せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

運河とモノレールの夢の跡・手柄を訪ねて(前編)

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寒さの続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

手柄駅

山陽電車で着いたのは山陽姫路駅の一駅隣の手柄駅です。

手柄の街並み

姫路城下と港町・飾磨を結ぶ飾磨街道の通っていた街には水路が張り巡らされ、少し風情のある景色が続いています。

運河公園

姫路市役所の傍を通り抜けると、川沿いに公園が広がっていました。川は三左衛門堀とも呼ばれる外堀川です。公園の名前は「運河公園」とありますが、運河とは?

川の別名の「三左衛門」とは今の姫路城を築いた池田輝政を指します。輝政は慶長6(1601)年に姫路城を築いた際、ここに堀を築きました。この堀は単なる城の防御としての役割だけでなく、姫路と飾磨を結ぶ運河としての役割を持たそうとして、開削を進めていきます。この際に開削された土砂は飾磨に設けられた人工島・向島を築くために再利用されました。

外堀川を眺める

姫路の冬は寒く、川面には薄っすらと氷が張っていました。

輝政の大規模事業として進められた運河計画ですが、結局、播磨灘と外堀川の間には水位に差があることがわかり、輝政の死去とともに整備計画は止まってしまいました。のちに運河計画は姫路城主をつとめた本田忠政の船場川の改修によって実現することとなります。

運河公園

川の両岸に緑地が広がる公園は市民の憩いの場となっていますが、そんな歴史を考えながら眺めると少し寂しげにも映りますね。

次回は手柄から姫路を目指して歩いてみたいと思います。

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古代の港町・魚住を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石の魚住を歩いてみたいと思います。

播磨灘を眺めて

魚住神社から海沿いを歩いていきます。

魚住城跡

海から少し内陸に入ると、住宅地の中に小さな公園がありました。公園には「魚住城跡」の文字があります。こちらには中世に魚住長範なる人物が築いた魚住城がありました。この魚住氏は三木・別所氏についていたのですが、天正8(1580)年の三木城落城に伴い、廃絶し、城も失われてしまいました。早い時期に失われたせいか、城跡には公園が広がるばかりの何の痕跡もありません。

摂播五泊 魚住の泊跡

海沿いに戻ると、「ながさわ明石江井島酒館」がありました。こちらは「明石ビール」などが購入できるお店ですが、「摂播五泊 魚住の泊跡」なる文字がありました。

「魚住泊」は奈良時代に僧・行基が摂津と播磨に整備したといわれる「摂播五泊」の一つとされた中世の港です。「摂播五泊」はこの魚住泊のほかに河尻泊(今の尼崎市)、大輪田泊(今の神戸市)、福泊(今の姫路市)、室生泊(今のたつの市)にあり、瀬戸内海の船運に重要な役割を果たしました。魚住泊がいつまで使われていたのは定かではありませんが、先ほど訪ねた魚住城は魚住泊の町を治める城としての役割もあったことから、比較的最近まで重要な港として使われていたことがうかがえます。

赤根川河口

「ながさわ明石江井島酒館」の傍を赤根川という川が流れていて、播磨灘へと注いでいます。長らく、魚住泊の場所はわかっていませんでしたが、昭和に入り、川の浚渫工事の際に古代の港で使われていた木材が発見され、この地が魚住泊の場所だということがわかりました。今では何気ない海の景色が広がっていますが、ここがはるか古代からの港の跡だと思うと、どこかロマンを感じさせますね。

小さな町にはるか古代へつながる史跡が残されている魚住。
お散歩に訪ねてみてはいかがでしょうか。

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古代の港町・魚住を歩いて(前編)

投稿日:



寒さの厳しいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽魚住駅

山陽電車でやってきたのは山陽魚住駅
比較的暖かい播磨ですが、それでも今の季節は刺すように冷たい風が吹いています。

住吉神社

駅から歩いてほどなく、住吉神社に着きました。

住吉神社の境内

広い境内にはまだお正月の雰囲気が残っていました。

ここ魚住の住吉神社の歴史は非常に古く、創建は雄略天皇8(464)年と伝わっています。
神功皇后の三韓征伐の際、ここ明石の沖合で暴風雨に遭ったために魚住に停泊して避難し、住吉大神に祈ったところ、暴風雨が収まったそうです。神功皇后は凱旋後、この地に住吉大神を祀る社を建立し、それがこの神社の始まりとされています。

錦が浦

文化財にもなっている楼門をくぐると、海に向かって参道が続いていました。先ほど駅から歩いてきた道は実は裏側で、本来の正面はこちらになります。松林の向こうに小さな入り江があるこの辺りは名勝「錦が浦」とも呼ばれています。

播磨灘を眺める

鳥居の前から播磨灘を眺めてみました。かつてはここに直接船をつけて参拝をしていたのでしょうか。長い歴史をもつ神社ならではの景色なのかもしれませんね。

次回はもう少し魚住を歩いてみたいと思います。

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姫路・総社を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路を歩いてみたいと思います。

播磨国総社

姫路城から歩いて着いたのは播磨国総社こと射楯兵主神社です。

播磨国総社の境内

境内は広々としています。

播磨国総社こと射楯兵主神社の始まりははるか古代にさかのぼります。現在の姫路市内に射楯大神と兵主大神を祀る社がそれぞれ創建され、平安時代には合祀されたと考えられています。養和元(1181)年には播磨国16郡の174座の大小明神を合祀し、「総社」と称されるようになりました。

三ツ山大祭

播磨国総社といえば、境内に巨大な置山が設けられることが印象的な「三ツ山大祭」「一ツ山大祭」ですね。前回の平成25(2013)年の「三ツ山大祭」は記憶に新しいところです。なお、次の「三ツ山大祭」は2033年、「一ツ山大祭」は2047年なので気が遠くなりそうなくらい先ですね。

姫路城城下町発掘調査

播磨国総社から南へ歩くと、道路工事の現場が現れました。ただし、少し様子が違うようで…。こちらでは工事の発掘調査で姫路城中堀の跡が出土したそうです。ビルが建ち並び都会の景色の姫路の街中でこんな景色に出会うと、姫路の長い歴史を感じさせますね。

新年早々また大変な事態となりました。お出かけをとはいいにくい状況ですが、身近な街角にもこうして歴史が息づいています。是非この機会に身近な歴史スポットにも注目をしてみてください。

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姫路・総社を訪ねて(前編)

投稿日:



新年あけましておめでとうございます
本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願い申し上げます

山陽姫路駅

新年の初めに訪ねたのは山陽姫路駅
山陽電車と山陽バス、神戸市交通局が共同で開催している「つながるヘッドマークSNSキャンペーン」のヘッドマークを掲出した電車が停まっていました。

姫路城を眺める

大手前通りを歩いて姫路城の前の桜門橋へ。
生憎の曇り空でしたが、そんな空の下にも白い姫路城の白く美しい姿がくっきりと浮かび上がっています。

姫路護国神社

桜門橋から東に歩くと、神社がありました。こちらは姫路護国神社です。

姫路護国神社は姫路城の前にある神社で、戊辰戦争以降の兵庫県西部の戦没者を祀る神社です。今は姫路城の前に位置していますが、もともとこの場所は姫路城中堀の内側の中曲輪にあたります。姫路に限りませんが、城跡には広い敷地を生かして行政機関が設けられることが多かったようです。

姫路護国神社の境内

婚礼の準備なのか、境内には緋毛氈が敷かれていました。

播磨国総社

護国神社からほどなく、今度は播磨国総社こと射楯兵主神社の楼門が見えてきました。

次回は播磨国総社から姫路の街をもう少し歩いてみたいと思います。

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