せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

お餅と古墳・道明寺を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、道明寺を歩いてみたいと思います。

道明寺天満宮

道明寺の隣に神社がありました。こちらは道明寺天満宮です。今は神社と寺院に分かれていますが、かつてはこの道明寺天満宮も道明寺の一部でした。

道明寺天満宮の境内

境内は広く、なぜかこちらのほうが道明寺よりも賑わっているような気がします。

道明寺天満宮の始まりは先述の通り、道明寺が土師寺として創建された7世紀頃とされています。道明寺の「道明」という名前は土師氏を祖先に持つ菅原道真に由来しており、道明寺の境内に土師神社として祀られていたものが、明治に入り、神仏分離で神社として分かれ、今に至っています。

土師窯跡

境内にはこんな石碑がありました。

道明寺を氏寺とした土師氏は日本書紀に登場する野見宿禰(のみのすくね)を始祖とする古代豪族で焼き物や土木といった技術に長けた一族でした。そうした技術は埴輪の制作や土木工事などに生かされ、この地に古墳群が生まれるのを支えることとなります。この道明寺は古墳を巡る観光ルートからは離れているようですが、古市古墳群を訪ねるなら、土師氏の里を外すわけにはいきませんね(個人の意見です)。

元宮土師社

境内には小さな祠がありました。こちらは元宮土師社で、天満宮が創建されるまではここが土師神社でした。今では境内にひっそりと佇んでいます。

どうしてもお餅を想像してしまう道明寺ですが、古市古墳群の成立を支えた由緒ある土地であることが歩いてみるとわかりました。
古墳散策の際は是非、足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

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お餅と古墳・道明寺を訪ねて(前編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回まで古市古墳群を歩き、近鉄で帰ろうかと思うところですが、もう少し歩いてみたいと思います。

鍋塚古墳を眺めて

近鉄南大阪線の土師ノ里駅の前にあるの鍋塚古墳から歩くことにします。駅の南側に広がる町は「道明寺」と呼ばれている地区です。道明寺と聞くとどうしても桜餅を思い浮かべてしまいますが、桜餅の材料の道明寺粉はここで作られたのが始まりとされています。

道明寺

土師ノ里駅からしばらく歩くと、紅葉が始まった木々に囲まれた寺院がありました。こちらはその名も道明寺です。

道明寺は古代、7世紀頃の創建とされています。古くはこの辺りは豪族・土師氏の治める土地で、「土師の里」と呼ばれていました。道明寺はその土師氏の氏寺として建立された寺院で、かつては土師寺と呼ばれていたとのこと。因みに、この辺りの住所は藤井寺市道明寺で、「土師」という名前はもはや寺にも地名にもありませんが、先ほど通りかかった土師ノ里駅とその前の交差点の名前に残されています。

道明寺の山門

境内へ入ると、立派な山門が迎えてくれます。

道明寺の境内

境内は広々としていますが、人気はなく、静かな雰囲気です。現在の道明寺は真言宗の尼寺で、桜餅の材料となる道明寺粉はこの尼寺でもち米を干して挽いたものを保存食としたのが始まりとされています。かつては道明寺糒(ほしい)とも呼ばれていたとのことで、本当に非常食の扱いだったようです。現在の道明寺桜餅は江戸時代の末に大坂の菓子屋で作られるようになったとのこと。

古市古墳群から少し離れた道明寺、この地はお餅だけでなく古墳の成立とも深く関わっています。
次回はもう少し道明寺を歩いてみたいと思います。

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世界遺産!古市古墳群を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、古市古墳群を歩いてみたいと思います。

古室山古墳

誉田御廟山古墳
から西名阪自動車道の高架をくぐると木々の茂った丘がありました。公園かと思いそうになりますが、こちらも古墳で、古室山古墳と言います。

古室山古墳からの景色

古室山古墳は大型の前方後円墳で、世界遺産にも指定されていますが、被葬者はわかっておらず、陵墓には推定されていません。そのため、古墳に上ることができます。高さ15mになる古墳の上からは大阪平野を眺めることができました。

百舌鳥・古市古墳群が築かれた頃、「倭国」と呼ばれていた日本の政治の中心は大和盆地にあったとされています。そのためか、古墳時代の初期の古墳は卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳を始め大和盆地内に築かれていました。しかし、古墳時代の中期になると、古墳は大和川を下り、古市、百舌鳥に築かれるようになりました。しかも、この時期に築かれた古墳は誉田御廟山古墳や大仙陵古墳といった巨大なものが増えてきます。この理由には諸説があるようですが、古市や百舌鳥は、当時、周辺国が貿易に訪れた大阪湾岸から大和盆地への通り道に当たります。諸外国に権力を示すためにこの地に巨大な古墳を築くようになったとも言われています。

仲津山古墳

古室山古墳から住宅地を歩くと、大きな古墳が現れました。こちらは仲津山古墳です。応神天皇の皇后の仲姫命の陵墓とされ、古市古墳群では応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳に次ぐ大きさです。築造時期は5世紀の初めとされていますが、宮内庁の管理にあるため、詳しいことはわかっていません。

市ノ山古墳

仲津山古墳からは近鉄の線路を越えて、市ノ山古墳にたどり着きました。こちらは允恭天皇の陵墓とされ、やはり宮内庁に管理されています。古市古墳群では四番目の大きさの前方後円墳です。古市古墳群で巨大な古墳はこれで回り終えたこととなります。

鍋塚古墳

市ノ山古墳から近鉄南大阪線の土師ノ里駅前を通り、駅前にある鍋塚古墳を訪れてみました。駅前の公園のような小さな方墳ですが、この古墳も世界遺産に指定されています。ただし、陵墓には推定されていないため、墳丘に上ることができました。

鍋塚古墳からの眺め

鍋塚古墳からは藤井寺の街並みと、先ほど訪れた仲津山古墳のこんもりとした木々を眺めることができました。

古市古墳群を巡る旅はこれで終わりです。
なぜこの地にこれほど多くの、そして、巨大な古墳が築かれたのか、諸説があり、本当のところはよくわかっていません。先述したように、諸外国に政権の力を示すためとも言われていますが、この地に古代王朝があったという説もあります。
秋も深まる頃、古代に思いをはせながら、世界遺産を巡ってみてはいかがでしょうか。

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世界文化遺産!古市古墳群を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、古市古墳群を歩いてみたいと思います。

辛國神社

葛井寺の近くにあったのが辛國神社です。5世紀の創建と伝わる古社で、物部氏の氏神を祀ったのが始まりとされています。葛井寺とともに、この地域が古代の豪族たちの拠点だったことを感じることができますね。

岡ミサンザイ古墳

辛國神社から住宅地を歩いていくことにします。家並みの合間にこんもりとした緑が見えてきました。こちらは岡ミサンザイ古墳です。墳丘の長さは245mにもなる巨大な前方後円墳です。

拝礼所より

周濠を回り込み、前方部にある拝礼所から古墳を眺めてみました。
第14代仲哀天皇の陵墓とされていて、現在は宮内庁の管理にありますが、被葬者については諸説があり、雄略天皇の陵墓であるとの説もあるそうです。

世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」を構成する古市古墳群は羽曳野市と藤井寺市に跨る古墳群です。古墳の多くは古墳時代中期から後期の5~6世紀に造営されたもので、最大の誉田御廟山古墳をはじめ23基もの古墳が世界文化遺産に登録されているほか、数多くの古墳が点在しています。

誉田御廟山古墳

岡ミサンザイ古墳からしばらく住宅地の中を歩くと、誉田御廟山古墳がありました。応神天皇の陵墓とされるこの古墳は墳丘の長さが425mにもなり、古市古墳群では最大の古墳です。日本でも百舌鳥古墳群の大仙陵古墳に次ぐ第2位の大きさで、山陽電車沿線の五色塚古墳と比べると倍以上の大きさになる巨大な前方後円墳です。

誉田御廟山古墳を眺める

拝礼所から誉田御廟山古墳を眺めてみますが、大きすぎてよくわからない…。周囲を中提に囲まれた誉田御廟山古墳を地上から眺められる場所は少なく、それがより一層神秘的な雰囲気を高めているような気がします。

最大の誉田御廟山古墳を訪ねてみましたが、古市古墳群はまだまだ広がっています。次回も古市古墳群を歩いてみたいと思います。

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世界文化遺産!古市古墳群を歩いて(前編)

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秋も深まりゆくこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

藤井寺駅

直通特急を降りて乗り換えを重ね…たどり着いたのは近鉄南大阪線の藤井寺駅です。

藤井寺一番街

駅前には賑やかな商店街がありました。神戸に住む私には、この辺りはあまり馴染みがないために景色が何だか新鮮で、ついきょろきょろしてしまいます。

世界文化遺産

商店街にはこんな垂れ幕が。
藤井寺のある古市地区から堺市の百舌鳥地区へと古墳が点在する「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されたのは今年7月のこと。地元は大きく盛り上がっていて、この日も古墳散策と思われる方を多く見かけました。

葛井寺

商店街を抜けて歩いていくと立派な山門がありました。こちらは葛井寺という真言宗の寺院です。市名と漢字は異なりますが、読みは同じ「ふじいでら」で、この寺院が市名の由来となっています。

葛井寺は奈良時代の神亀2(725)年に行基が創建したと伝わっています。しかし、行基創建と言われると本当だろうかと思ってしまうところ…。別の説では、飛鳥時代に渡来系の王辰爾の甥の胆津なる人物を祖とする葛井氏が氏寺として創建したと言われています。真実は今となってはわかりませんが、これから古墳を巡ることを考えると、渡来系の人物の創建と言われたほうが盛り上がってきそうな気がするのは私だけでしょうか。

葛井寺の境内

境内は広々としていて、立派な堂宇が建ち並んでいます。中世には一度荒廃してしまった葛井寺ですが、再興された後に室町時代には興福寺の末寺となって栄えたそうです。ただし、当時の建物は火災や地震によって失われ、現在の建物の多くは近世に建てられたものです。

古市古墳群を歩くと言っておきながら、古墳が出てきていないような気がしますが…。次回は古墳を巡って歩いてみたいと思います。

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