せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

網干・魚吹八幡神社を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、網干の魚吹八幡神社と周辺を歩いてみたいと思います。

魚吹津構跡碑

魚吹八幡神社から住宅地の合間の細い道を東へ歩くと小さなお堂が現れました。お堂の傍らには「魚吹津構跡」の石碑が立っています。

魚吹津構跡

お堂の近くの新しい住宅の建ち並ぶ一角に水路がありました。

魚吹津構は網干の東側にあった英賀城の出城のような城郭でした。別名「津の宮城」と呼ばれているそうです。この城が築かれた時期は詳しくわかっていませんが、15世紀末頃には城郭のようなものがあったようです。しかし、この城も秀吉が天正8(1580)年に英賀城を攻めた際に落城しました。中世に消えた城ですが、今も水路に囲まれた扇状の土地に城の名残が見られます。

魚吹八幡神社大鳥居

魚吹津構跡から神社の前を通り過ぎ、今度は西側へ歩いてみることにしました。石畳の参道に大鳥居がそびえています。魚吹八幡神社は山陽沿線でも大きな神社です。この正月には多くの初詣の参拝客で賑わったのでしょうね。

魚吹八幡神社御旅所

西側へ歩くと、住宅の合間に広場のような空間がありました。こちらは魚吹八幡神社の御旅所で、「西の馬場」とも呼ばれています。秋の例大祭の際は屋台・檀尻・獅子舞がこの広場に集まり、大変な賑わいになるそうです。昨年も屋台練りなどは開催されなかったそうですが、再びこの広場に賑わいが戻ることを祈りたいですね。

渡神殿

広い御旅所の中に佇むのは渡神殿です。こちらの社の傍には「おたら池」という聖池があったそうですが、今は池の姿はありません。

再び魚吹八幡神社へ

再び魚吹八幡神社の前へ戻りました。

網干と言えば浜側の街並みが知られていますが、内陸にも由緒ある古社だけでなく、中世の城郭の名残も感じることのできる景色が広がっています。雪の季節が続きますが、春に向けて、網干に注目してみてはいかがでしょうか。

網干・魚吹八幡神社を訪ねて(前編)

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小正月を過ぎて、正月気分も薄れたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽網干駅

飾磨駅から網干線の電車で着いたのは山陽網干駅
山陽電車の西端です。

網干の景色

網干の街は山陽網干駅の浜側一帯に広がっています。一方で山側へ向かうと住宅地と田畑の広がるのどかな景色です。

住宅地の中の楼門

住宅地の向こうに立派な楼門が見えてきました。こちらは魚吹(うすき)八幡神社の楼門です。

魚吹八幡神社の楼門

そびえたつ楼門は圧倒されるような大きさです。こちらの楼門は兵庫県の文化財に指定されています。

魚吹八幡神社は長い歴史を持った神社ですが、その創建には諸説あるそうではっきりとした時期は分かっていません。伝説では、はるか古代の神功皇后3(202)年、三韓征伐の際に神功皇后宇須伎津(うすきつ)と呼ばれたこの場所へ立ち寄り、社を建立したのが始まりとされています。平安時代の末に京都の石清水八幡宮の別宮となって今のように魚吹八幡神社と呼ばれるようになりました。

魚吹八幡神社の境内

境内は広く、鬱蒼とした木々に守られているような空間が広がっていました。もとの社殿は戦国時代の天正4(1576)年に兵火によって焼失し、現在の社殿は江戸時代初めの正保2(1645)年に再建されたものです。趣のある本殿は楼門とともに県の文化財に指定されています。

徳寿院

神社の隣には寺院がありました。こちらは徳寿院という真言宗の寺院です。神社と比べると小ぢんまりとしていますが、もともとは魚吹八幡神社の神宮寺として建立された寺院です。江戸時代までは八幡神社の境内にありましたが、明治時代に入って等覚院というやはり八幡神社の神宮寺だった寺院の跡地のこの場所へ移転しました。「カエル寺」とも呼ばれているようで、確かに境内はカエルの置物がたくさんあり、楽しそうな雰囲気ですね。

田園地帯に佇む歴史ある神社。魚吹八幡神社とその周辺をもう少し歩いてみたいと思います。

古代遺跡と的射・藤江を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、藤江を歩いてみたいと思います。

藤江別所遺跡

藤江漁港から青龍神社の方へ戻りました。山陽電車の築堤の下に水道施設があり、その柵の中に石碑がありました。こちらは藤江別所遺跡です。

藤江別所遺跡は弥生~古墳時代頃の祭祀の跡が見つかった遺跡です。さらにこの辺りは「鉄船の森(かなふねのもり)」と呼ばれて、伝説では鉄製の船がこの辺りに沈んだために、鉄分を含んだ水が湧き出すようになったそうです。発掘調査でも鉄分を含む水が湧き出す井戸の跡が見つかったそうです。一説では、この地域を治めていた豪族が鉄分の吹き出す井戸を神聖なものとして扱い、祭祀の場としてしたともいわれています。

御崎神社

藤江別所遺跡から坂道を上ると、神社の境内へ入りました。こちらは御崎神社です。

御崎神社の境内

御崎神社の境内は広々としています。その中で気になる盛り土のようなものがありました。こちらは「藤江の的射」に使われるものです。神事ではこの段々状の土盛りの上に的が据え置かれます。奥のネットは矢が木々の向こうの山陽電車の線路に落ちるのを防ぐためのものです。

「藤江の的射」は毎年1月に御崎神社で開かれる弓矢の神事で、明石市内に残る唯一の弓矢の民俗芸能とのことです。伝説では神々を乗せた船がこの辺りを通りかかった際、船夫が錨を誤ってアカエイの鼻に下ろしてしまいました。怒ったアカエイは船を沈め、船夫は悪霊となりました。この悪霊を鎮めたのが御崎神社の山王権現で、それに因んでこの「藤江の的射」が執り行われるようになりました。

藤江の的射

御崎神社の創建は南北朝時代の応安5(1372)年とされますが、アカエイの伝説は先ほどの「鉄船の森」と結び付けられるような説もあり、祭祀の場としてはとても古い歴史があるのかもしれません。ちなみに、「藤江の的射」は新型コロナウィルス感染拡大の影響で長らく中止が続いてきましたが、2023年は3年ぶりに明後日1月15日に開かれる予定です。

的射は年に一度ですが、住宅地の中に祭祀の場が佇む藤江を歩くと、この地が海の幸の恵みを受けて古くから人々が生活を営む場所だったことが伺えます。まだ寒い季節が続きますが、古式ゆかしい祭祀の地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

古代遺跡と的射・藤江を訪ねて(前編)

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年が明けてから、いつもより暖かい日が続いているこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

藤江駅

山陽電車で着いたのは藤江駅です。

藤江駅前オアシス

駅の店舗があった場所は無料休憩所「藤江駅前オアシス」として地域の方々の憩いの場となっています。山陽電車や明石海峡大橋の描かれた壁画が鮮やかに駅舎を彩っていました。

青龍神社

交通量の多い浜国道を歩くと、道路沿いに鳥居が現れました。青龍神社の鳥居です。

青龍神社の境内

神社は藤江川に切り取られたような小高い丘の上にあります。

この神社自体も鎌倉時代の建長6(1254)年の創建と伝わる古社ですが、神社のある丘は藤江出ノ上遺跡と呼ばれる縄文時代の遺跡となっています。かつては今の浜国道の辺りまで海が入り込んでいたそうです。青龍神社以前にこの場所には厳島神社があったそうで、今も末者として厳島神社が祀られています。はるか古代より海の神を祀る場所だったのかもしれませんね。

龍泉寺

浜国道を渡った先には龍泉寺という禅宗寺院がありました。こちらも青龍神社と同じ建長6(1254)年の創建と伝わる古刹です。

藤江漁港

龍泉寺から住宅地の中を通り抜けると、播磨灘に面した藤江漁港へ出ました。あいにくのお天気のおかげで寒々とした景色ですが、晴れていれば播磨灘と淡路島の島影を望む景色を楽しめたのでしょうね。明石名産のタコやタイが水揚げされるという藤江漁港。この豊かな海の幸が古代の人々の生活を支えてきたのでしょうね。

住宅地の広がる中に古代遺跡の眠る藤江、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

城南・総社への道(後編)

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新年明けましておめでとうございます
本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします

播磨国総社

新年最初に訪れたのは姫路の「播磨国総社」こと射楯兵主神社です。

総社の境内

提灯が飾られた境内はお正月の装いです。三が日には大変な混雑だったようですが、まだまだ賑わっていますね。はるか平安時代の創建とされる射楯兵主神社では20年に一度の三ツ山大祭と60年に一度の一ツ山大祭が知られています。ちょうどこのブログがスタートした時は第二十二回三ツ山大祭が執り行われていました。

正法寺

さて、前回訪ねた赤鹿稲荷神社から北へ、ちょうど総社の南東辺りに差し掛かりました。街中に佇んでいるのは正法寺です。もともとは別所の佐土にありましたが、天正9(1581)年に総社の西門あたりへ移り、池田輝政の城下町整備の際に現在の場所へ移されました。この正法寺が面する通りに沿って寺院が集められたため、通りを「寺町筋」と呼ぶようになりました。

善導寺

交通量の多い城南線を越えた先にも寺町筋は続いています。住宅地の中で目立つ大きな寺院は善導寺です。

善導寺の境内

広い境内には巨大な本堂が佇んでいました。

善導寺は平安時代の寛仁元(1017)年の創建と伝わる古刹です。広い境内からも由緒ある寺院であることを感じさせます。もともとは姫路城の東側、現在は姫路医療センターや姫路東高校のある「梛本(なぎもと)」という地区にあり、梛寺(なぎでら)と呼ばれたそうです。しかし、輝政の改築の際に梛本地区自体が城内に含まれることになったために現在の場所に移されました。ちなみに、この梛本には射楯兵主神社もありましたが、こちらは善導寺の少し前の天正9(1581)年、秀吉の姫路城改修の際に現在の場所へ移されています。

再び総社へ

善導寺から再び総社へ戻りました。参道にそびえる石鳥居は江戸時代前期に姫路藩主を務めた榊原忠次の寄進です。総社もまた、歴代の城主の寄進を受けて発展してきました。姫路の城下町の中心ともいえる城南を歩くと、歴代の城主の足跡を感じることができるようです。

年末にもご紹介しましたが、「せっつ・はりま歴史さんぽ」は今年で10年目となります。引き続き山陽電車沿線(とそのほかのエリアも)巡り、ご紹介していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。