーフにしています。建設当時のビルは阪神大震災で被災し取り壊されましたが、阪急会館という映画館もあり、む~パパ、高校時代に学校行事で映画を見たことがあります。アニメ映画「火垂るの墓」冒頭シーンでも登場しました。
ビルは新しくなりましたが、ホーム部分は建設当時のままで上屋の鉄骨もそのまま残っています。10両編成運転時に南北の壁にあった降車用ホームが取り払われ、線路を移して現在は2面3線のすっきりとした配置となっています。

ここに1945(昭和20)年のアメリカ軍による空襲の痕跡が多く残っているということで、む~パパ、上を見上げてみますと・・・。

鉄骨がぐにゃっと曲がっている箇所がありました。空襲による火災の熱で変形したとのこと。
よく見ると屋根のあちこちに空いた穴を補修した跡が・・・。焼夷弾が直撃し貫通した跡だそうです。
よく見ると穴ぼこや鉄骨の変形は結構たくさんあります。今も昔も多くの人が行き交う神戸三宮駅ですが、頭上には生々しい戦争の傷跡が残っているのですね。
屋根を支える柱もS字に曲がったものがあります。これも駅火災の熱で変形したものだそうです。太い鉄骨が変形する熱の中で人間が耐えられるはずもなく・・・。実際、避難した多くの人々がここでお亡くなりになったとか。

神戸市ホームページにある「写真から見る戦災」によると、No.16に戦災を受けたホーム上屋が写っており、全焼している様が見て取れます。
→ 2度にわたる大空襲で焼けた阪急ビル

こうした戦争遺構は急速に姿を消しつつありますが、身近なところにまだ残っているものですね。平和のありがたさが身に染みます。

【大阪】安治川トンネルと九条周辺を歩く【阪神なんば線】

投稿日:


む~パパ高校生の頃、NHKで「匂いガラス」なるドラマ(唐十郎作 1986年放映)を見て、安治川トンネルという川底を通るトンネルの存在を初めて知ったのです・・・。とは言え、実はそのまま30年以上忘れてたのが最近、大阪市営渡船を回ったりした関係でふと思い出し、ちょっと周辺を歩いてみました。

阪神電車西九条駅。現在は阪神なんば線の中間駅で、JR環状線・桜島線と接続しています。2009(平成21)年の全通までは「西大阪線」の終着駅でした。当時はJR線を越えるため高い場所にある駅が途中でちょん切られたような形をしていましたが、西九条駅開業40年以上を経て大阪難波まで線路がつながり、当初計画が実現しました。む~パパとしては非常に感動したものですが、あの近鉄と阪神の線路がつながった日から14年とは、月日の経つのは早いものです。
さて、阪神なんば線の線路に沿って九条方向へ少し歩くと、ビルのような建物が見えてきます。これが安治川トンネル北側のエレベーター建屋。阪神電車は橋梁で安治川を渡っています。

水都と呼ばれる大阪。安治川は市内南西部にある多くの河川の一つで、水運が盛んなため架橋出来なかったことから市内の他の河川と同様、渡船が行き来していました。安治川の場合、多数の船が航行するため渡船も危険ということで、代替手段としてトンネルが設けられました。完成は1944(昭和19)年。空襲にも耐え現在も多くの人々に利用されています。

エレベーターを利用する自転車の方々。かつては自動車を載せるエレベーター(上写真左側の大きな入口)もありましたが、渋滞が激しくなったのと周辺に架橋が進んだため、現在は使用されていません。
川底を通るトンネル。長さは約80mで日本初の沈埋工法(あらかじめ作られたトンネル部分を川や海の底に沈めて土で埋める)で作られたものです。
こちらが南側のエレベーター建屋。都市部の川辺によくある殺風景な場所です。ちなみに歩行者は階段も利用できます。
かつてここには渡し舟がありました。交差点「源兵衛渡」という名前だけが残っています。後ろの高架は阪神なんば線。
安治川トンネル南側のエレベーターを降りると、そこは九条の商店街。庶民的な親しみやすい雰囲気にあふれています。写真の右側は阪神なんば線の高架。急角度で地下へ降りていくのが分かります。
騒音など環境対策なのでしょう。高度を下げる阪神なんば線の高架はカバーが掛かっていて中を通る電車の姿はほとんど見ることが出来ません。町の中を巨大な構築物が通過していますが、すでに日常の風景になっていることでしょう。
阪神なんば線が地下へ完全に潜る地点。高架上を走るのは大阪メトロ中央線。両線は九条駅で接続しています。大阪・関西万博会場へのメインルートとなる大阪メトロ中央線。山陽沿線からはこの九条駅で乗り換えるのが最も便利ということになるでしょう。
九条商店街から少し路地へ足を向けると、下町らしいカメラを向けたくなる空間が広がっていました。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その4・終点新宮町へ)

投稿日:


すこし間が空きましたが、播電鉄道跡をたどるウォーキングは終点「新宮町」を目指します。過去の記事は以下のとおり。
 その1
 その2
 その3

ネットで紹介されている記事によると八重垣病院裏手の用水路をまたぐ石積みは播電鉄道の橋台だそうです。すぐそばを出雲街道が通っています。
橋台を過ぎると線路跡は道路に転用され、まっすぐ北を目指します。

廃線跡は現在の国道179号線に沿った道路となって北上しますが、ハリマ木材工業に突き当り突然途切れてしまいます。この場所が播電鉄道の終点、新宮町駅があった場所です。

ハリマ木材工業に掲げられたプレート。廃線跡は今も「電車道」と呼ばれていると書かれていますね。
播電鉄道「新宮町駅」は出雲街道のすぐ西側にあり、駅前と考えられる場所は街道筋にあったのでしょう。付近は現在も古くからの風情ある町並みが残されています。写真は街道がクランクする箇所にある旧家。城下町と同じ防御上の工夫なのでしょうか。
街道筋にある戦前からあると思われる近代建築。播電鉄道の新宮町駅は集落の南端に位置しています。対して姫新線の播磨新宮駅は集落北端に設置されているようです。

同じく出雲街道に面した和菓子店「櫻屋」。なにやらホーロー看板のようなものがたくさん架かっていますが・・・。

懐かしいホーロー看板。ここまで並んでいるとなると、このお店のオーナーが集めたものかな、と思ってしまいます。
今回のゴール、姫新線播磨新宮駅。さすがに全線を1日で歩くのは無理があったので本竜野駅で南北2回に分けてみました。ただ歩くだけであれば1日でも踏破可能だと思われますが、あちこち寄り道したので予想以上に時間がかかりました。
日も傾いた播磨新宮駅。新型気動車がカッコ良いです。む~パパのシルエットがホームに伸びていますね。
いやはや、お疲れさまでした~。

【4年ぶり】山陽鉄道フェスティバル2023 鉄道模型コーナー

投稿日:


事前申込み無しの開催となった「山陽鉄道フェスティバル2023(10月28日)」。昨年は無かった鉄道模型コーナーが4年ぶりに復活しました。

Nゲージより大きいHOゲージの鉄道模型運転会は、市販されていない手作り車両が多く登場することで「模型鉄」と呼ばれる方々の間では有名でした。山陽電車では2000年から20年にわたり運転会を実施。最初は山陽電車の模型だけが走っていましたが、いつの頃からか線路がつながっている連絡各社の車両を増やした結果、もはやどこの鉄道の運転会か分からないという状況に。写真は前回2019年の模様です。この頃は300両近い車両が集まる関西最大級の規模に発展していました。
4年ぶりとなった今回「原点に立ち返る」というコンセプトで、23年前と同じ「山陽電車だけを走らせる」運転会となりました。ただ、当時50両だった模型は倍の100両以上となり、山陽電車だけでも車庫を埋め尽くしています。

今からちょうど20年前、2003年の山陽鉄道フェスティバル。3000系現塗装が初登場。アルミカーと合わせ現行車両が3編成となりました。会場は現在機械室となっている1階会議室でした。(2003.10.19)

コロナ禍で休止中の間も実は新作が登場し続けていました。写真の200形214-215。2扉車と3扉車が組み合わさった唯一の編成です。今回新作の一つです。
山陽電車と言えばかつては様々な電動貨車が活躍していました。中央が無蓋化されたクモト3+クト61の2両編成も今回初登場です。
実際にアルミ板で組み立てられた5702編成。側面の飾りを外し明石・姫路開業100周年ドア横ステッカーやヘッドマーク2枚掲出。現在の姿を再現した秀作です。
この他、3002号アルミカー編成(いちばん左)、2012号アルミカー編成(右から2番目)など今回初登場の新作が目白押し。山陽電車だけでも恐るべき運転会でした。

みんなで鉄道模型を走らせるのは「運転会」が正しいと思います。「走行会」という表記がありますが、模型鉄歴の長いむ~パパは実際聞いたことのない単語(恐らくカワサキワールドが初出かな、と。神戸以外では恐らく通用しないと思われます。)なので、この原稿では「運転会」表記を採用させていただきました。

【神戸市交通局】交通フェスティバル2023in名谷車両基地

投稿日:


素晴らしい秋晴れに恵まれた10月22日(日)、神戸市営地下鉄名谷車両基地で「交通フェスティバル2023」が開催されました。む~パパ、友人の申込枠で参戦!(事前申込制でしたので・・・。)

最初に迎えてくれるのが最初の地下鉄車両1000形1101号。本来の向きとは逆ですが、1両全体が保存されるのは意義あることと思います。1976(昭和51)年製。
各種イベントでおなじみのボンネットバス「こべっこⅡ世号」。実は本物のボンネットバスではなく、保存されているボンネットバスを忠実に再現したレプリカで、下回りはトラック(いすゞエルフ)のもの。やや本物より腰が高いのですが素晴らしい再現度を誇ります。現在はCNG化改造されています。
工場の中には我らが山陽電車コーナーが。各種グッズを販売中!
む~パパ、今回初めて見たのは引退した車両たちの前部カットモデル。2000形、3000形と北神急行7000系。学生時代そして就職して毎日乗っていた車両たちが引退してこうして保存されているのは、感慨深いものがあります。2000形や北神の車両に至っては、川崎重工で新製される姿を見ているだけに、自分が年を重ねたことを実感せざるを得ません。(3000形登場時はむ~パパ、大学生で遠くに下宿していたので、実は神戸にいませんでした。)
市電保存館も公開。705号は1936(昭和11)年に登場した車両で、東洋一と言われた神戸市電を代表するロマンスカー700形の1両です。実車は戦後登場した750形の座席を用いた復元車で、Hゴムを用いた窓回りなど原型を保つとは言い難いスタイルをしており、本当のところ少し残念です。
神戸市電700形の台車。車輪の大きさが左は大きく、右は小さいもの。「マキシマム・トラクション」といいます。主に600形・700形が履いている台車がこの構造でした。
架線を検査する保守用機械。日頃はまず見ることのない車両ですが、毎日の安全運行を支える縁の下の力持ちです。左が堀川工機、右が松山重車輛工業製。一般の鉄道ファンにはなじみのないメーカーですが、知る人ぞ知るといった感じの有名どころです。
レールの異常を検査する機械でスイス製。この種の保守用機械はスイス製やオーストリア製をよく見ます。窓回りや全体のデザインがヨーロッパ風ですね。
1000形と7000系。この姿で見られるのもこの日が最後かも知れません。7000系は北神急行開業(1988年)用としてその前年にデビューしましたが、右の1118号は西神中央延伸開業時(1987年)に3編成が新製されたもので、1000形のラストナンバーとなります。
緊急使用も出来る200系ハイエース。こういった車両を簡単に記録できるのが工場公開の良いところです。
同じ日に名谷駅前で「バス大集合」と称して”ミニバスまつり”とも言うべきイベントが開催されていました。
山陽バスも参加。中型車を展示していました。

10月14日は「鉄道の日」。各地で関連イベントが開催されています。今年の「山陽鉄道フェスティバル2023」は事前抽選なし。10月28日(土)、東二見車両工場へGO!

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その3・JR本竜野~揖保川)

投稿日:


その2より続きます。

播電龍野から先、廃線跡は醤油の匂いが漂うヒガシマル本社工場を横目に北へ進みます。現在は県道437号線になっています。播電にはこの工場への引込線もあったそうです。
その後、播電を廃止に追いやった姫新線が廃線跡に沿って進みます。しばらく北へ歩くと魅力的な火の見やぐらと公民館が。播電觜崎(ばんでんはしさき)駅はこの付近にありました。姫新線東觜崎駅がこの近くにあります。

この先で線路は西へ進路を変え、揖保川を渡ります。

播電の通っていた觜崎橋から。北側を姫新線の列車が渡って行きます。
觜崎橋の下には播電鉄道の橋台遺構が残っていますが、なかなか入りにくいところでして・・・。
觜崎橋の下流には増水で流された播電鉄道の橋脚が残っているとのこと。恐らくこれでしょう。
この先、廃線跡は県道を離れて田んぼの中を突っ切ります。水路を横切る橋台が残っていました。
その延長線上にも橋台が。背景に見える築堤は姫新線のものです。
播電鉄道の橋台から姫新線のキハ127を撮ってみました。(2023.6.17 東觜崎~播磨新宮)
廃線跡は田んぼや住宅になっていますが、かすかにそれらしき土地境界を残しています。

終点新宮町まであと少しです。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その2・JR網干~JR本竜野)

投稿日:


その1より
山陽本線を乗り越えた播電鉄道の本線は龍野・新宮町へ向かいますが、ここ「糸井」駅から山陽本線の網干駅への支線がありました。醤油やそうめんを国鉄に積み替え全国へ発送する必要があったためです。

ウイング神姫バス「糸井」。播電「糸井」もこのあたりだったと思われます。
ここから山陽本線へ向かう線路跡は道路や宅地になっていますが、小さな用水に橋台が残っています。明確に鉄道跡と判断できる数少ない遺構です。
廃線跡を転用した道路。突き当りに見えるのがJR山陽本線。播電鉄道はこの先でJRに並行し、網干駅北側に駅設備を設けていました。
JR網干駅。アーバンネットワークの西端駅です。この辺りは播電鉄道の駅や引込線があったと思われますが、痕跡は全くありません。ホーム石垣が残っているそうですが、今回は発見できませんでした。播電鉄道と国鉄は線路の幅が違うため、貨車をそのまま乗入れさせることが出来ず、中身を積み替える必要がありました。これがのちに姫新線(当時は姫津線)の開業を招くこととなります。
この後、線路跡は道路を離れて進みますが現在痕跡をたどるのは困難です。写真右の建物から延びる境界線は鉄道敷地との境界でしょうか。ちょっと分かりかねる、というのが本当のところです。
本社と車庫のあった「鵤(いかるが)」駅跡。写真は検車設備の跡だそうで、奥には階段も残されているそうですが私有地ということもあり、立ち入ることはできません(公道から撮影)。隣接する民家は鵤駅ホームを土台としているそうですが、はっきりと痕跡を認めることは不可能です。

播電鉄道では鵤駅に隣接する太子山に遊園地を建設し旅客誘致に努めたとされていますが、今はD51のある静かな公園となっており当時の賑わいを感じさせるものは残っていません。太子山公園のD51は以前 こちら でご紹介しました。

この先も廃線跡は道路や田畑、民家に転用されており、まっすぐたどるのは難しいです。
林田川。播電鉄道はこのあたりで川を渡っていたようですが、河川改修もあり橋台等は残されておらず、鉄道の痕跡は全くありません。
播電龍野駅跡付近。龍野駅は新宮町へ向かう中間駅ではなく揖保川に向いた終端駅のスタイルをしており、新宮町へ向かうにはここで一旦向きを変える必要がありました。現在は全く痕跡はなく比較的新しい住宅が立ち並ぶ区画となっています。
姫新線本竜野駅。播電龍野駅より東寄りにあり全く接続していませんでした。姫路へダイレクトにつながる鉄道の開通により、播電鉄道はその存在意義を失うこととなります。当時としては先進的な標準軌の軌道も国鉄と直通できなければ貨物受け渡しに手間がかかります。そもそも播電の路線自体、揖保川水運の代わりとして網干港から船へ積み出す意図が大きかったと思われ、物流が急速に鉄道輸送へ取って代わられることを予想できなかったのかも知れません。

続きます。次回から新宮を目指す路線を歩いてみましょう。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その1・網干港~JR網干)

投稿日:


播電鉄道はかつて網干港から山陽本線網干駅、龍野を経て新宮町へ向かっていた私鉄(車両は路面電車のようなスタイルですが、ほぼ専用軌道だったようです。)で、1909(明治42)年に開業しましたが、1934(昭和9)年に廃線となりました。今回む~さん一家ではその痕跡を実際にたどってみます。
※播電鉄道については多くのサイトで廃線跡が紹介されています。このブログはこれらの記事を参考に現地を訪れ取材したものです。

今回のウォーキング起点は山陽網干駅。駅を出たら左へ。一旦港のほうに向かいます。
東雲橋から運河のような網干川を望むと、かつて港町として賑わった雰囲気がまだ残っているようです。播電鉄道の前身「龍野電気鉄道」起点「網干港」駅はこの橋のたもとにありました。写真左側の川べりには貨物駅の設備があったようです。
東雲橋から北方向へ向かう道が線路跡。ゆるやかに右カーブし、現在の国道250号と交差します。
東雲橋北交差点付近にある「ことぶき食堂」。建て替えられていたとしても、当時から駅前食堂だったとすれば興味深いですね。
国道250号線を横断する「山電網干駅前」交差点。播電「余子浜」停留所は交差点南側にあったようです。当時まだ山陽電車が存在していなかったため、接続を考慮する位置ではありませんでした。
次の「津ノ宮」は魚吹八幡神社の玄関口である現在の宮内交差点付近にあったそうです。線路はここで道路を横断して東側に移っていたそうですが、何となくこの先でちょっとそれらしき雰囲気がするものの、実際はまったく痕跡が残っていません。
この付近にある水路を跨ぐ古い橋。相当古い時代のものではありますが、明治時代かと言われるとそこまで古くはないかも、と思ったりします。
その次の停留所「坂出」。付近には鉄道の痕跡を示すものは何もありませんが、消防車庫の上に火の見やぐらが建つ、いかにも鉄道模型ジオラマに出て来そうな建築物がありました。
「和久」停留所から現在の道路を離れ、線路は左に逸れていたようですが、今となってはさっぱり分かりません。廃止から90年近く経つ以上、無理もないですね。
その後、播電鉄道は築堤を上がって山陽本線を乗り越えます。一度廃止になって痕跡を消した鉄道ですが、再び廃線跡を利用して山陽本線を越える道路が建設中。歴史は繰り返すといったところでしょうか。
JR網干駅。播電鉄道はここを越えて龍野方面へまっすぐ向かいますが、途中の「糸井」から網干駅の北側に乗り入れる支線がありました。しかし、播電鉄道、この時代の鉄道にしては珍しく標準軌(1435㎜)を採用していたため狭軌(1067㎜)の国鉄とは乗入れ出来ず、貨物は積み替えが必要でした。これがのちにこの鉄道の命運を左右することになります。

以下、続きます。