せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

書写山の麓・曽左を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、書写山の麓の曽左を歩いてみたいと思います。

書写山西坂参道

坂本城跡から北側、兵庫県立大学のキャンパスの方へと歩いてみました。大学の建物が建ち並ぶ中を通り抜ける坂道は書写山への参道の「西坂」です。書写山への参道はいくつかあり、現在はこの東側の夢前川沿いから伸びる書写山ロープウェイがメインルートとなっていますが、かつては南麓のこの辺りからも多くの参拝者が山上の圓教寺を目指して歩いていました。

日吉神社

西坂の途中に立派な絵馬殿のある神社がありました。こちらは日吉神社です。

日吉神社の境内

絵馬殿を潜ると山沿いに境内が広がっていました。

「大学内にある神社」と言われる日吉神社ですが、歴史は大学よりはるかに長く、平安時代に遡ると言われています。創建したのは書写山を開いた性空上人で、圓教寺を開くとともにこの地に山王権現を祀って書写山の鎮守としたそうです。現在は住宅地の広がる曽左地区ですが、前回も歩いてきたように、「西坂」「東坂」といった書写山の参道の麓の門前町として開けてきた町です。比叡山坂本のような街を考えると、こちらの日吉神社はちょうど日吉大社になぞらえることができそうですね。

阿弥陀寺

日吉神社から東側へ歩くと、木々に囲まれた寺院がありました。こちらは阿弥陀寺です。平安時代の長久2(1041)年の創建と伝わる古刹で、もとは現在地より西側にあったそうですが、敷地が県立大のキャンパスとなるために現在の場所へ移っています。

阿弥陀寺の境内

山門をくぐると、木々に覆われた境内が広がっていました。現在地の移転当時は木々の生えていない更地だったそうですが、植栽の整備を進めて現在のようになったそうです。外は真夏の暑さですが、境内はまるで別世界のような空間でした。

書写山の門前町として栄え、今も歴史ある街並みの残る曽左をもう少し歩いてみたいと思います。

書写山の麓・曽左を歩いて(前編)

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梅雨明け間近な頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

県立大工学部バス停

山陽姫路駅前からバスに乗って着いたのは県立大工学部バス停です。停留所の名前の通り、目の前には兵庫県立大学のキャンパスが広がっていました。

床坂

バス停のすぐ西側には切通しのような坂道があります。こちらは床坂と呼ばれていて、夢前川沿いの平野と菅生川沿いの谷間の間の峠道です。

床坂の祠

坂の入り口には小さなお堂がありました。道路は拡幅され、車やバスではあっという間に通り過ぎてしまいますが、どこかかつての峠道を感じる雰囲気があります。

床坂は姫路から北西方面への古くからの道で、現在も宍粟市や姫路市安富町へのバスの経路となっています。伝説では今の安富町に住んでいた「伊佐々王」と呼ばれる大鹿の休憩所だったそうです。この床坂の東側、ちょうど書写山の南麓にあたる地域は曽左(書写)と呼ばれ、古くから書写山と繋がりのある地域でした。ここまでのバスが通り過ぎた停留所には「西坂」「東坂」という言葉があり、書写山への登り口だったことが地名からもわかります。

桜池

床坂から住宅地の中を歩いていくと、桜池という小さなため池がありました。

坂本城跡

池の傍にも住宅地や水田が広がっています。中世にはこの場所に「坂本城」という城がありました。築城時期は詳しくわかっていないそうですが、発掘調査によって室町時代の14世紀から16世紀にかけてこの場所にあり、赤松氏の手によるものだったそうです。交通の要所に位置したこの城は赤松氏、そして、赤松氏が滅亡した後は山名氏の重要な拠点でした。現在は殆ど面影はありませんが、水田の中に土塁が残されています。

書写山の麓の曽左地区をもう少し歩いてみたいと思います。

古墳と海の神・住吉を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の住吉を歩いてみたいと思います。

東求女塚公園

阪神本線の高架沿いに歩くと住宅地の中に公園がありました。こちらは東求塚公園です。公園の名前からもわかるように、こちらは東求女塚古墳という古代の古墳に整備された公園です。

六甲山麓の灘区から東灘区にかけてには西求女塚、処女塚、東求女塚の三つの古墳が並んでいます。これらの古墳には菟原処女(うないおとめ)の伝説が残されています。当時、「葦屋(あしのや)」と呼ばれていた古代のこの辺りに菟原処女という女性が住んでいました。この美しい女性に同じ村の菟原壮士(うないおとこ)と泉州からやってきた信太壮士(しのだおとこ)の二人の男性が求婚し、菟原処女を巡って争うようになります。そんな二人の姿を見た菟原処女は嘆き悲しみ、自ら命を絶ってしまったそうです。そして、そのことを知った二人の男性も後を追って命を絶ちました。菟原処女の親族は、中央に菟原処女の墓を築き、それを挟むように東西に二人の男性の墓を築いたそうです。

東求女塚古墳

公園の中央には古墳の跡があります。本来は前方後円墳でしたが、私有地だったために長らく保存されることはなく、昭和初期には浜側を走る阪神本線の高架が建設される際に多くが取り壊されてしまいました。伝説では泉州からやってきて菟原処女に求婚した信太壮士の墓とされていますが、その後の調査で4世紀後半頃に築かれたこの地域の豪族の墓ではないかと言われています。

本住吉神社

山側へと歩き、JR東海道本線の住吉駅近くへ着きました。駅の西側には木々の生い茂る森があります。こちらは本住吉神社です。この辺りの地名になっている「住吉」はこの神社の名前に由来しています。神功皇后の三韓征伐の際に、航海の神である住吉三神を祀ったことが始まりとされる神社で、一説では全国に広まる住吉三神を祭る神社の発祥の地とされています。

本住吉神社の境内

本住吉神社の境内には六甲の山並みを背景に立派な社殿が佇んでいました。

本住吉神社からの眺め

阪神住吉駅からこの場所まで、そこまでの高低差は感じませんでしたが、改めて本住吉神社から浜側を眺めると坂の下に御影駅の周辺に建ち並ぶマンションを眺めることができました。その向こうに広がるのは大阪湾です。浜手に点在する豪族の古墳と、はるか古代に建立された海の神を祀る神社は、古くからこの地が大阪湾の恵みを受けながら発展してきた地域であることを示しているのかもしれませんね。

本住吉神社からは再び海へと向かって坂道を下り、阪神御影駅から直通特急に乗ることにしました。

古墳と海の神・住吉を歩いて(前編)

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梅雨空の広がる頃、いかがお過ごしでしょうか。こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神住吉駅

直通特急と普通車を乗り継いでついたのは阪神電車の住吉駅です。

住吉駅の意匠

特急停車駅の御影駅と魚崎駅に挟まれた住吉駅はあまり目立たない存在ですが、高架のホームへ上がる階段には丸窓が並び、どこか遊び心ある意匠があります。

阪神住吉駅が開業したのは明治38(1905)年のことで、阪神本線の開業と同時でした。当時の阪神本線は浜側の道路上に敷設されていて、路面電車のような姿でした。現在の高架線に切り替えられたのは昭和4(1929)年のことです。同時期に隣の御影駅も高架化されましたが、神戸市東灘区の拠点駅として近年も整備が進められた御影駅に対し、住吉駅は高架線開業時の姿が色濃く残されています。

住吉駅を眺めて

改札を出て住吉駅を眺めてみました。
階段には丸窓が並び、駅舎の入口にはアールのついた優美な庇があり、モダンな雰囲気を今に残しています。

住吉の街並み

阪神住吉駅から浜側へと歩いてみました。住宅や商店の建ち並ぶ市街地には酒造メーカーの看板が聳えています。

次回も住吉を歩いてみたいと思います。

上町台地と融通さん・上本町を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の上本町を歩いてみたいと思います。

真言坂

大阪は淀川水系の河川の運ぶ土砂によって作られた平野に市街地が広がっています。そのため、坂はほとんどありませんが、上本町のある上町台地は例外的で、起伏のある景色が広がっています。千日前通に交わるこちらの道には真言坂という名前が付けられていました。

生國魂神社西之鳥居

千日前通を下りおりた先は松屋町筋で、坂道の続く横道には石造りの鳥居が佇んでいました。こちらは生國魂神社西之鳥居です。

生玉北門坂

鳥居の向こうには坂道が続いています。こちらは生玉北門坂で、緩やかにカーブした坂道は大阪らしくない光景です。

生國魂神社

坂道を上った先は広々とした神社の境内でした。こちらは生國魂神社です。

生國魂神社は大阪最古の神社と言われ、非常に長い歴史があります。創建時期は詳しくわかっていませんが、はるか古代に遡るといわれています。伝説では神武天皇が日本を統一した際に摂津国難波碕に八十島神ともいわれる生島大神足島大神を祀ったのが始まりと言われています。この「摂津国難波碕」は当時は海に囲まれた岬になっていた上町台地の先端部とされていて、現在は大阪城があります。中世には神社に隣接して大阪御坊こと石山本願寺が築かれますが、天正8(1580)年、織田信長と石山本願寺が戦った石山合戦の際に石山本願寺とともに生國魂神社の社殿も焼失。神社や石山本願寺の跡地には豊臣秀吉が大坂城を築くことになったので、現在の場所に遷されています。

生國魂神社の境内

歴史ある神社らしく、市街地の真ん中にありながら広々とした境内です。かつては隣接する生玉公園も境内で、さらに近世には豊臣家や徳川家の寄進を受けていて、広大な社領を持っていたとされています。現在の場所に移ってからも社殿は何度も焼失していて、現在の社殿は昭和20(1945)年の大阪大空襲で焼失したものを再建した鉄筋コンクリート造りのものです。

馬場道

生國魂神社の境内から谷町筋へ向かって、馬場道と呼ばれる表参道が続いています。広い参道からも歴史ある神社の風格を感じるようですが、この参道も谷町筋が拡幅されるまではさらに長く続いていたそうです。ちなみに、生國魂神社の祭神の生島大神と足島大神の別名の八十島神とは日本列島の神を意味します。はるか古代より、上町台地の高台から大阪の街、そして、日本列島を見守ってきたのでしょう。

藤次寺から生國魂神社へと歩く道は都心とは思えないようなゆったりとした雰囲気でしたが、馬場道を歩いていくと賑やかな谷町筋に戻りました。急に大都会の真ん中に戻ったような気分で戸惑ってしまいましたが、大阪上本町駅へ戻ることにしました。

上町台地と融通さん・上本町を歩いて(前編)

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遅い梅雨入りが間近な頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大阪上本町駅

直通特急から尼崎で阪神なんば線の電車に乗り換えて着いたのは大阪上本町駅です。
大阪市街の東側に位置し、駅の上には近鉄百貨店のビルがそびえていました。

融通さんまいり

ビルに囲まれた大阪上本町駅から千日前通りを西に少し歩くと谷町九丁目交差点です。南北の通りは谷町筋で、通り沿いにはビルが建ち並んでいます。地下にはOsakaMetro谷町線と近鉄難波線が通り、まさに大阪の市街地という雰囲気ですが、交差点の南西角は少し違った趣で、「融通さんまいり」という石碑が立っていました。

藤次寺

交差点から谷町筋を少し南下したところに朱塗りの門がありました。
こちらは融通尊藤次寺です。

藤次寺の歴史は古く、平安時代に遡ります。平安時代前期の弘人年間に公卿の藤原冬嗣の発願により、冬嗣の甥の任瑞上人を開祖として建立されました。藤原氏を治める寺ということで建立当時は「藤治寺」とされていたのが、明治時代に「藤次寺」となって今に至ってます。中世から近世にかけては広く信仰を集めて、広大な寺域を持つ大寺院となったそうですが、昭和20(1945)年の大阪大空襲で堂宇は焼失し、復興都市計画の中で現在の場所に移されています。

藤次寺の境内

朱塗りの門をくぐると藤次寺の境内が広がっています。線香の香りが漂う境内は大阪の都心にあるとは思えないような雰囲気でした。

こちらの藤次寺の本尊は如意宝珠融通尊という仏さまです。この本尊の名前の「融通」が願い事を融通することに通じ、「大阪の融通さん」として親しまれています。毎月1の付く日は藤次寺の縁日で、多くの参拝者が訪れています。

上町台地の坂道

藤次寺を後にして谷町九丁目交差点に戻ります。西を見ると日本橋方面へ向けて坂道が続いています。大阪上本町駅があるのは上町台地の上で、この光景を見るとまさにその名の通り「上本町」であることがよくわかりますね。

次回も上本町周辺を歩いてみたいと思います。

人類の進歩と調和・万博記念公園を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の万博記念公園を歩いてみたいと思います。

日本庭園

万博記念公園の奥、国立民族学博物館や大阪日本民芸館の北側には日本庭園が広がっています。
こちらの日本庭園は昭和45(1970)年に開催された日本万国博覧会で日本の出展として整備された庭園です。当時最高の造園技術を集めた庭園で、現代の日本庭園ながら名園とされています。庭園内は各時代をイメージした造りになっていて、正門から入ってすぐには心字池を中心にした近世の庭園が広がっています。

EXPO’70パビリオン(旧鉄鋼館)

日本庭園から駅の方へ戻ることにしました。校外学習の子供たちで賑わう芝生広場に佇んでいたのはEXPO’70パビリオンです。こちらは万博開催当時は日本鉄鋼連盟のパビリオン「鉄鋼館」でした。当時は音楽を楽しめる施設でしたが、現在は万博の記念展示施設として使用されています。

前回も歩いてきたように、昭和45(1970)年に開催された「大阪万博」こと日本万国博覧会は日本の発展を象徴するようなイベントでした。開催の前の昭和36(1961)年から始まった千里ニュータウンの開発、今も千里ニュータウンの輸送を担う北大阪急行が万博に合わせて開業するなど、このあたりのエリアが大きく変わったのもこの時代でした。万博で思い描いていた未来都市が実現していたのが当時の千里だったのかもしれません。

世界絶対平和の鐘

EXPO’70パビリオンの前には世界絶対平和の鐘がありました。世界平和を願い、26か国のコインを溶かして作られたという鐘で、ニューヨークの国連本部前に本物がありますが、万博の開催時にはレプリカと入れ替えられて会場で本物が展示されました。開催終了後、本物はニューヨークへと戻り、逆に当時使われたレプリカが万博記念公園に設置されています。

太陽の塔

現在、2025年の大阪関西万博の開催に向けて、関西各地で準備が進められています。半世紀前の万博のレジェンドを眺めながら歩いていると、次の万博開催やその万博の後に何が残るのかより楽しみになるような気がします。

再び広場へと戻り、青空の下にそびえる太陽の塔を眺めてから、万博記念公園を後にしました。

人類の進歩と調和・万博記念公園を訪ねて(前編)

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新緑が徐々に深い緑色に染まりつつある頃、いかが過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大阪モノレール

梅田から地下鉄と大阪モノレールで着いたのは万博記念公園駅です。

太陽の塔

駅を出て中国自動車道を渡った先は万博記念公園です。真正面では太陽の塔が出迎えているようにそびえていました。

大阪府吹田市の丘陵地帯に広がる万博記念公園はその名の通り、今から半世紀前の昭和45(1970)年に開催された「大阪万博」こと日本万国博覧会の会場跡地に作られた公園です。日本万国博覧会は「人類の進歩と調和」をテーマとして最先端技術を活用したパビリオンが建ち並んだ会場はまさに未来都市で、およそ半年の開催期間中に訪れた人は6400万人にのぼりました。万博の六年前の昭和39(1964)年に開催された東京オリンピックと並び、発展する日本を象徴するようなイベントでした。

国立民族学博物館

公園の奥にあったのは国立民族学博物館です。民俗学や文化人類学などに関して研究や展示をおこなう博物館で、開館は万博後の昭和52(1977)年ですが、万博開催当時に太陽の塔を含むパビリオンの一つだった「テーマ館」の展示のために集められた資料が収蔵されています。万博開催から半世紀以上経ってもこうして当時の展示が現在の研究に生かされているのですね。

大阪日本民藝館

国立民族学博物館のさらに奥にあったのが大阪日本民藝館です。こちらは万博開催当時の日本民藝館が大阪府、そして、万博記念協会へと譲渡されて、美術館となった施設です。館内には日本に古くから伝わる美しい民芸品が展示されていました。

大阪日本民藝館の中庭

大阪日本民藝館の建物を通り抜けると中庭が広がっていました。回廊状になった建物に囲まれて、初夏の青い空が広がっています。今は静かな美術館ですが、万博開催当時は多くの人で賑わっていたのでしょうか。

大イベントの開催から半世紀、当時の興奮を訪ねて万博記念公園をもう少し歩いてみたいと思います。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

宮水発祥之地の碑

西宮の住宅地を歩いていると、植栽に囲まれた石碑を見つけました。こちらは宮水発祥之地の碑です。

住宅地や西宮神社の門前町として知られる西宮は灘五郷の一つ「西宮郷」とされ、灘五郷の中でも最初に酒造りが始められた地域とも言われています。室町時代、当時関西の酒造の中心であった北摂の伊丹から雑喉屋文右衛門なる人物が西宮へ移り住み、酒造業を手掛けるようになったのが始まりとされています。その後、西宮郷を始めとする灘五郷は北摂の伊丹や池田に代わって酒造業の中心となり、西宮郷の酒は「西宮の旨酒」と呼ばれて大変な人気となったようです。

宮水井戸場

宮水発祥之地の碑の傍には様々な酒造メーカーの名前が掲げられた「井戸場」がありました。各社はこちらで宮水を汲み上げ、酒造りに使っています。

六甲山地を流れる川の流れを利用した水車で効率的な精米ができることや、すぐそばの大阪湾岸の港から製品を出荷できたことから西宮を始めとする灘五郷は酒造地として発展していきますが、それを後押ししたのが江戸時代の終わりに発見された「宮水」でした。天保8(1837)年または天保11(1840)年、今も魚崎に現存する酒造メーカーの櫻正宗の当主だった山邑太左衛門が発見したと言われています。当時、魚崎と西宮で酒造会社を営んでいた山邑は魚崎と西宮とで酒の味が違うことに気づき、その要因が水にあることを突き止めました。以後、この水は「西宮の水」そして略して「宮水」と呼ばれるようになり、各社が争うようにこの水を使って酒造りを始めるようになります。宮水の力で西宮郷の酒造業がさらに発展することとなりました。

井戸場を眺めて

住宅地の中に佇む各社の井戸場は植栽やフェンスに囲まれていて、大切に守られていることがよくわかります。江戸時代の終わりに発見された宮水は六甲山のミネラルを豊富に含む硬水で、酒造りには非常に適しているようです。この宮水を守るため、西宮市では「宮水保全条例」が制定されていて、指定された地域で地下水へ影響を与える可能性のある大規模な建築工事を行う際には市への届け出や協議が必要とされています。

酒蔵通り

井戸場の浜側へ歩くと、東西の道と交わりました。こちらは通称「酒蔵通り」と呼ばれていて、通り沿いには酒造メーカーや飲食店が建ち並んでいます。

東川

酒蔵通りを歩いていると川がありました。この川は東川で、この下流には酒の積み出し港となった今津港がありました。今は住宅地や緑地に囲まれた川ですが、かつては酒を積んだたくさんの船で賑わったのでしょうか。静かな川は門前町、宿場町、そして、酒造の中心地という様々な姿を積み重ねてきた西宮の姿を見つめてきたのでしょうか。

お土産に日本酒を買って、初夏の風が吹き抜ける西宮を後にすることにしました。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

西宮神社本殿

西宮神社の本殿は改修工事中で、参拝は仮拝殿でした。大きな社殿を目にすることができないのが残念ですが、これはこれで今しか見られない貴重な光景ですね。

本陣跡と蛭児大神御輿屋傳説地碑

西宮神社を後にしてから表大門から続く道を歩くことにします。こちらはかつての西国街道です。かつての西国街道の本陣があった場所には「蛭児大神御輿屋傳説地」と刻まれた石碑がありました。

前回ご紹介しましたが、西宮神社の創建の伝説では鳴尾の漁師が海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。当初、漁師は神像を自宅で祀っていました。しかし、ある夜に神像が漁師の夢に現れて、自分は蛭児神であること、そして、鳴尾から西にある宮地に祀ってほしいとお告げがあったそうです。お告げを受けた漁師は仲間とともに蛭児神を輿に載せて西へと運びましたが、途中で蛭児神が眠り込んでしまったので尻をつねって起こしました。その場所がこの「蛭児大神御輿屋傳説地」とされています。時代が下がり、近世にはこの辺りは西宮神社の門前町と西国街道の宿場町として栄えたそうです。特に、宿場町としては西国街道や山崎街道、中国街道が交わる交通の結節点で、多くの人や物資で賑わったとされています。現在、宿場町の面影をしのぶことができるものはあまり残されていませんが、建て込んだ街並みにかつての賑わいを感じることができます。

札場跡

西国街道と交わる南北の道は札場筋線です。その名の通り、西国街道との交差点には札場があったとされていて、現在では交番になっていました。

宮水

阪神高速の高架を潜った先には小さな公園があり、「宮水」についての説明看板が建てられていました。門前町、宿場町として栄えた西宮ですが、西宮を歩く中で欠かせないのがこの宮水ではないでしょうか。

次回ももう少し西宮を歩いてみたいと思います。