せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、東二見を歩いてみたいと思います。

東二見の町並み

引き続き、東二見の町を歩いていくことにします。
入り組んだ路地に趣きのある建物が残る街並みからは播磨灘の漁業で賑わった当時の面影を感じることが出来るようでした。

京極稲荷大明神・山野口稲荷大明神

東二見の町を歩いていくと、住宅地の路地に立派な松の木がそびえ立っていました。松の木の下のは二つの小さな社があり、それぞれ京極稲荷大明神・山野口稲荷大明神という名前だそうです。

薬師寺

松の木の近くには寺院がありました。こちらは薬師寺で、「原の薬師さん」と呼ばれて地域では親しまれています。

弘法大師の霊水

薬師寺の傍には川沿いに一段下がった空間があり、お地蔵さんが立っていました。こちらは「弘法大師の霊水」と呼ばれる湧き水です。

伝説では、村人が水に困っていたところ、この地を訪ねた弘法大師が地面を錫杖で突くと水が湧き出したそうです。この湧き水は干ばつでも枯れることがなく、今も千年以上にわたって湧き出し続けているとのこと。また、この湧き水を傍の水かけ地蔵に掛けると願いが叶うとも言われています。

松の木が見守る霊水

霊水の傍にも立派な松の木がそびえたっていて、まるで湧き水を見守っているのかのようでした。

昔ながらの町並みに松の木が印象的な東二見をもう少し歩いてみたいと思います。

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(前編)

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彼岸に入り、暑さのやわらぎ始めた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

東二見駅

山陽電車で着いたのは東二見駅。山陽電車の車庫や車両工場のある拠点となる駅です。
毎年10月末に開催される「山陽鉄道フェスティバル」でもお馴染みの駅ですね。

東二見の町並み

駅の周辺は浜国道が通り賑やかな雰囲気ですが、南の浜側へ向かって歩くと昔ながらの商店が建ち並ぶ街並みが続いていました。

観音寺

浜側へ向かって歩いた先に立派な山門がそびえていました。こちらは観音寺という寺院です。

現在は観音寺という名のこの寺院ですが、もとは法船寺という名前でした。寺の名前が改められたのは江戸時代のことで、境内の観音堂に安置されている観音像にちなんでいるとのこと。この観音像は安土桃山時代の天正9(1581)年と江戸時代の寛政2(1790)年の二回も寺の堂宇を焼く火災に遭っていますが、いずれの火災でも観音堂は無事でした。そのことにちなんで、観音像は「火防観世音」と呼ばれているそうです。

長徳禅寺

観音寺の近くにあったのが長徳禅寺という臨済宗の禅寺で、こちらも安土桃山時代の創建と伝わる古刹です。

清高大明神

長徳禅寺の近くには清高大明神という小さな社が佇んでいました。
東二見は古くから播磨灘の漁業で栄えた地域です。昔ながらの町並みに社や古刹が佇む雰囲気はかつての賑わいを今に伝えるようですね。

次回はもう少し東二見を歩いてみたいと思います。

印南野台地の西・野口を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加古川の野口を歩いてみたいと思います。

旧西国街道

五社宮野口神社から旧西国街道をさらに西へと歩くことにしました。
夏の青空の下にのどかな景色が続いていました。

野口城跡

住宅の合間に野口城跡と書かれた看板を見つけました。

野口城はかつて野口神社の境内一帯にあった城で、城主は三木・別所氏の与力を務めていた長井長重という人物でした。周囲を沼地に囲まれた要害で「播州一ノ名城」とも言われた城でしたが、天正6(1578)年、三木合戦で播磨へ進軍した羽柴秀吉に攻め落とされました。この時、城を守る沼地は秀吉の手により三日三晩にわたって麦や草木で埋め立てられてしまい、激しい戦いの末に落城したそうです。

教信寺

野口城跡の近くに立派な寺院がありました。こちらは教信寺です。

教信寺の境内

広い境内には桜の木々が植えられていて、春には桜の名所になるようです。

教信寺は奈良時代の末から平安時代にかけての僧・教信の開基と伝わる古刹です。奈良の興福寺の僧だった教信は全国を放浪した後に当時この地にあった西国街道の駅家・賀古駅家(かこのうまや)に庵を編んで暮らしたそうです。この庵が教信寺の始まりとされています。教信は称名念仏の先駆者とされ、教信の教えは後の時代の僧たちに大きな影響を与えました。教信ゆかりのこの寺は浄土宗や浄土真宗の関係者から広く信仰を集め、室町時代には13の堂宇と48の僧坊を抱える大寺院となりましたが、天正6(1578)年、近隣の野口城とともに秀吉の攻撃を受けて大伽藍は焼失してしまいました。現在の堂宇は江戸時代までに復興したもので、本堂は幕末に焼失したものを明治時代に書写山圓教寺の念仏道場を移築して再建したものだそうです。

駅ヶ池

教信寺を出て国道2号線を渡った先に池がありました。駅ヶ池という名前のこちらの池は教信が造成したため池だと伝わっています。この池の造成の他にも教信は西国街道をゆく旅人の荷物運びの手伝いや農作業の手伝いをしながら、人々や家族とともにここ賀古の里で過ごしたそうです。そうした姿が親鸞や一遍といった後の高僧たちにも影響を与えたとも言われています。

教信が造成した頃と変わらない姿なのでしょうか、ため池は水草に覆われながらも豊かな水を貯え、印南野台地の西の田畑を潤しているようでした。

印南野台地の西・野口を歩いて(前編)

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まだまだ暑さが続いていますが秋を感じることが多くなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

東加古川駅

明石駅から山陽本線の電車に乗り換えて着いたのは東加古川駅です。
新快速は停まりませんが、駅の周りは商店や飲食店、ビルが建ち並び、少し賑やかな雰囲気です。

旧西国街道

東加古川駅から少し歩くとどこかのどかな雰囲気の住宅街が広がっていました。緩やかに曲がった道はかつての西国街道で、商業施設やマンションで途切れながらも町の中を通り抜けています。

街道の道標

街道沿いに「日岡神社」と刻まれた道標が佇んでいました。日岡神社はここからちょうど北の加古川沿いに鎮座する古社です。風雨でところどころ欠けた道標からは歴史を感じます。

五社宮野口神社

道標の近くに大きな神社が佇んでいました。こちらは五社宮野口神社です。

五社宮野口神社の楼門

鳥居の向こうには立派な楼門がそびえていました。訪れた時には楼門に茅の輪が設けられていました。

五社宮野口神社は江戸時代前半の慶安4(1651)年の創建で、比叡山の麓の日吉神社を分霊したと伝わっています。現在の野口神社という名前になったのは明治からで、それ以前は神仏習合の山王五社宮と呼ばれていました。明治時代に神宮寺が撤去されて、今の姿になったそうです。この地に神社が創建される以前この地には野口廃寺と呼ばれる寺院があり、境内は奈良時代にこの地にあった野口廃寺遺跡であるとされています。

五社宮野口神社の境内

五社宮野口神社の境内へ入ると、江戸時代前半の創建と伝わる本殿がそびえていました。

印南野台地の西端に位置し、段丘に沿って古くからの交通路の通るこの地は古くから開けていたようで、廃寺の遺跡だけでなく、数多くの遺跡が見つかっています。次回はもう少し野口を歩いてみたいと思います。

石屋川のほとり・御影を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、御影を歩いてみたいと思います。

西国街道の松

透き通った水がこんこんと湧き出す「澤之井」のある阪神御影駅から北西へと歩くことにしました。
中学校の裏手、住宅地が広がる中に佇んでいたのは趣のある松の木です。「西国街道の松」と呼ばれるこの松の木は呼び名の通り、この地を通っていた西国街道沿いに植えられた松の木で、江戸時代からこの地を見守ってきました。確かに風格のある美しい松の木ですね。松の木の向かいには「旧西国街道」と書かれた石碑が建てられていました。

六甲山地の麓に位置する御影は山から算出される花崗岩を使った石材の産地、そして、澤之井の伝説にみられるような豊かな水を使った酒造地として、近世にかけて発展することとなりました。現在、六甲山での石材の採取は行われておらず、御影の名前は花崗岩の別名の「御影石」に残るのみです。しかし、酒造業は今も盛んで、御影の海側は灘五郷の「御影郷」とされて今も酒造メーカーの工場が建ち並んでいます。明治22(1889)年、御影村は周辺の村とともに御影町となりますが、酒造を中心とした産業が盛んで、産業の発展を背景に大きな人口を抱えた豊かな町だったとされています。

御影公会堂

国道沿いを歩いていると、石屋川沿いに立派な建物がそびえていました。こちらは神戸市立御影公会堂という施設です。

御影公会堂の内部

戦前の昭和8(1933)年に建てられた建物の内部は重厚な雰囲気で、国の登録有形文化財に指定されています。

御影公会堂は当時の御影町が建てた文化施設で、大ホールは1000人が収容ができる当時としては巨大なもので、御影町の発展を象徴するような建物です。しかし、竣工からほどなく、昭和20(1945)年の神戸大空襲で御影の町とともに公会堂は大きく被害を受け、内部はほぼ焼け落ちてしまったそうです。戦後の昭和25(1950)年に御影町は神戸市へ編入され、公会堂の所有も神戸市へと移管されました。応急的な復旧がなされて幼稚園として使われていたという公会堂は神戸市の予算でようやく復旧され、現在も地域の集会施設として使用されています。

嘉納治兵衛像

公会堂が建てられるにあたっては御影町の資金の他、御影郷の酒造業者・白鶴酒造嘉納治兵衛からの寄付が使われました。公会堂の中には嘉納治兵衛の像がありました。

御影町章のマンホール

公会堂の裏手へ回ってみるとかつての御影町の町章が描かれたマンホールが残されていました。

石屋川と六甲の山並み

公会堂から石屋川に沿って歩いていくと六甲の山並みを望むことができました。

水や石材といった六甲の恵みとともに発展してきた御影は今も六甲の麓に佇んでいます。

石屋川のほとり・御影を歩いて(前編)

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朝晩は涼しくなり、夏の終わりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神御影駅

直通特急を下りたのは阪神電車の御影駅です。
駅前にはバスターミナルと商業施設が整備され、地域の拠点の雰囲気です。

澤之井の地

御影駅の駅前には石碑が佇んでいました。
立派な石には「澤之井の地」の文字が刻まれています。

神戸市の東灘区に位置する御影は戦後の昭和25(1950)年に神戸市へ編入されるまで御影は御影村~御影町という独立した自治体でした。御影石で知られる地名の由来になったとされるのはこの石碑に刻まれている「澤之井」という泉であるとされていて、伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地に立ち寄った際に自分の姿を泉に写したことから「御影」という地名が付けられたとされています。ただ、地名の由来には諸説があるとされています。

澤之井

石碑は駅前にありますが、澤之井自体は阪神電車の御影駅の高架下にあり、今も鳥居と玉垣に囲まれた泉が佇んでいました。

澤之井を眺めて

高架下の薄暗い場所になってしまいましたが、泉を覗いてみると今もこんこんと清い水が湧き出していました。水底がはっきりと見える透明度に驚いてしまいますね。澤之井の水を使った酒を後醍醐天皇へ奉納したことがここ御影での酒造の始まりであるともされています。実際にこの辺りで酒造が盛んになったのは江戸時代頃とされているので、この後醍醐天皇の話はあくまで伝説なのかもしれませんが、水に恵まれた御影を象徴するような泉です。

賑やかな街に歴史ある史跡の佇む御影をもう少し歩いてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河の集落をかつての湯山街道が貫いています。新しい家々が建ち並んでいますが、緩く曲がった古い道の雰囲気が今も残されています。

街道の道標

街道沿いに古い道標が立っていました。苔むした道標には「有馬大坂」「山田兵庫」という文字が刻まれています。ここ淡河は東播と有馬温泉、大坂を結ぶ東西の湯山街道と兵庫への南北の街道が交わる交通の要衝でした。

戦国時代、三木合戦の戦いの中で淡河を治めていた淡河城羽柴秀吉の手により落城してしまいました。しかし、合戦後の天正7(1579)年、秀吉は淡河に定期市を開くことを許し、市に対して税を取らない楽市とする制札を立てました。戦いの舞台となった淡河でしたが、楽市に定められたことで街道沿いの商業地や宿場町として発展していくことになります。ちなみに、この時の制札は前回ご紹介した歳田神社に保存されているのが近年発見されたそうです。

淡河本陣跡

道標の近くの街道沿いに立派な瓦葺の建物が佇んでいました。こちらは淡河本陣跡です。

江戸時代に入ると淡河は明石藩に属することになり、明石藩主をはじめとした大名が参勤交代などで湯山街道を通る際の宿泊所として本陣が整備されました。この本陣職を長くつとめたのは秀吉が楽市を定めた際に街の整備に貢献した大庄屋の村上家だったとされています。戦後、淡河は神戸市に編入されます。本陣の役割を終えた淡河本陣はやがて空き家となり放置されていました。現在のように整備され利用されるようになったのは平成29(2017)年のことで、映画『るろうに剣心』のロケ地としても使用され注目を集めるようになりました。

淡河本陣跡の内部

淡河本陣跡の内部には瓦屋根が立派な母屋だけでなく土蔵や茶室まで残されていて、現在はカフェや集会所として利用されています。江戸時代の風情を残す畳の間を山々を渡る風が吹き抜けていきました。

夏の暑さの中にどこか秋の雰囲気も感じるようになったこの頃。まもなく実りの季節を迎えるかつての宿場町を訪ねてみてはいかがでしょうか。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河城跡の山を下りて、淡河の町を歩いてみることにしました。県道に並行して集落の中を通るのはかつての湯山街道です。

歳田神社

街道を外れて北へ歩いていくことにしました。田んぼの中に立派な鳥居が佇んでいるのは歳田神社です。

歳田神社の境内

水田の中の参道の先には広々とした神社の境内が広がっていました。

現在はのどかな田園地帯の広がる淡河ですが、太古には「泡河湖(あわごこ)」と呼ばれる湖が広がっていたそうです。湖があり資源に恵まれた環境だったためでしょうか、淡河にははるか縄文時代にさかのぼる遺跡が残されています。その後、この泡河湖は中世にかけて徐々に干拓され、江戸時代の中頃には姿を消してしまったそうです。この歳田神社が建立された時期は分かっていませんが、奈良時代に泡河湖の干拓事業に際して水神を祭ったのが始まりと伝わっています。

宿場町の風情

歳田神社から淡河の町へ戻りました。街中には茅葺の民家が残っていました。湖のほとりの集落から交通の要衝を抑える戦略上の拠点となった淡河は近世には宿場町として発展することになります。

次回は宿場町の風情を感じながらもう少し淡河を歩いてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(前編)

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夏の盛りですが、暦の上では立秋を過ぎた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

道の駅・淡河

神戸三宮から新神戸トンネルを潜り抜けて北へ向かうバスで着いたのは神戸市北区の淡河町です。田園地帯が広がる淡河町ですが、バス停留所の周辺の本町地区には民家や店舗が集まり、少し賑やかな雰囲気です。淡河本町バス停の近くには道の駅・淡河があり、地域の野菜などを売るお店は朝から賑わっていました。

淡河城跡

道の駅・淡河の背後の山には気になる建物がありました。
「淡河城跡」と書かれた看板の立つ山の斜面にはつづら折りの道が設けられていて、その上には砦のような建物があります。

神戸の中心市街からは六甲山地と帝釈山系を挟んで遠いイメージのある神戸市北区淡河町ですが、古くから三木と有馬温泉を結ぶ湯山街道の宿場町として栄えていました。この地域を治め、淡河城を築いたのは淡河氏で、鎌倉時代、北条氏の一族の北条朝盛がこの地域の名前をとって「淡河」と名乗り始めたものです。淡河氏は東播地域へ勢力を拡大し、淡河城は交通の要衝を治めるだけでなく淡河氏の拠点となっていきます。

淡河城跡へ上る

小高い山の上の淡河城跡は現在は神社と公園になっていました。

淡河城跡の碑

公園の隅には淡河城跡の碑が佇んでいました。木漏れ日の差し込む石碑に蝉時雨が降り注いでいます。

淡河氏の拠点となった淡河城ですが、淡河氏は戦国時代に三木の別所氏の配下となります。天正6(1578)年から始まった別所氏と羽柴秀吉との戦いである三木合戦では別所氏側の城となりますが、秀吉の手により淡河城は落城しました。その後、秀吉の中国攻めで功のあった武将・有馬則頼が城主となりますが、江戸時代の元和元(1615)年に出された一国一城令で淡河城は廃城となりました。

淡河城跡からの眺め

山の上の淡河城跡からは先ほど訪ねた道の駅と湯山街道沿いに広がる淡河の町を見下ろすことが出来ました。

山間に宿場町として栄えた淡河、もう少し歩いてみたいと思います。

「ガリバートンネル」の見守った街並み・神戸三宮を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の都心の三宮を歩いてみたいと思います。

加納町第1架道橋

フラワーロードに歩道橋が架かっています。
この歩道橋に並行して架かる東海道本線の加納町第1架道橋には戦時中に米軍機による銃撃を受けた跡が残されています。

銃撃の跡

青く塗られた鉄板をよく見ると、至る所に穴が開いていました。楕円形の穴が開いているのは斜めに銃弾が貫通したからだと言われています。

阪神電車が乗り入れた当時の三宮は市街地の東の外れでした。この三宮が発展することになったのは東海道本線の三ノ宮駅がこの地に設けられてからです。高架化に伴って、昭和4(1929)年に今の元町駅の位置から駅が移されて、当時は「滝道」と呼ばれていたフラワーロード近くに現在の位置に駅が設けられました。その直後の昭和8(1933)年に、阪神電車は既存の路線を地下化し、三宮から元町へと路線を伸ばしました。さらに1936年(昭和11年)に阪急電鉄が高架で三宮へと乗り入れます。鉄道各線のターミナルとなり、多くの人が集まる街になった三宮には百貨店や映画館、商店などが建ち並ぶ東の歓楽街へと発展しました。賑わい発展した街が戦時中には米軍機の標的となったことが銃撃の跡からもうかがうことが出来ます。

国道2号線

歩道橋の上から交差点付近を見下ろしてみました。
ここ三宮交差点の周辺では「三宮クロススクエア」として再整備事業が進められています。その一環で国道では歩道の工事が進められていました。

ガリバートンネル

歩道にたたずむのは気になるコンクリート建造物です。最近「ガリバートンネル」とも呼ばれて話題になっているこちらは地下道連絡口「A14」という地下道への入り口です。見るからに古いものですが、設けられたのは阪神神戸三宮駅が地下化された頃の昭和8(1933)年頃とされています。もともとは道路上に設けられていた神戸市電の電停への連絡通路の入り口として設けられたものでした。かつてはこの他にも、車道の真ん中、そして車道の南側の計3カ所が設けられていましたが、道路工事などによって今は北側の1カ所だけが残されています。

ガリバートンネルの中

入り口を入ると、細い階段が続いています。まるで戦前の神戸がタイムカプセルのように保存されているような雰囲気でした。

地下道へ

ガリバートンネルの先は三ノ宮駅と地下街を結ぶ通路です。明るい現代の地下道に出ると目がくらみそうになりました。地下道にはかつて電停を結んでいた通路の跡もありますが、重そうな鉄の扉は固く閉ざされていました。

太平洋戦争で大きな被害を受けた神戸、そして三宮の町ですが、戦後復興にあたって行政機関を三宮へ集める計画が持ち上がります。計画に基づいて湊川駅近くにあった市役所が三宮へ移転し、それに前後して、駅周辺には商業施設が建ち並ぶようになって、三宮は神戸の経済と行政の中心へと発展していきました。
「ガリバートンネル」は阪神大水害や戦災、そして、阪神淡路大震災という幾多の災害に耐え忍びながらも発展していく三宮の町を眺めてきたのでしょうか。

ガリバートンネルを眺める

地上に戻り、「ガリバートンネル」を眺めてみました。長年この場所にたたずんできたこの建造物は再整備事業に伴い2023年秋には閉鎖されて撤去される予定です。

まもなくお別れとなる歴史の生き証人を訪ねて、三宮を歩いてみてはいかがでしょうか。