せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

阿閇の津・本荘を歩く(前編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回まで播磨町の古宮を歩いてきましたが、今回から隣の本荘を歩いてみたいと思います。

本荘下橋

古宮から旧浜街道沿いに歩くと、喜瀬川に架かる橋に差し掛かりました。この橋を渡った西側が本荘です。

喜瀬川を眺める

橋の上から川を眺めてみました。橋から河口は間近で、海の気配を感じられます。ただし、河口付近は埋め立てられていて、かつての海岸線は町割りに名残を残すのみです。

浜街道の街並み

喜瀬川を渡り、本荘に入ります。旧街道沿いには風情ある街並みが続いています。

今の山陽電車の播磨町駅はかつて「本荘」という駅名でした。そのせいか、「本荘」=「播磨町」と思ってしまいそうになりますが、もともとの本荘は阿閇村と呼ばれていたこの辺りの一地区の地名でした。ちなみに播磨町駅のある辺りには川端という集落があったようですが、今では一続きの住宅地になっています。

漁村の雰囲気

かつては本荘の集落のすぐ近くに海岸線がありましたが、現在は埋め立てられ、工業地帯となってしまいました。ただ、集落の中の道を歩くと、漁村の雰囲気を今も感じることができます。

少林寺

浜街道から横道に入ると、少林寺という立派な禅宗寺院がありました。ゆったりとした境内で、由緒がありそうですが、詳しいことはわかりませんでした。それにしても、古宮の良仙寺といい、禅宗が多いような気がします。

次回も、本荘を歩いてみたいと思います。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

播磨灘を望む・古宮を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、播磨町の古宮を歩いてみたいと思います。

ジョセフ・ヒコ生家跡

古宮の町中を歩いていると、ジョセフ・ヒコの生家跡なる空き地がありました。ヒコはここ古宮に生まれたものの、母の再婚に伴い、隣村の浜田村(現在の本荘)に引っ越しています。

帰国後、アメリカ領事館で通訳として働いていたヒコですが、程なく渡米、再び帰国したのちに領事館で働き始めますが、一年で辞めて商社を設立、さらに元治元(1864)年には横浜で日本で初めての新聞「新聞誌」を発刊しました。ちなみに、この時期、ヒコはまだ20代前半だったそうで、なんとパワフルなことかと驚いてしまいます。「新聞誌」は発刊の翌年に「海外新聞」と改題し、26号まで発行されたそうです。

古宮漁港

路地を抜けると古宮漁港に出ました。南側に人工島があるため水平線はあまり見えないのですが、夏の海はまぶしいくらいに輝いています。

古宮住吉神社

海沿いを歩いていると古宮住吉神社にたどり着きました。海沿いにひっそりとある神社ですが、境内は広く、門は立派です。創建時期は不明とのことですが、歴史のある由緒ある神社のようです。

常夜燈碑

境内には石碑がありました。こちらは常夜燈碑と呼ばれています。

かつてこの場所には常夜灯がありました。戦国時代、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する際に古宮の沖合を航行していたところ夜間に海が荒れはじめたのですが、村人が灯したこの常夜灯の明かりを目印に無事上陸し避難することができたという伝説が伝わっています。「古宮」の地名はこの時に秀吉が命名したとのこと。

海側を眺める

この古宮住吉神社も海に向かっている神社で、村人が普段参拝に使う参道は東側に伸びています。現在、神社の海側には人工島が造成され、境内からは水面がわずかに見えるだけですが、かつては、朝鮮へ向かう豊臣秀吉が上陸し、ジョセフ・ヒコが漕ぎ出した播磨灘が門の向こうに広がっていたのでしょう。ちなみに、ジョセフ・ヒコが漂流する際に乗っていた船は「住吉丸」という名前だそうです。

神社の前に残るかつての防波堤に沿って、古宮を後にすることにしました。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

播磨灘を望む・古宮を歩く(前編)

投稿日:



夏真っ盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

播磨町駅

山陽電車で到着したのは播磨町駅です。
大中遺跡最寄駅として知られていますが、今回向かうのは遺跡とは反対側の海側です。

ジョセフ・ヒコ像

駅近くの播磨町中央公民館の前にはジョセフ・ヒコの像がありました。

「新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵はかつて阿閇村と呼ばれていたここ播磨町の出身です。船乗りとして江戸へ出かけた帰途に船が難破し、太平洋を漂流していたところをアメリカ商船オークランド号に救助されサンフランシスコにたどり着きました。間もなく幕末の嘉永4(1851)年のことです。近代国家・アメリカで働くこととなり、多くの刺激を受けたヒコは安政5(1858)年にアメリカに帰化、その翌年の安政6(1859)年には開国したばかりの日本に帰国し、アメリカ領事館の職員として働くこととなりました。

良仙寺

住宅地の中を歩いていると古宮という地区に入ります。町の中には良仙寺という禅宗の寺院がありました。小さな寺院で、本堂はコンクリート造りになっていますが、この良仙寺はかつて古宮四カ寺と呼ばれた由緒ある寺院の一つです。

江戸時代の古宮は浜街道(西国下街道)に沿いに広がり、「古宮千軒」とも呼ばれるほど賑わっていました。寺院ではこの良仙寺のほかに松元寺、海禅寺、願満寺が建ち並んでいて、総称して「古宮四カ寺」と呼ばれていたそうです。江戸時代の後期には村の豊かさを背景としたからか、四カ寺の各寺院に置かれた寺子屋のほかに多くの私塾が設けられたとのことです。幼いジョセフ・ヒコもこうした寺子屋で学んだと言われていて、「古宮千軒」が「新聞の父」を育んだとでも言えるのでしょうか。

古宮の街並み

路地に入ると、漁村の雰囲気を残した街並みが続いていました。家々の合間からは青々とした播磨灘が見え隠れします。

次回も古宮を歩いてみたいと思います。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

塚口御坊を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、塚口を歩いてみたいと思います。

長屋門のある道

塚口寺内は比較的最近まで寺内町の姿が残っていたため、今も風情ある景色が続いています。町中には長屋門のある立派な家も見かけました。

寺内町の風情

白い塀の続く道は周辺の住宅地とは違った趣ですね。

塚口御坊跡

「寺内町」
というからには中心となる寺院があるはずです。それがこちらの正玄寺です。かつてはこの場所に「塚口御坊」がありました。

塚口御坊が建立されたのは室町時代の応永16(1409)年のことです。性曇上人なる人物がこの地を訪れた際に病気になったためひと月ほど滞在。その時に入信した裕信なる人物によって御堂が建立されたことに始まります。その後、門前町の周囲に土塁を巡らし、寺内町としての姿を整えていくことになりました。

北町門跡

正玄寺から住宅地を歩いていくと、北町門跡に出ました。こちらら塚口寺内の北の端です。

強固な防衛設備を持った塚口寺内は、有岡城の戦いの際は有岡城の出城として使われ、織田信長軍が進攻してからは織田軍の拠点としても使われることとなり、城としても機能することになりました。近世に入ってからもこの土塁はしばらく残っていましたが、もはや戦闘に使われることはなく、一部が崩れ始めたことから撤去されてしまったそうです。今ではわずかに残った土塁に名残を感じるのみです。

塚口神社

町はずれまで歩くと、立派な神社がありました。こちらは塚口神社です。創建時期は不明ですが、一説では奈良時代の建立とも言われ、非常に歴史のある神社です。寺内町が生まれる前からこの地にあった神社は、大きく姿を変えてきた町の姿を今も見守っているのでしょう。

塚口というと、あまりイメージがわきにくいところではありますが、歩いてみると発見がありますね。
夏の日差しを浴びる神社を後にすることにしました。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

塚口御坊を訪ねて(前編)

投稿日:



梅雨が明け、夏の日差しが差し込むこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急塚口駅

阪急電車で到着したのは塚口駅

塚口の街並み

この辺りの街は平野の中の住宅地で碁盤の目のような整った町割りになっているのですが、この塚口界隈は道が複雑に入り組んでいます。道沿いには飲食店や商店が建ち並んでいました。

南町門跡

阪急神戸本線沿いに歩いていくと、住宅地に出ました。こちらも道は入り組んでいます。住宅地の中に、不自然な空間があり、祠が建っていました。こちらは南町門跡の祠です。さて「門」とは一体何のことなのか?

現在は住宅地となっている塚口ですが、かつてここは「塚口寺内」と呼ばれ、「塚口御坊」を中心とした寺内町でした。応仁の乱の際は土塁を築いて城郭のような姿に整えられ、実際、天正6(1578)年に荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたことに始まった有岡城の戦いでは、この塚口寺内は伊丹の有岡城の出城として使われたそうです。このことから、塚口寺内は「塚口城」とも呼ばれています。現在、当時の土塁はほとんど残されていませんが、塚口寺内の南側の門の跡にはこうして祠が残されています。

東町門跡

南町門跡から東に向かって歩いていくと、東町門跡に着きました。ここにも祠がありますが、南町門跡と違ってこちらは高い土手の上にあります。この土手が塚口寺内の土塁の跡とされています。近づいてみると意外と高さがあり、強固な守りであったことをうかがわせます。

山陽沿線で同じような町と言えば英賀が思い浮かびますが、英賀と比べて塚口は比較的最近まで寺内町の姿が残っていたため、今も面影を感じることができます。次回はもう少し塚口を歩いてみたいと思います。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村