せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

源氏物語ゆかりの須磨の関を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて須磨を歩いてみたいと思います。

須磨の関跡碑

いなり坂を上った先、石垣の上に石碑がありました。須磨の関跡碑です。

関守稲荷神社

石碑の脇の階段を上がると、神社があります。こちらは関守稲荷神社です。

須磨の関は西国街道に置かれた関所の一つで、大宝律令にも定められた歴史ある関所です。須磨の関守のことを詠んだ源兼昌の歌は百人一首にも入っていて、よく知られていますね。実際の関所はどこにあったのかはっきりとわかっていませんが、ここ関守稲荷神社は関所の守護神とされていて、この場所が関所があった場所とも言われています。須磨の関は摂津の関、つまり畿内の西端の関所でした。古代には京都から比較的近い景勝地で、源兼昌だけでなく数々の歌に詠まれてきました。創作になりますが、こちらで隠遁生活を送ったとされているのが『源氏物語』光源氏です。『源氏物語』の須磨の巻には須磨の地で過ごす光源氏の姿が描かれています。関守稲荷神社は光源氏が巳の日祓をした神社のモデルとされ、「巳の日稲荷」とも呼ばれています。江戸時代の『摂津名所図会』にもその旨が記されていて、今でいう”聖地巡礼”のスポットになっていたようです。

現光寺

関守稲荷神社から坂道を降りると千森筋に出ました。道路沿いにあるのは現光寺です。

現光寺は室町時代の永正11(1514)年の創建と伝わります。今では住宅や商店に囲まれていますが、かつては須磨の海を見下ろす景勝の地でした。『源氏物語』で光源氏の住まいがあった場所に似ていることから、「源氏寺」とも呼ばれています。

現光寺の境内

現光寺の境内は静かな雰囲気でした。立派な松の木が印象的ですね。今では海を眺めることはできませんが、源氏物語ゆかりの地として古くから多くの人々が訪れていて、境内には須磨を詠んだ松尾芭蕉や正岡子規の句碑が建てられています。

源氏寺

現光寺の前には源氏寺の碑が日差しを浴びて佇んでいました。『源氏物語』ゆかりの地でもある須磨の秋は少しずつ深まっているようです。

秋の風を感じながら、山陽電車で須磨を後にすることにしました。

源氏物語ゆかりの須磨の関を歩いて(前編)

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すっかり秋らしくなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽須磨駅

涼しい風を浴びながら訪ねたのは山陽須磨駅です。
須磨海岸の最寄り駅ということで、洋館風の装飾が施されていて、どこか観光地の駅のような雰囲気がありますね。

村上帝社

山陽電車の線路の築堤沿いに歩くと、神社がありました。こちらは村上帝社で、その名の通り、平安時代の村上天皇を祀る神社です。

村上帝社の創建はやはり平安時代に遡るとされています。伝説では、琵琶の名人として知られていた藤原師長が琵琶を極めるために唐へ渡ろうと都を離れ、ここ須磨にたどり着きました。この地で老夫婦の家に泊まり、お礼にと琵琶を弾くと老夫婦は村上天皇と中宮(妻)の藤原安子(梨壺女御)の姿になり、師長へ琵琶の弾き方を教えて唐へ渡るのを思いとどまるように言ったそうです。琵琶の奥義を身に付けて唐へ渡る必要のなくなった師長は京へ戻ることにしました。そして、この地に村上天皇を祀る社が建てられたそうです。

琵琶塚

山陽電車の築堤を潜った先に石碑がありました。こちらは琵琶塚の碑です。唐へ渡ることを思いとどまった師長はこの地に琵琶の名器「獅子丸」を埋め、その場所は琵琶塚と呼ばれるようになったそうです。実際の琵琶塚は古墳で、前方後円墳だったと言われていますが、山陽電車の建設時に取り壊されてしまいました。今はこちらの石碑が残るだけです。

いなり坂

琵琶塚から山へと向かっていなり坂と呼ばれる坂道が伸びていました。

平安時代からの伝説に彩られた須磨をもう少し歩いてみたいと思います。

明石海峡を見下ろす西舞子・狩口を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西舞子地区から垂水区の丘陵を歩いてみたいと思います。

坂の道

海沿いのイメージが強い西舞子地区ですが、六甲山地から続く丘陵が海に迫る地形から、海沿いを離れると急な坂道が続きます。こうした光景はいかにも垂水区という雰囲気ですよね。

垂水区を見下ろす

坂道を上り詰めると、山田川を挟んだ丘に垂水の街が広がる景色を眺めることができました。

きつね塚緑地

住宅街の一角に木々に囲まれた公園がありました。こちらはきつね塚緑地です。

狩口台きつね塚古墳

公園の中には小さな丘がありました。こちらは狩口台きつね塚古墳です。

明石海峡を見下ろす高台にある狩口台きつね塚古墳は6世紀後半頃の古墳時代後期に築造された古墳です。五色塚古墳などと比べると比較的新しい古墳で、前方後円墳ではなくシンプルな円墳ですが、古墳の周囲の環濠が二重であったのが特徴とされています。こちらの古墳に埋葬されている人物も詳しくはわかっていませんが、五色塚古墳と同じく明石海峡を見下ろす立地であることや、副葬品に須恵器や鉄器など当時では先進的なものが見つかっていることから、有力な豪族であったことをうかがうことができます。

狩口台きつね塚古墳を眺めて

狩口台きつね塚古墳を眺めてみました。木々や草木に覆われ、住宅に囲まれた今は古墳であることもわかりにくくなっていますが、改めて眺めてみるとそれなりの高さのある墳丘に被葬者の力を感じることができるようです。

狩口台からの眺め

狩口台きつね塚古墳からは住宅の合間に播磨灘のきらめく水面を眺めることができました。狩口台きつね塚古墳に埋葬された人物たちもこの景色を眺めていたのでしょうか。

住宅地の中に古代からの歴史を感じる西舞子や狩口、どこかこの地域の奥深さを感じる旅となりました。

明石海峡を見下ろす西舞子・狩口を歩いて(前編)

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例年よりも遅い彼岸花が咲き始め、沿線を彩るようになった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西舞子駅

山陽電車を降りたのは西舞子駅です。JRと国道2号線に挟まれた土地に狭いホームのがあるのが特徴的な駅です。

明石海峡大橋を眺めて

線路沿いを歩いていくと、垂水区の多聞地区や舞子地区を流れて播磨灘へとそそぐ山田川を渡りました。線路越しに明石海峡大橋を眺めることができます。

崇富龍王

西舞子地区の住宅地を歩いていると、道端に「崇富龍王」と書かれた案内が石に書かれていました。

嵩富出世龍王神社

案内に従って歩いていくと、マンションと擁壁に囲まれた狭い場所に石灯籠や鳥居の並ぶ神社がありました。こちらは嵩富出世龍王神社です。

今は小さな神社ですが、嵩富出世龍王神社の歴史は非常に古く、はるか古代に遡るとされています。4~5世紀頃、この地域を治めていたのは朝鮮半島から渡ってきた海人族(あまぞく)とされていて、その人々が中国で信仰されていた龍王を祀ったのが始まりと言われています。もとは海沿いの岬のような場所にあったそうですが、開発に伴い現在の場所へと移されました。

嵩富出世龍王神社の境内

決して広くない境内ですが、風格ある社殿には歴史を感じますね。それにしても、4~5世紀といえばちょうど前回まで訪ねた五色塚古墳が築造された頃です。西舞子で龍王を祀っていた人々と古墳を築いた人たちには何らかの関りがあったのかもしれませんね。

住宅地の中に古代からの史跡が残る西舞子地区をもう少し歩いてみたいと思います。

復元整備50年・五色塚古墳を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、五色塚古墳を歩いてみたいと思います。

古墳に上る

五色塚古墳の墳丘に上がってみました。日本最大の古墳の堺市の仁徳天皇陵古墳を始め、宮内庁によって天皇家の陵墓と指定されている古墳は立ち入りが制限されていますが、五色塚古墳は陵墓ではないため、こうして墳丘に上ることができます。

五色塚古墳に埋葬されている人物は明らかになっていません。しかし、古墳の規模や交通の要衝である明石海峡大橋を見下ろす立地から、この地域を治めた有力な豪族であったと考えられています。上段や中段の葺石は海を挟んだ淡路島の東海岸で産出されたもので、この地域で広く交易も支配していたと考えられています。陵墓ではないとされてはいますが、大和盆地から離れた地域でこれだけの古墳を築造するには交通の要衝を押さえるだけでは足らないとも考えられていて、中央の大和政権との関りも想像されます。

前方部から後円部を眺めて

前方部から後円部を眺めてみました。巨大な古代遺跡の向こうに街並みが広がる景色は住宅地の中にある五色塚古墳ならではの光景ですね。

埴輪の並ぶ前方部

墳丘には埴輪が並べられています。発掘調査で墳丘に並べられていた埴輪が発見されたそうで、古墳の復元にあたって埴輪も復元されて築造当時のように並べられています。

前方部から明石海峡を見下ろす

前方部の南端から明石海峡を眺めてみました。今も昔も交通の要衝だった明石海峡と、淡路島の島影を望むことができます。ちょうど山陽電車が通過していきました。

復元整備から50年を経た五色塚古墳では今後ガイダンス施設の整備が予定されています。施設の屋上に設けられたテラスからは古墳を眺めることができるそうで、これまでとは違った視点で古墳を眺められることになりそうですね。垂水に残された古代のミステリーをより楽しむことができるのを期待しながら、霞ヶ丘駅へと戻ることにしました。

復元整備50年・五色塚古墳を訪ねて(前編)

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秋のお彼岸の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

霞ヶ丘駅

山陽電車で着いたのは霞ヶ丘駅です。
日中はここで普通車が直通特急の通過を待って小休止をします。

五色塚古墳へ道

山陽電車の車窓からもよく見えるのが五色塚古墳です。
駅前には古墳への案内看板がありました。近年、古墳が注目されるようになったせいか、案内が充実してきたようですね。

五色塚古墳

住宅街を通り抜けると、家並みが途切れて巨大な丘が広がりました。五色塚古墳です。

神戸市垂水区の大阪湾を見下ろす高台にそびえるのが五色塚古墳です。別名を千壺古墳とも言い、古墳時代前期の4世紀後半に築造されたとされています。兵庫県下一の大きさとされていて、墳丘の長さは194mと、姫路市にある2位の壇場山古墳の143mを大幅に上回る規模です。大和盆地や百舌鳥・古市古墳群以外で200mに迫る墳丘は多くはなく、遠くからでも目立つ姿は迫力がありますね。

復元整備50年

古墳の周囲には復元整備50年を記念した幟が立てられていました。

西国街道沿いにあり、多数の船が行きかう明石海峡を見下ろす五色塚古墳は古くから名所として知られていて、近世以前の書物にも記されています。学術的な調査が行われるようになったのは明治時代以降ですが、当時は松の木々に覆われた小山のようだったそうです。太平洋戦争中には木を資材として使ったり、根から油を取るために古墳に植えられていた松の木は伐採されてはげ山のようになってしまいました。さらに周辺が畑として使われ、古くから親しまれてきた古墳は荒れ果てた姿になってしまったそうです。現在のような姿へと整備する取り組みが始まったのは昭和40(1965)年からで、それから10年をかけて調査と復元がおこなわれました。先日、令和6(2024)年8月8日には復元整備から50周年を迎え、様々なイベントが開催されたそうです。

古墳を眺めて

五色塚古墳を眺めてみました。墳丘には整然と葺石が並び、復元整備から50年を経ても美しい姿を保ち続けています。

次回、古墳へと上ってみたいと思います。

神戸を目指した道(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、かつての阪神本線の跡を歩いてみたいと思います。

神姫バス神戸三宮バスターミナル

現在のフラワーロードにあった滝道駅から出たかつての線路は三宮駅を経て東へと向かっていきます。
現在の線路は国道2号線の地下を通っていますが、当時の線路は東海道本線に沿うように走っていました。線路跡は高架下にバスが並ぶ神姫バス神戸三宮バスターミナルの前を通りすぎていきます。

鉄骨柱

線路跡の浜側を通るのは西国街道です。こちらを歩いてみて驚いたのがこちらの鉄骨の電柱です。路面電車の架線柱のようにも見えるので廃線跡と何か関係があるのかと思いましたが、直接関係は無さそうです。ただ、戦前頃からの電柱のようですので、今もこうして現役なのは貴重ですね。

八雲橋

東海道本線から離れて、線路跡は八雲橋で新生田川を渡ります。川の向こうに六甲の山々がかすんで見えました。

明治38(1905)年に開業した阪神電車は梅田の西側の出入橋駅から現在の三宮駅の西側の雲井通の間を開業させ、のちにフラワーロードを南下した滝道駅へと延伸させたのは前回も歩いてきた通りです。大阪から神戸を目指す日本初の都市間電車でしたが、当時の路線はあくまで路面電車扱いで、多くの区間では道路上を走っていました。

斜めの道

線路跡を辿って歩いてみるものの、線路の痕跡のようなものはほとんど見当たりません。そんな中で線路跡を強く感じられたのがこちらの道です。周辺の道路は碁盤の目のように直角に交わっていますが、こちらの道だけが町割りの中を斜めに横切っています。この斜めの道がかつての線路跡でした。複線の線路が敷かれていたにしては狭いような気がしますので、廃線となった後に住宅が建ち並び、現在のような道幅になったのでしょうか。

大安亭市場

斜めの道の先は賑やかな商店街の大安亭市場です。こちらでまた線路の痕跡は途切れてしまいました。

こうした道路上を走る区間は後のスピードアップの障害となったために順次切り替えられて姿を消していきました。神戸市内のこちらの区間も同様で、現在の地下線に切り替えられたのは昭和8(1933)年のこと。当時はさらに湊川へと延伸し、山陽電車と直通運転する計画まであったとされています。ちなみに、この計画は戦後の昭和43(1968)年に神戸高速鉄道東西線の開業で実現することとなりました。

西国街道をゆく

大安亭市場を過ぎた線路跡はかつての西国街道の道路上を東へ向かって伸びていきます。当時の阪神本線は都市間輸送だけでなく、東海道本線から離れた西国街道沿いの村々を結ぶ役割も担っていました。街道の上を行くこちらの区間はある意味では当時の阪神本線らしい区間だったのかもしれません。

線路跡を辿りながら歩くと、地下線となった現在の阪神本線が地上に顔を出す岩屋駅に着きます。こちらで廃線跡巡りを終えることにしました。

神戸を目指した道(前編)

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夏も終わりの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神神戸三宮駅

山陽電車を乗り継いで到着したのは阪神神戸三宮駅です。
大阪からやってきた直通特急には高砂の秋を彩る「たかさご万灯祭」のヘッドマークが掲出されていました。

フラワーロード

駅から地上に上がると、三宮の街並みが広がっています。南北に通る通りはフラワーロードで、通りの上には秋を思わせる爽やかな青空が広がっていました。

現在は岩屋駅から地下を走る阪神電車の阪神本線ですが、かつては地上を走っていました。明治38(1905)年に大阪の出入橋から神戸への路線が開業した当初、阪神電車の「神戸駅」は現在の三宮駅付近に設けられました。その後、大正元(1912)年にはフラワーロードを南下し、さらに「滝道」まで延伸され、滝道が「神戸駅」、かつての神戸駅が「三宮駅」と名乗るようになりました。「滝道」とはフラワーロードの古い呼び名で、旧生田川を埋め立ててて作られた大通りが布引の滝へ続いていることからつけられたものです。そんな滝道駅があったのは神戸国際会館の前辺りでした。神戸市電との接続駅で、ホーム全体を覆う屋根が設けられた駅だったそうですが、今では何の痕跡もありません。

三宮センター街東口停留所

かつて滝道駅のあった場所の少し山側に阪神バス三宮センター街東口停留所がありました。阪神滝道駅が昭和8(1933)年に阪神本線の地下化に伴って廃止された後もこの場所には神戸市電の停留所が残りましたが、ターミナルとしての機能を失ったためか、市電の路線の再編で昭和10(1933)年に廃止されてしまいました。

三ノ宮駅前

かつての線路跡を辿って歩いてみることにしました。滝道を出たかつての阪神電車は三宮に停まります。当時の三宮駅はJR東海道本線に沿うような位置にあり、ちょうどポートライナーの三宮駅の辺りにあったそうですが、こちらも街並みが大きく変わったせいで痕跡はありません。駅前では新駅ビルの建設工事が進んでいて、この景色はさらに変わっていきそうですね。

変わりゆく街並みの中に消えていったかつての鉄道の痕跡を訪ねていきたいと思います。

武庫川を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、武庫川沿いを歩いてみたいと思います。

中国街道

現在は「琴浦通り」と呼ばれている通りはかつては国道で、西宮で西国街道ともつながっていたことから「中国街道」と呼ばれていました。今では住宅街の道路ですが、松並木や漆喰の塀を模した塀が設けられていて、街道として賑わっていた当時の風情を今に伝えているようです。

武庫川

琴浦通りを西へ向かうと、武庫川に差し掛かりました。青空の下に穏やかに流れる川面が広がっています。今渡っている武庫川橋の下流に架かるのは阪神電車の武庫川橋梁で、橋の上には武庫川駅のホームが見えます。

岡太神社

武庫川を渡り、西宮市に入ったところには神社がありました。こちらは岡太神社です。

岡太神社の境内

岡太神社の境内は木々に囲まれていました。社殿は阪神淡路大震災で倒壊したのを再建したもので、真新しいコンクリート造りです。

岡太神社はここ鳴尾地域で最も古い神社とされています。社伝では、平安時代にこの場所から北西の廣田の人々が新田を開発して、延喜元(901)年に廣田明神を祀る神社を創建したのが始まりとされています。境内で目立つのが狛犬の代わりに鎮座するイノシシ像です。現在西宮神社に祀られている戎神は元々鳴尾で祀られていて、毎年正月九日にはここ岡太神社で恵比寿大神が災害を防ぎ五穀豊穣を祈る静止(しし)打神事が執り行われていて、神事の妨げにならないように村の人々は斎籠(いごもり)をしていました。この神事の静止と猪をかけて、イノシシが神社の使いとなったそうです。イノシシ像はそれに因んで昭和60(1985)年に建立されたものです。

平重盛供養塔

境内には供養塔がありました。こちらは平清盛の嫡男である平重盛の供養塔と伝わっています。平安時代、この辺りは平氏の所領で、重盛が「小松内府」と呼ばれていたことから「小松庄」と呼ばれていました。かつてこの神社の近くにあった「伏松」という丘には「小松城」とも呼ばれる重盛の居館があったと伝わっています。

岡太社碑

境内には古い石碑が夏の日差しを浴びて佇んでいました。

今は住宅地の広がる尼崎や西宮の武庫川沿いですが、古くからの伝説に彩られた史跡が街の中に佇んでいることに驚かされるようです。台風の季節ですが、嵐が去れば気候の良い季節が訪れるはず。少し足を延ばして歩いてみてはいかがでしょうか。

武庫川を歩いて(前編)

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お盆を過ぎ、秋の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

尼崎センタープール前駅

直通特急を乗り換えて着いたのは阪神電車の尼崎センタープール前駅です。駅前にはその名の通り、尼崎競艇場が広がっています。

大庄町

尼崎センタープール前駅から離れると、静かな住宅地が広がっていました。今では競艇場や市街地になっているこの辺りですが、かつては田園地帯で競艇場のある辺りには湿地帯が広がり、蚊などの害虫に悩まされていたそうです。また、センタープール前駅の周辺は道意新田、北側のこの辺りは東新田といった地名が古い地形図には記されています。

琴浦神社

大庄町の街中に佇んでいたのが琴浦神社です。

琴浦神社の境内

木々に囲まれた琴浦神社の境内には蝉時雨が降り注いでいました。

今は小さな神社ですが、神社の前の通りが「琴浦通り」と呼ばれていることからもわかる通り、琴浦神社は歴史ある神社です。かつては海に面した高台だったそうで、周辺とは異なる景勝地だったことから「異浦」とも呼ばれていたとのこと。神社の祭神は平安時代の嵯峨天皇の皇子・源融です。源融は光源氏のモデルとも言われていて、京都六条に造営した河原院という邸宅に今の宮城県の塩釜を模した庭園を造り、モデルにした塩釜と同様に庭園で塩を焼くため、毎日ここ琴浦から潮水を京都へ運んだそうです。今では市街地となり、そんなのどかな景色が広がっていたとは思えませんね。

琴浦通りを歩く

琴浦神社の前の琴浦通りはかつて中国街道と呼ばれていて、道路沿いには街道の風情を伝える塀が設けられていました。この道は武庫川に架かる武庫川橋へと続いていきます。

次回、もう少し武庫川沿いの街を歩いてみたいと思います。