せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

山陽沿線ブログ終了のお知らせ

平素より山陽沿線ブログをご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
当ブログは、読者の皆さまに支えられ、長期間にわたり更新を続けてまいりましたが、
このたび12月末日をもちまして終了させていただきました。
今後とも山陽電車をご愛顧賜りますよう、お願い申しあげます。

旅の終わり・明石を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石を歩いてみたいと思います。

坤櫓

明石城の本丸の南西側に設けられているのは坤櫓です。巽櫓よりも一回り大きく、弁柄で色付けされた格子が印象的ですね。明石城では天守が設けられなかったため、この坤櫓が天守の代用として使われていたそうです。二つの櫓が対のように設けられている明石城ですが、近くで見るとそれぞれの櫓は全く違う造りであることが印象的ですね。

天守台

坤櫓の近くには天守台がありました。

今に残る櫓が印象的な明石城ですが、日本の城につきものの天守閣は設けられませんでした。しかし、こうして天守台は用意されていて、大きさは九州の熊本城とほぼ同じ規模だそうです。もしも明石城に天守閣が設けられて現存していれば、明石の景色は大きく変わっていたのでしょうね。

人丸塚

城内には小さな小山がありました。こちらは人丸塚です。

現在は明石城になっている一帯ですが、かつては楊柳寺という寺院がありました。弘仁2(811)年に空海が創建したと伝わり、明石城の築城からさかのぼること800年も前からこの地にあったのですね。総研から程ない仁和3(887)年に覚証という僧が飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂の夢を見て、寺の裏手にあった塚に人麻呂を祀るようになり、人丸社を建立しました。この時、楊柳寺は寺号を月照寺と改めています。明石城築城の際に月照寺は東側の丘に移され、人丸社も柿本神社となり、今も明石の街を見守っています。

剛ノ池

本丸の裏手に回ると、広い池が広がっていました。こちらは剛ノ池です。もともとこの地にあった池を築城の際に明石城の中に取り込み、水堀の代わりとしたもので、築城当初は現在以上の広さがありました。池の周辺は起伏に富んでいて、鬱蒼とした木々が生い茂る一角もあり、明石城が平地に設けられた城ではなく、天然の山を利用した城であることがよくわかりますね。資料や写真だけでなく、こうして歩いてみて体験することが史跡を訪ね、散策をする楽しみでした。こうした楽しみ方が多くの人に伝わっていればいいですね。

山陽明石駅にて

明石城から山陽明石駅に戻り、直通特急に乗ることにしました。

お知らせの通り、「せっつ・はりま歴史さんぽ」の更新は今回で終了です。山陽電車の沿線やそれ以外、摂津や播磨を始めとした地域を巡り歩いてきた11年に渡る長い長い旅はいよいよ終わりとなりました。次はぜひ皆さんが身近な地域を歩いて、古くから地域に根付いてきた魅力を再発見してみてください。

長らくの間、ご覧いただきありがとうございました。
そして、みなさまどうぞよいお年をお迎えください。

旅の終わり・明石を歩いて(前編)

投稿日:


年末の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

既にお知らせが表示されていますが、山陽沿線ブログは12月末をもって終了することとなりました。
「せっつ・はりま歴史さんぽ」は2013年から12年近く山陽沿線やそれ以外の地域を歩いてきましたが、いよいよ旅の終わりが迫ってきました。長らくご覧いただき、ありがとうございました。

山陽明石駅

最後に訪れたのは山陽明石駅です。
年末ということもあり、駅や町はたくさんの人々で賑わっていました。

明石城跡

明石公園の中にそびえるのは明石の街のシンボルともいえる明石城跡です。

明石城は元和5(1619)年に初代明石藩主となった小笠原忠政が二代将軍徳川秀忠から命じられて築城した城です。明石藩の城としてだけではなく、外様大名の控える西国への守りを固める重要な拠点という位置づけでした。城内には現在に残る櫓の他に、西新町駅近くにあった船上城から移築された本丸御殿などの建物があったそうです。

明石城の石垣

駅からも見える櫓に注目しがちな明石城ですが、立派な石垣も印象的ですね。明石城は六甲山地や垂水から延びる丘陵の先端に設けられた平山城で、平地の明石駅付近から眺めると相当な高さがあるように感じます。

巽櫓

石垣の上、南東側に設けられているのが巽櫓です。こちらの建物も船上城から移築されたものとされていて、櫓にしては立派な造りから船上城の天守だったのではないかとも言われています。ただし、現存する建物は江戸時代初めに焼失したものを再建したもので、築城当時のものではありません。

明石城からの眺め

二つの櫓の間からは明石の街並みと明石海峡大橋、そして、淡路の山並みを見下ろすことができました。

明石城をもう少し歩いてみたいと思います。

宝の海を臨む垂水を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、垂水を歩いてみたいと思います。

垂水東口バスターミナル

海神社から山陽電車の高架を潜り、山側に出ました。
駅前に広がるのは山陽バスの垂水東口バスターミナルです。黄色い山陽バスが発車を待っていました。

池姫地蔵尊

垂水東口から垂水小学校の山側に向かうと、Y字に分かれた道の又の部分にお堂がありました。こちらは池姫地蔵尊というお地蔵さんです。かつてこの辺りにはため池がありましたが、昭和初期の開発で池は埋め立てられてしまいました。その際、池の底から見つかったのがこちらの池姫地蔵尊です。ちなみに、垂水東口に発着する以前はこのお堂の傍に山陽バスの神田町停留所があり、他の神田町の乗り場と呼び分けるためにこのお地蔵さんに因んで「地蔵前」とも呼ばれていました。

瑞丘八幡神社

池姫地蔵尊からかつてバスの走っていた坂道を歩いていくと神社がありました。こちらは瑞丘八幡神社です。

瑞丘八幡神社の境内

訪れたときはもう年末も近いというのに銀杏の黄色い葉がまだまだ残されていました。

瑞丘八幡神社の創建時期は分かっていませんが、古くからこの地域で祀られていたとされています。この神社の主祭神の神功皇后は海神社の創建にもかかわりがあるため、海神社と同様の時期に創建されたのではないかとも言われています。元々は厄除八幡でしたが、昭和6(1931)年に瑞丘社、荒神社、御霊社を合祀して社号を現在の瑞丘八幡神社に改めています。ちなみに、瑞丘社は菅原道真を祀る天満宮で、もとは山陽垂水駅の山側の天ノ下町にありました。商大筋の下を暗渠で流れる天神川の名前はこの瑞丘社に因んでいます。また、御霊社も福田川沿いの元々あった場所には御霊町の名前が残されています。

瑞丘八幡神社から眺めて

瑞丘八幡神社からは鳥居越しに垂水の町を見下ろすことができました。かつては一面に田畑が広がっていて、この八幡神社が「矢羽田の神」として村々を見守っていたそうです。

海の神と里の神に見守られた垂水は賑やかに年末を迎えようとしていました。

宝の海を臨む垂水を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、垂水を歩いてみたいと思います。

大阪湾を眺めて

海神社の大鳥居の前からは漁協の建物越しに大阪湾の水面を眺めることができました。

山田岸松像

漁協と向かい合うようにして設けられた広場には銅像が立っていました。こちらは神戸市西部漁業協同組合の初代組合長をつとめた山田岸松氏の像です。

山田氏は漁協の建物の向こうに広がる垂水漁港の整備や海苔養殖の事業などに取り組み、垂水だけでなく兵庫県の漁業の発展に貢献しました。垂水と言えば、住宅地だけでなく、いかなごやしらす、そして、須磨に養殖場が広がる海苔と海の幸に恵まれていますが、その礎を築いたといえるのでしょう。その功績を伝えるためにこちらの像が建てられました。銅像の傍には魚型の石像の海の幸供養塔が建てられています。

寶ノ海神社

山田岸松氏の銅像のある広場の隣には赤い鳥居の並ぶ神社がありました。寶ノ海神社です。

寶ノ海神社の創建は新しく、昭和54(1979)年に創建されました。一見、海神社と関係しそうな雰囲気ですが、そうではなく、神戸市漁業協同組合が豊漁を祈願して創建したものです。「寶ノ海」という社号はまさに目の前に広がる資源が豊かな大阪湾を表しているようで、素敵に感じますね。

明石海峡大橋を眺めて

海神社の大鳥居の前からは明石海峡大橋を眺めることができました。商業施設のリニューアルのおかげで、周辺は大変な賑わいのようです

冬の垂水をもう少し歩いてみたいと思います。

宝の海を臨む垂水を歩いて(前編)

投稿日:


師走に入り、どこか慌ただしくなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽垂水駅

山陽電車で着いたのは山陽垂水駅です。山陽電車の高架の下には山陽タクシーの乗り場があり、駅前には山陽バスの停まるバスターミナルが広がっています。

海神社

駅の浜側、JRの高架沿いにこんもりとした森があります。こちらは海神社です。地元では「かいじんじゃ」と呼ばれていますが、正式には「わたつみじんじゃ」です。

海神社の境内

周辺は飲食店や住宅、鉄道の高架で、賑やかな垂水の街の真ん中にある神社ですが、境内はまるで別空間のように静かで、街中のオアシスといった雰囲気です。

海神社の歴史は非常に古く、遥か古代に遡ります。神功皇后が三韓征伐の帰途にこの沖合を通りかかったところ暴風雨に見舞われました。そこで綿津見三神を祀って祈ったところ、暴風雨はやみ、船は進むことができたそうです。その縁から、この地に綿津見三神を祀る社を築いたのが始まりです。同様の伝説は播磨灘~大阪湾沿岸にかけての地域に広く伝わっていて、本当のところはわかりませんが、いずれにせよ名前の通り、海に深い縁のある神社ですね。

海神社大鳥居

国道を渡り浜側へ向かうと大鳥居がそびえています。

かつてはこの鳥居の前は砂浜で、文字通り「海」の神社でした。古い写真では、松の木が並ぶ砂浜に鳥居がそびえ、その傍には垂水警察署の洋館が建っていて、どこかリゾート地のような雰囲気だったようです。今では砂浜は埋め立てられて鳥居の前には漁協の建物が建っています。垂水警察署は学が丘へと移転してこの場所にはありません。すっかり景色が変わっても、海と淡路島の島影を望む雰囲気は変わらないのでしょうか。

年末の垂水をもう少し歩いてみたいと思います。

晩秋の曽根崎を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の曽根崎を歩いてみたいと思います。

梅田の街並み

年末が近づき、梅田の街は賑わっていました。

太融寺

繁華街の中に石碑がありました。こちらは太融寺です。繁華街が広がるこの一帯ですが、寺社も数多くあります。

太融寺の門

南側へ回ると、門が建っていて奥には本堂がそびえています。

太融寺の歴史は古く、平安時代の弘仁12(821)年に遡ると言われています。創建は弘法大師空海と言われていて、空海がこの地にあった森に霊木を見つけ、その木を使って地蔵菩薩と毘沙門天を彫り、それを祀る草庵を編んだのが始まりと言われています。翌年、この地を訪れた嵯峨天皇から下賜された千手観音像を本尊として正式に寺院の姿として整えられていきました。

太融寺の境内 

太融寺の周辺は歓楽街としても知られていますが、寺の境内は別世界のように静かでした。梅田に位置する歴史ある寺院ということで観光客の姿も少なくありません。

正式に寺院となった太融寺ですが、承和10(843)年には嵯峨天皇の皇子の左大臣源融によって境内が広げられて七堂伽藍と呼ばれる堂宇も建立されて大寺院として発展していきます。現在の太融寺という寺号になったのもこのときで、源融に因んでいます。

太融寺の庭園

慶長20(1615)年の大坂夏の陣、昭和20(1945)年の大阪大空襲の二度、堂宇は焼失してしまい、現在の建物は戦後に再建されたもので創建当時の建物は残されていませんが、庭園の広がる境内には当時の面影を感じるようです。

これから年末年始にかけて梅田は賑わう季節です。繁華街の中にこの街が積み重ねてきた歴史を訪ねてみてはいかがでしょうか。

晩秋の曽根崎を歩いて(前編)

投稿日:


肌寒い風が吹き、年末を感じるようになったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神大阪梅田駅

直通特急が到着したのは大阪の都心・梅田にある阪神大阪梅田駅です。

曽根崎

阪神大阪梅田駅から梅田の街を歩くことにしました。11月も末になり、年末の雰囲気が漂う街は多くの人で賑わっています。そんな賑わう町中に飲食店や商店の連なる商店街がありました。こちらは曽根崎お初天神通りです。

露天神社

商店街の奥には神社がありました。こちらは「お初天神」こと露天神社です。

現在は大阪の都心となっている梅田ですが、現在のように繁華街やビジネス街となったのは近代以降で、東海道本線の大阪駅が開設されたことがきっかけでした。それ以前の大坂は堂島や船場、天満といった旧淀川(現在の大川や土佐堀川、堂島川)沿いで、梅田は町はずれの湿地帯や田園地帯でした。梅田の地名自体も湿地帯に田を開いたことを意味する「埋田」が由来です。江戸時代の元禄16(1703)年にこの神社の裏手の天神の森で起こった心中事件は近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」の題材になり、町はずれの寂しい土地だった曽根崎の名前を一気に有名にしました。露天神社の通称「お初天神」は浄瑠璃の悲劇のヒロインの名前にちなんでいます。

露天神社の境内

神社の境内は観光客で賑わっていました。訪れている人の多くは外国人で、梅田の町中で気軽に神社の雰囲気を味わえることが人気を集めているようです。また、浄瑠璃にちなんでいるのか、恋愛成就の神社ともいわれていて、境内にはそれに関する装飾もありました。

大坂の街が発展する以前のこの辺りは淀川が河口付近で分流し「難波八十島」とも呼ばれた多くの中洲が形成された低湿地帯でした。今の曽根崎地区になっている一帯は「曽根州(そねのしま)」と呼ばれる中洲で、河川の氾濫があったことややせた土地であることを意味する「そね」という名前が付けられてることからもわかるようにひときわ荒れた土地だったようです。しかし、この地は多くの中洲を日本列島に見立てて新しい天皇の即位の儀礼をおこなう「八十島祭」の場所でもありました。現在、この儀礼は行われていませんが、平安時代から鎌倉時代にかけて22回も行われた記録が残されています。この露天神社は「八十島祭」の祭礼の地のひとつであったと言われています。

露天神社を眺めて

観光客でにぎわう神社を眺めてみました。

ビルの合間に佇む神社から、荒れた中洲に佇む社だった太古の姿を想像するのは難しいのですが、千年以上もの間に大きく様変わりした街をこの神社は眺めてきたのでしょうか。

大都会の中に残された歴史の面影を訪ねて、もう少し曽根崎を歩いてみたいと思います。

三田・三輪を訪ねて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて三田を歩いてみたいと思います。

大道坂

三輪神社の裏手には坂道が続いていました。こちらは「大道坂」と呼ばれる古くからの道です。

三輪明神窯史跡園

坂の途中に公民館のような施設がありました。こちらは三輪明神窯史跡園です。

三輪明神窯

園内には焼き物を焼く登り窯が保存されていました。

三田盆地は古くから焼き物の生産が盛んな地域で、三田で生産された焼き物は「三田焼」と呼ばれていました。北部の福知山線広野駅の近くには須恵器に由来する「末(すえ)」という地名も残されています。そんな三田で青磁の生産が始まったのは江戸時代でした。この場所から大道坂をさらに上った先にある志手原という地区に江戸時代中期の宝暦年間に志手原窯が開かれて青磁が作られるようになりました。ここ三輪明神窯が開かれたのはその少し後の寛政11(1799)年とされています。三田焼の中でも特に青磁は美しく品質が高かったため「三田青磁」として評価されるようになり、三田城下の豪商が青磁器を生産する窯を支援したこともあって大きく発展することとなりました。

三輪明神窯を眺めて

三輪明神窯には6基の窯が保存されています。近隣には志手原窯を始めとして数多くの窯があり、一帯は焼き物の町だったのでしょう。

江戸時代の終わりに三田青磁の生産はピークを迎えますが、その後、三田焼産業全体が衰退していきます。昭和10年代にはここ三輪明神窯を始め、一帯の窯が全て閉じられてしまいました。現在ではわずかな作家が三田青磁の作品をつくり、ここ三輪明神窯史跡園などで体験会がひらかれています。

三輪神社に戻って

三輪明神窯史跡園から森を通り抜けると三輪神社へ戻りました。境内からは秋空の下に広がる三田の街並みを眺めることができます。

神戸や大阪のベッドタウンとして大きく発展した三田ですが、新しい街並みを離れると盆地に生まれた町が積み重ねてきた歴史が垣間見れるようです。これからの紅葉の季節に訪ねてみてはいかがでしょうか。

三田・三輪を訪ねて(前編)

投稿日:


暦の上では冬となった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三田駅

新開地駅から六甲山地を越えた神戸電鉄の電車は武庫川沿いに広がる三田盆地へと下り、三田線の終点の三田駅に到着しました。三田市の中心にある三田駅は福知山線と接続する交通の結節点で、駅前には商店やホテルなどが建ち並んでいます。

三田駅の北側

バスターミナルが広がり、街の中心部の印象の強い三田駅の南口に対して、北口を出ると山の麓に住宅が建ち並ぶのどかな景色が広がっていました。この辺りは「三輪」と呼ばれていて、中世には今の奈良県にある大神神社の荘園でした。

現在の三田市は神戸や大阪のベッドタウンのイメージが強いのですが、近世には三田盆地を中心に三田藩が置かれ、九鬼水軍で知られる九鬼氏が志摩国から転封されて幕末までこの地を治めていました。そうした歴史から、現在の三田の市街地は九鬼氏の城下町がもとになっていますが、ちょうどこの辺りの三輪地区は三田藩が置かれる以前からの町で、大神神社の荘園を現在の桜井市周辺に拠点を置いていた松山氏が荘官として治めていたことから「松山の庄」とも呼ばれていたそうです。

三輪神社

山の方へ向かって歩くと、大きな鳥居が見えてきました。こちらは三輪神社です。

三輪神社の境内

急な石段の先に三輪神社の社殿がありました。

三輪神社は名前の通り、大神神社を分祀した神社です。日本最古の神社とされる大神神社の分祀ということでこの三輪神社の歴史も非常に古く、奈良時代の天平神護元(765)年に遡るとされています。大神神社が摂津国のこの地を与えられて治めるようになり、その際に祭神の大己貴神をまつるようになったのが始まりとされています。その後、中世には三輪神社の前に門前町が生まれ、武庫川の南岸に建立された金心寺の門前町と一体となって現在の三田の市街地の基となる街が形成されていきました。

三田市街を見下ろす

三輪神社の境内から三田の市街地を眺めてみました。ビルの建ち並ぶ市街地の向こうには丘陵地帯に広がる住宅地を眺めることができ、現代の三田という街を感じることができるような眺めですね。

晩秋の三田をもう少し歩いてみたいと思います。

秋の生田の森を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の生田神社を訪ねてみたいと思います。

生田の池

生田神社の社殿の裏手には池が広がっていました。こちらは生田の池です。現在は噴水が設けられた現代的な庭園の雰囲気ですが、古くからの歴史があり、鎌倉時代には藤原定家の歌に詠まれるなど名勝として知られていたそうです。

生田の森

生田の池の傍には木々が生い茂る森が広がっていました。こちらは生田の森です。

はるか古代に砂山と呼ばれた現在の布引山に建立された生田神社ですが、建立からしばらく経った平安時代の延暦18(799)年に洪水で布引の渓谷が氾濫して山崩れが発生し、社殿が傾いてしまいました。山麓の生田村の刀禰七太夫なる人物がご神体を背負って崩れる砂山から避難させてこの地へ運んだそうです。伝説では、砂山から運び出したご神体がここ生田の森で急に重くなり動けなくなったのでこれは神意だと思いここに新しい社殿を建てることにしたそうです。

生田の森の中

生田の森の中に入ると木々の合間から秋の日差しの降り注いでいました。

新たにこの地に建立された生田神社の森として平安時代以降数々の書物に記され、生田の森は知られるようになりました。源平の合戦の中で寿永3(1184)年に起こった一の谷の合戦では須磨の一の谷だけでなくこの地にも平氏の平知盛の陣が敷かれ、古戦場としても知られるようになります。

生田の森の裏手

生田の森を通り抜けると、東門街の由来にもなった東門の鳥居がそびえていました。鳥居の向こうには三宮の繁華街が広がっています。昼間でも賑やかな街並みは静かな雰囲気の境内とはまるで別世界で、その差に驚いてしまいました。現在の神戸の地名は平安時代に朝廷から神戸「生田の神封四十四戸」を与えられ、周辺が社領となったことが由来とされています。神戸の都心に鎮座する神社は街の移り変わりを静かに眺めてきたのでしょうか。

震災復興記念碑

境内には震災の記念碑が建てられています。神戸の市街地にある神社は戦災や自然災害など数々の被害に遭ってきました。阪神淡路大震災で社殿が倒壊していた光景はまだまだ記憶に新しいのではないでしょうか。数々の災害に遭いながらもこうして今も都心に鎮座し、多くの参拝客が訪れる神社は蘇りの神社としても信仰されているそうです。

現在、ドラマの放送で神戸や阪神淡路大震災が改めて注目されています。
この秋は都心に静かにたたずむ神社と、その奥に広がる森を訪ねてみてはいかがでしょうか。