せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

行基の開いた寺と池・昆陽の里を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、伊丹の昆陽の里を歩いてみたいと思います。

行基塚

昆陽寺の奥の木々の中に水路に囲まれた五輪塔がありました。こちらは行基塚、または開山塔と呼ばれています。墓所のようですが、行基の墓は奈良の生駒にあるので、こちらは行基を供養するための塚ということでしょうか。

昆陽寺の境内

木々の中に石仏が並ぶ境内は市街地にあるとは思えないような雰囲気でした。

旧西国街道と水路

昆陽寺から寺の前の石畳の道に出てみました。道沿いには水路があり、風情ある景色が続いていました。

今はこうした水辺の景色も見られる昆陽の里ですが、前回も見てきたように武庫川と猪名川に囲まれた伊丹台地と呼ばれるこの辺りはあまり水に恵まれない土地でした。奈良時代の僧行基は「昆陽布施屋」を設けて貧民の救済にあたっただけでなく新田開発もおこなったとされています。

昆陽池

昆陽寺から住宅地の中を歩いていくと、木々に囲まれた大きな池が現れました。昆陽だけでなく伊丹市のシンボルにもなっているため池・昆陽池です。「昆陽大池」とも呼ばれるこの池を開いたのは行基とされていて、池からの水によって水に恵まれなかった伊丹台地で新田開発が広がっていきました。

昆陽池を眺めて

かつての昆陽池は今に残る「昆陽上池」とともに西側にあり江戸時代に埋め立てられたとされる「昆陽下池」の二つの池があり、広大な池の景色が詩歌にうたわれる景勝の地となりました。現在は残っていた上池の東側も三分の一が埋め立てられて企業のグラウンドや社員寮、支援学校の敷地となり、かつてと比べてかなり小さくなりましたが、今も一部が貯水池として使われているだけでなく、市民の憩いの場となっています。

昆陽池の水が潤した昆陽は近世にかけても賑わっていくこととなりました。次回、もう少し昆陽を歩いてみたいと思います。

行基の開いた寺と池・昆陽の里を訪ねて(前編)

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早くも夏のような暑さのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

昆陽ノ里

阪急電車西宮北口駅から乗った阪急バスは住宅地の続く街並みを走り、武庫川を渡って伊丹市へ入りました。バスが着いたのは昆陽ノ里バス停です。

昆陽寺の山門

バス停のすぐ近くにあったのは立派な朱塗りの山門です。こちらは昆陽寺の山門です。

昆陽寺の山門と石畳の道

山門の前を通るのは国道171号線です。交通量の多い国道からは細い石畳の昔ながらの道が分かれていて新旧のコントラストを描いているようでした。

昆陽寺の境内

山門をくぐって新緑が眩しい境内に入ると、国道の騒音が急に遠ざかったようで静かな雰囲気に包まれるようでした。

昆陽寺は奈良時代の天平3(731)年に僧行基が建立したとされています。街道に面した交通の要衝だったこの地に行基が貧民の救済を目的に建立した「昆陽布施屋」が今の昆陽寺の始まりとされています。ただ、創建時の寺は現在地から少し北西の場所や山本(現在の宝塚市)などの諸説があるようで、詳しいことはわかっていないようです。聖武天皇の勅願寺となったこともあり、寺院として栄えていきますが、安土桃山時代の天正7(1579)年に現在のJR伊丹駅近くの有岡城に立てこもった荒木村重織田信長が戦った有岡城の戦いの際の兵火で焼失してしまいました。現在の建物の多くは江戸時代に再建されたものです。

昆陽寺の本堂

境内に佇む本堂は有岡城の戦いで焼失したのちに再建されましたが、平成7(1995)年の阪神淡路大震災で倒壊し、平成9(1997)年に再建されたものです。

行基堂

本堂の奥に佇んでいたのが行基菩薩をまつる行基堂です。こちらも江戸時代に再建され、震災でも被災しましたが解体修理を経て当時の建物が現存しています。

武庫川と猪名川に挟まれたこの地域は伊丹台地と呼ばれる台地状の地形になっていて、古くから水の確保が難しい土地でした。農地としての利用が難しいこの土地で行基は貧民救済だけでなく、土地の開墾も進めていました。

次回、行基の足跡を辿りながらもう少し昆陽の里を歩いてみたいと思います。

霊岩の佇む磐座・高岳を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の高岳・今宿を歩いてみたいと思います。

高岳神社鳥居

昌楽寺から住宅地を歩いていくと、家並みの中に立派な鳥居と灯篭が佇んでいました。高岳神社の鳥居です。

高岳神社

鳥居をくぐり、参道を西へ歩くと、木々に囲まれた丘に突き当たります。その名の通り、高岳神社はこの丘の上にあります。よく見ると、木々の間から見えるのは岩肌のようで、この丘全体が大きな岩でできているように見えます。まさに磐座というべきでしょうか。

高岳神社の境内

石段を上がると、険しい岩山の上に佇む社殿にたどり着きました。

高岳神社は平安時代の延喜式神名帳にもその名が記された古社です。創建時はここから北の八丈岩山に社殿があったそうですが、後に現在の場所へ遷っています。この場所へ遷った理由は縁起にもはっきりと記されていませんが、この岩山があったためでしょうか。

蛤岩

社殿の裏手に上る道を歩いてみました。社殿の裏は木々がほとんどなく、岩肌が剝き出しになっていて、まるで高山のような荒々しい景色に驚いてしまいました。岩山の頂には玉垣に囲まれた巨岩が佇んでいました。この岩は蛤岩と呼ばれる霊岩です。海から離れた内陸の丘の上に佇む岩ですが、この岩からハマグリの化石が発見されたことから蛤岩と呼ばれるようになったとのこと。発見された化石は神社の宝物とされているそうです。それにしても、姫路の近郊にこんな光景があるとは驚いてしまいました。このブログで播磨平野の丘をいくつも巡ってきましたが、多くは木々に囲まれた丘で、このような岩山は他には高砂の生石神社を思い出すくらいでしょうか。

蛤池

高岳神社の裏手へ降りると蛤池と呼ばれるため池がありました。背後の新緑の木々に覆われた山は蛤山で、山の中腹には高岳神社の御旅所があります。高岳神社の丘と尾根続きになっているこちらの山は地域のシンボルとなっているそうです。木々に覆われてわかりにくいのですが、この蛤山も岩山で、木々の合間からは姫路市街を一望できるとのこと。

蛤山を眺めて

蛤池越しに蛤山を眺めてみました。
青空の下に佇む新緑の山は眩しいくらいに輝いているようです。水面を渡る初夏の風を感じながら、磐座に見守られた村を後にすることにしました。

磐座の見守る里・高岳を訪ねて(前編)

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大型連休も後半に差し掛かった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

播磨高岡駅

姫路駅からJR姫新線のディーゼルカーで着いたのは姫路駅の一駅隣の播磨高岡駅です。

西国街道

駅の傍を通るのは国道2号線で、そのすぐ北側を旧西国街道が通っています。交通量の多い国道に対して、旧街道は静かな雰囲気で、曲がった昔の道沿いには趣のある家々が建ち並んでいます。

街道沿いのこの辺りは今は姫路市に含まれていますが、古くは高岡村と呼ばれ、さらにその前は今宿村と呼ばれていました。今では姫路の郊外の住宅地が広がっていますが、かつては西国街道沿いに農村集落が広がる地域だったそうです。

高岳神社道標

旧街道沿いにお地蔵さんがあり、その隣には大きな石碑がありました。「式内 高岳神社」と刻まれていることからわかるように、こちらはここから北西にある高岳神社の道標です。高岳神社はこの地域のシンボルの蛤山の傍にある神社です。今回はこのまま高岳神社へと歩いてみたいと思います。

東今宿薬師堂

住宅地を歩いていると、お堂がありました。こちらは薬師堂です。

薬師堂の力石

お堂の裏手には力石が並んでいました。かつてはこの石で力比べをしていたのでしょうか。

昌楽寺

薬師堂から奥に入ると、木々に囲まれた昌楽寺が佇んでいました。今では静かな寺院ですが、平安時代半ばの長保年間の建立と伝わる古刹です。やはり平安時代半ばに花山天皇が書写山への御幸の際に立ち寄ったとされていて、先ほど訪ねた薬師堂には御幸の碑が建てられています。農村集落だった今宿ですが、すぐ北側を書写山園教寺への参詣路の書写街道が通っていて、書写山の影響を受けながら発展した地域でもありました。

静かな住宅地にはるか古代からの歴史が息づく高丘・今宿をもう少し歩いてみたいと思います。

曽根・日笠山麓を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、曽根を歩いてみたいと思います。

霊松殿

前回もご紹介したように、曽根天満宮は平安時代に菅原道真がこの地に松を植えたことが始まりとされています。この初代・菅公手植えの松は江戸時代までこの地にあり、大木へ育ったそうです。ただ、社殿などが焼失した秀吉の播州征伐以降は衰弱しはじめ、江戸時代半ばの寛政10(1798)年に枯死してしまいました。現在の松は五代目で、初代松の幹はこちらの霊松殿に保存されています。

曽根の街並み

曽根天満宮の北側へ歩くと、昔ながらの街並みが広がっていました。この辺りはもともとの曽根の集落に当たる地区で、集落や天満宮の浜側には塩田が広がっていました。江戸時代には姫路藩領となった曽根ですが、後に幕領、そして、一橋領となりました。曽根で作られた塩はやはり幕府領だった法華山谷川沿いの今市を経て出荷されていったそうです。

旧入江家住宅

集落の中で目立つのが古くから製塩を営み、曽根の庄屋もつとめていた豪商・入江家の屋敷です。この入江家の他にも大きな屋敷が多く建ち並び、製塩で栄えた当時の賑わいを今に伝えているようです。

天川と日笠山

集落を出ると、天川の畔に出ました。川の向こうにそびえているのは桜の名所としても知られている日笠山です。曽根天満宮の始まりとなった菅原道真手植えの松ですが、一説ではこちらの日笠山に植えられたとも言われています。

住吉神社

天川を渡ると、山沿いに小さな神社が佇んでいました。こちらは住吉神社です。

黒岩十三仏

住吉神社の傍の崖に草木に覆われるような岩がありました。岩には仏像が刻まれています。「黒岩十三仏」と呼ばれるこちらの磨崖仏は今もJR曽根駅近くにある時光寺を開いた時光坊が刻んだものという伝説がありますが、仏像の左側に室町時代の年号が記された銘文が刻まれているそうで、実際は曽根の在家尼僧たちが生前供養のために刻んだものとも言われています。近世には製塩で栄え、現在は静かな住宅地となっていますが、天満宮とともに製塩で栄える以前の曽根の姿を垣間見ることができるような気がします。

日笠山と山陽電車

山陽曽根駅近くに戻りました。日笠山の麓を山陽電車が行きかっています。

塩田で栄えた街並みが今も残る曽根ですが、中世以前の伝説に彩られた史跡もあり、歴史の長さを感じることができました。これからの連休に、訪ね歩いてみてはいかがでしょうか。

曽根・日笠山麓を歩いて(前編)

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藤の花の咲く頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽曽根駅

山陽電車で着いたのは山陽曽根駅です。
なぜかローマ字で大きく書かれた駅名が特徴的ですね。

曽根天満宮参道

駅前からは曽根天満宮の参道が続いています。
あいにくの曇り空ですが、新緑の季節を迎えて木々は青々としています。

山陽曽根駅近くに佇む曽根天満宮は由緒ある神社として知られています。創建時期は不明ですが、伝説では延喜元(901)年に大宰府へ流される菅原道真が伊保の港へ立ち寄り、この地に松の木を植えたのが始まりで、後に道真の四男・淳茂が播磨国へ流された際に社を建立したとされています。

曽根天満宮随神門

参道を通り抜けると曽根天満宮の随神門がそびえていました。この随神門は江戸時代の大普請がおこなわれた享保12(1717)年の建立です。銅板葺きの屋根や破風が印象的で、由緒ある神社らしい立派な門ですね。

曽根天満宮の境内

広い境内には立派な社殿が佇んでいました。創建時の社殿は戦国時代に秀吉播州征伐の時に焼失してしまい、現在に残るのは天正18(1590)年に再建されたものです。

藤の花

境内ではちょうど藤の花が見ごろでした。
爽やかな紫色の花々を眺めていると初夏の訪れを感じますね。

高砂の曽根界隈をもう少し歩いてみたいと思います。

手苅丘の麓・手柄を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、手柄を歩いてみたいと思います。

生矢神社

船場川沿いに歩いていると、大きな神社がありました。こちらは生矢神社です。

生矢神社は名前からもわかるようにはるか古代、神功皇后の三韓征伐の際に現在の白浜の宮駅北側の麻生山から放たれた三本の矢の一本が落ちた場所とされています。これまでに訪ねてきた太市の破盤神社の割れ岩、余部の矢落の森、安室辻井の生矢神社的形と同じような伝説が伝わる地の一つです。

生矢神社の境内

手柄山の南麓に佇む神社の境内は広々としていました。

創建時は「行箭社」やこの辺りの地名「三和山」にちなんで「三和社」と呼ばれていたこの神社ですが、平安時代には平清盛が厳島へ向かう際にこの地へ立ち寄り霊夢を感じたことからこの社を「生屋大明神」として祀ったそうです。その後、江戸時代には清盛の十六代孫という関永重なる人物がこの地の代官職を務めるようになり、清盛ゆかりのこの神社の社殿を再建し、整備したそうです。以来、歴代の藩主からの寄進を受けるなどして広大な社領を持つ神社となりました。近代に入り、市街地として整備される中で社領は現在の規模になりましたが、それでも手柄山の山麓に佇む姿には歴史を感じることができます。

袖ぐみ地蔵

生矢神社から手柄山の麓を西へ歩くと、袖ぐみ地蔵がありました。地蔵堂の前ではまだ桜の花が残っていて、春の日が差し込んで幻想的な光景でした。

三和寺

手柄山の麓に佇んでいたのが三和寺(さんなじ)です。

三和寺の境内

山の麓の境内は緑に包まれるようでした。こちらは江戸時代に盤珪和尚の高弟の祖什という僧侶が再興したと伝わっています。盤珪和尚といえば網干の龍門寺を創建した僧侶ですね。生矢神社と同じく歴代の姫路藩主から信仰された寺院ですが、今は春の緑の中に静かに佇んでいました。

船場川と手柄山

船場川に架かる橋から手柄山を眺めてみました。現在は姫路市民の憩いの場の公園となっている手柄山ですが、風土記の時代にまで遡り、周辺に目を向けると歴史あるスポットが集まっているのが意外にも感じました。

私自身が気になって訪ね歩いていた姫路の矢落伝説の地も一回りしました。射られた矢は三本のはずなのに伝説がこんなに多く残されているのは不思議ですが、いずれ新しいことがわかるのかもしれませんし、伝説は伝説のまま、私たちの心を癒して楽しませてくれるのかもしれません。
そんなことを思いながら、春の終わりの手柄を後にしました。

手苅丘の麓・手柄を歩いて(前編)

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初夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

手柄駅

山陽電車で着いたのは手柄駅です。抜けるような青空が広がっていました。

旧姫路市中央卸売市場

駅の西側に広がるのは旧姫路市中央卸売市場です。3月に妻鹿駅の浜側の妻鹿漁港近くに新市場が開場したばかりで、こちらの旧市場はひっそりと佇んでいました。

船場川

手柄駅からしばらく歩いていると船場川に差し掛かりました。姫路城下を流れてここ手柄を通って飾磨へと流れる川です。眩しい日差しに水面が輝いているようでした。

船場川と桜

船場川沿いには桜が残っていて、川の上を白鷺が飛んでいきました。

姫路市街の南側、手柄山の麓に広がる手柄地区は古い歴史を持っているとされています。奈良時代の「播磨国風土記」には手柄山が「手苅丘」と記され、麓のこの辺りは「手苅村」と呼ばれていたそうです。不思議な地名の由来には、近隣の国々の神がこの辺りで手で草を刈り食物を置く敷物としたという伝説や、この辺りの住民は鎌を知らず手で草を刈っていたという伝説があります。「手苅」が今の「手柄」となった時期は詳しくわかっていませんが、一説では永享12(1440)年の結城合戦の際に英賀三木氏の配下の武将がこの辺りで手柄を挙げたことに因んでいるともされています。その後、近世にかけて「手苅」という地名は消えてしまいますが、明治時代に手柄山に因んで手柄村が設置され、この辺りが再び手柄と呼ばれるようになりました。

鯉の釜

船場川が手柄山にぶつかり大きく曲がっているこの辺りは淵になっていて、「鯉の釜」と呼ばれています。「姫が淵」「蛍沢」という別名もあるそうで、古くは蛍の名所として知られていたそうです。

姫路市街に近接しながら、豊かな自然を感じられる手柄をもう少し歩いてみたいと思います。

花盛りの姫路城を訪ねて

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今年は開花が早かった桜も散り始めた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

桜の時期は過ぎつつある頃ですが、花の盛りに姫路城を訪ねてきましたのでご紹介します。

姫路城を眺めて

定番の眺めになりますが、山陽姫路駅前の大手前通り越しに姫路城を眺めてみました。明るい春の日差しに、白いお城が一層輝いているように見えますね。

お堀越しの姫路城

大手前を歩き、姫路城の前へ着きました。ちょうどお堀を観光用の和船が進んでいきます。まるで一幅の絵のような光景でした。大手門へと続く桜門橋には多くの観光客が行きかっています。

何度も訪ねていますが、姫路城は播磨平野にそびえる姫山に築かれた平山城です。もともとは中世に築かれた城で、戦国時代から安土桃山時代にかけて、黒田官兵衛や羽柴秀吉が城代をつとめた頃に拡張されていきました。現在のような城郭が整備されたのは江戸時代の初め、池田輝政の手によります。

三ノ丸広場の桜

姫路城の大手門をくぐり、三ノ丸広場に入ると、辺りは桜の海のようでした。三ノ丸広場はお花見の方でいっぱいでした。

城郭として整備された姫路城ですが、築城当時はこのように桜は植えられていなかったとされています。城主や家族の住んでいた居館の庭園の植栽に桜もあったとされていますが、現在のような桜並木ではなかったそうです。

基準木

三ノ丸広場の西側には基準木という看板が立っていました。こちらは姫路城の桜の開花の基準木で、この木の開花状況が姫路城での桜の開花状況として公開されています。現在の標準木は二代目で先代は樹齢90年とも言われる老木でした。

近世を通じて姫路を中心とした播磨を治める拠点だった姫路城ですが、明治に入ると城一帯に陸軍の施設が設けられました。姫路城自体は民間に売却されてしまいましたが、のちに国有に戻され、明治の大修理として大規模な修繕工事が施されました。この修理の完了後に城跡の陸軍の使用していない場所は姫山公園として整備されていきました。姫路城で桜が植えられるようになった時期ははっきりしていませんが、樹齢90年と言われる先代の標準木が植えられたのはちょうどこのころ。姫山公園が都市公園として整備される中で城内に桜の木が植えられていったのでしょうか。

姫路城大天守と桜

桜越しに大天守を眺めてみました。
姫路城が今のような桜の名所となったのは城郭として役目を終えて、都市公園として整備されていったからと言えるのでしょうか。城にとってそれが良いことなのかは私にはわかりませんが、こうして白い大天守と桜の花を楽しめるのは時代が移り変わっていったおかげと言えるのかもしれません。

今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、来年は是非花盛りの姫路城を訪ねてみてください。

古代寺院と伝説の地・安室辻井を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の北西郊外の安室辻井地区を歩いてみたいと思います。

辻井常夜灯

書写街道のバイパスの北側の住宅地に常夜灯がありました。辻井常夜灯と呼ばれるこちらは書写街道の旧道に設けられたものでした。常夜灯の前の書写街道の旧道は今では静かな住宅地の道ですが、かつては書写山への巡礼者が行きかっていたのでしょうか。

辻井の街並み

住宅地の中へ入ると、瓦屋根の民家や蔵の建ち並ぶ昔ながらの細道が続いていました。

行矢神社

住宅地の中に佇んでいたのが行矢神社です。

行矢神社と桜の木

境内ではちょうど桜の花が咲き始めたばかりでした。

行矢神社の歴史は古く、伝説では神功皇后が三韓征伐の際に妻鹿駅や白浜の宮駅の北側にある麻生山から放った矢の一本がこの地に落ちたことを由来としています。太市破磐神社青山稲岡神社とともに、最近、私が気になっている矢落伝説の地の一つとされています(諸説あります)。神社に祀られているのは射盾神と兵主神で、もとは八丈岩山の南麓にあったものがいつしか周辺の住民とともにこの地へ移ったとされています。

行矢神社の境内

それにしても、射盾神兵主神、どこかで聞いたことがありますね。実はこの二柱は姫路城下の播磨国総社こと射盾兵主神社にも祀られています。明治時代には平安時代の延喜式神名帳に記された「射盾兵主神社」が総社なのかこの行矢神社のどちらなのか論争になったそうで、一旦はこの行矢神社が射盾兵主神社とされたものの、再審の末に総社が射盾兵主神社となり、こちらは「行矢射盾兵主神社」とされました。

八丈岩山を眺めて

行矢神社の近くからは家並みの向こうにかつて麓に行矢神社があったとされる八丈岩山を眺めることができました。

行矢神社の祭神の射盾神と兵主神は三韓征伐の後にこの地の開拓に努めたとされています。ひょっとすると、辻井に眠る古代遺跡を築いたのはこの神々やそれを祀る人々だったのかもしれません。

そんなことを考えながら書写街道を姫路駅へ向かうバスに乗り、古代遺跡と伝説に彩られた安室辻井地区を後にすることにしました。