せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

相生湾の奥の街・那波を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、相生の那波を歩いてみたいと思います。

大島山

大島山
に登ることにします。急な坂道には石仏が並んでいました。

大島山本覚院善光寺

山の上には寺院がありました。こちらは大島山本覚院善光寺です。

大島山はその名の通り元々は相生湾に浮かぶ島でした。この島に城が築かれたのは平安時代の長治元(1104)年、海老名家季の手によるものとされています。この海老名氏が相模国由来であったことから、家季の孫の盛重の代にこの地の呼び名の「おお」に相模生まれの「相」「生」の字を当てたのが「相生」の地名の由来とされていて、この場所が「相生」の始まりの場所と言えるのかもしれません。

住吉神社

山頂は開けていて、住吉神社もあります。

海に囲まれた島にあった大島城は「浜御殿」とも呼ばれ、美しい城だったと言われています。しかし、南北朝時代の建武3(1336)年、当時の城主の景知が赤松氏に従って上郡の白旗城を守っている際に新田義貞の軍勢によって焼き払われてしまいました。海老名氏自体はその後も戦国時代にかけて播磨地域の豪族としてこの地域を治めていましたが、近世に入ると武士の身分を返上し、今の相生港地区に屋敷を構え、庄屋として明治時代まで続いたそうです。

大島城の碑

大島城は比較的早い時代に城が失われたためあまり城跡の雰囲気は残っていませんが、麓に降りると立派な石碑が佇んでいました。

大島城を眺める

相生市街を流れて相生湾に注ぐ芋谷川に沿って相生駅の方へ歩いてみました。
振り返るとこんもりとした大島山の姿が見えました。相生の地名の始まりに関わる城は今もこうして相生を見守っています。

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相生湾の奥の街・那波を訪ねて(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて相生の那波を歩いてみたいと思います。

相生湾に沿って

白龍城
から相生湾の海岸にそって歩きます。
対岸は目と鼻の先でまるで川のような景色で、相生湾の深さを感じさせます。現在は湾を回る道路が整備されていますが、以前は相生湾を挟んだ移動に浮橋や渡船が利用されていました。深い湾ならではの光景があったのですね。

大島

相生湾の奥が近づいてくると、こんもりとした島のような小山がありました。こちらは大島山です。

市名になっている「相生」はもともと湾の東側の地区の地名で、浦名の「おお」に「相生」という字を当てたものとされています。一方の湾の西側から今の相生駅周辺にかけての地区は「那波」と呼ばれ、もとは相生とは別の自治体でしたが、戦前に相生町に編入されてそのまま相生市の一地区となりました。ただ、交通の利便性などのせいでしょうか、市街地や行政機関はどちらかというと那波のほうに集まっています。

相生湾の奥

大島山を眺めながら歩くと、相生湾の奥に着きました。

大島山の麓

相生湾を回り込むと、先ほど対岸から眺めた大島山の麓に着きました。

大島山へ

大島山に登ってみると、早速蚊の大群に襲われました。くじけそうになってしまいますが、この大島山には相生の地名の由来につながるスポットがあります。

次回、もう少し相生の那波を歩いてみたいと思います。

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相生湾の奥の街・那波を訪ねて(前編)

投稿日:



彼岸を迎え、暑さも和らいできたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西相生駅

山陽姫路駅から乗り換えて着いたのは西相生駅です。

相生湾

西相生駅から歩くと、相生湾が広がります。
播磨灘から深く入り込んだ湾は牡蠣などの養殖が盛んなだけでなく、周辺には工場も建ち並んでいて、漁業と重工業の街の雰囲気です。

白龍城

相生湾のほとり、那波という地区に入ると中華風の建物がありました。こちらは「道の駅海の駅あいおい白龍城(ぺーろんじょう)」です。

白龍(ペーロン)は龍船(白龍)を競漕する祭りで、もとは中国のものでした。日本に伝わったのは江戸時代の1655年と言われ、長崎を訪れた中国船が強風で出航できなくなった際、海神を慰めるために龍船の競漕を催したのが始まりとされ、その後、長崎の祭りとなりました。ここ相生に伝わったのは大正時代とされ、長崎出身の造船所従業員たちが故郷を懐かしんで催すようになったそうです。この施設はその白龍にちなんだデザインの施設です。

相生湾を眺める

賑わう白龍城の裏手からは相生湾を眺めることができました。

相生湾の海の景色に彩られた街・那波をもう少し歩いてみたいと思います。

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姫路・冑山を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路を歩いてみたいと思います。

出屋敷

船場川を離れて、住宅地の中を歩いていきます。この辺りは今では姫路の市街地になっていますが、古い地図では「出屋敷」との地名も見え、城下の外の集落でした。ただし、姫路城下に隣接していることもあってか、趣のある雰囲気が残されています。

街中の鳥居

新幹線の高架をくぐって歩いていると、住宅地の中の工場の裏手に石造りの鳥居がありました。
鳥居をくぐってみることにします。

冑山神社

鳥居の先にあったのは冑山神社です。

冑山神社は江戸時代の元禄14(1701)年に、当時の姫路城主・本多政武(忠国)が姫路城の裏鬼門を守るために建立したと伝わる神社です。この神社のある冑山は播磨国風土記にも記されています。伝説では、乱暴者だった火明命を、父親の大汝命(大国主)が置き去りにしようとしたところ、置き去りにされたことに気づいて怒った火明命が大汝命の乗った船を転覆させ、その際に船や積み荷が播磨の14の丘に落ちました。その時の丘の一つとしてこの冑山も「冑丘」として記されています。名前も船に載せられていた冑がこの山に落ちたことに由来しているとのこと。

冑山神社の境内

石段を上がった先に冑山神社の社殿がありました。
この冑山は兵庫県下で最も低い山とされていますが、石段は意外と長く、登り甲斐があります。

冑山からの眺め

冑山からは同じく播磨平野にそびえる手柄山を眺めることができます。ちょうど、青い稲をかき分けるように、姫新線の列車が通過していきました。

近世の姫路をたどって歩いていくと、古代の伝説に彩られた山にたどり着きました。
まだまだ厳しい状況が続きますが、お近くにひっそりと眠る古代の香りを訪ねてみませんか。

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姫路・冑山を訪ねて(前編)

投稿日:



秋らしい空が広がり始めた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽姫路駅と山陽百貨店

今回訪れたのは山陽姫路駅です。
賑やかな大手前に面して、山陽百貨店がそびえています。

姫路駅の西

山陽姫路駅の西側に向かうと商店が立ち並ぶ昔ながらの景色が広がります。その中に聳えるコンクリート構造物は姫路市営モノレールの橋脚の跡です。

大将軍駅跡

ぽっかりと空いた空き地は姫路市営モノレールの大将軍駅跡です。マンションと一体になった斬新な構造の駅で、モノレールが昭和49(1974)年に休止、昭和54(1979)年に廃止になった後もマンションとして残されていましたが、老朽化のために取り壊されました。

大将軍神社

大将軍駅跡の近くには小さな神社がありました。こちらは大将軍神社です。姫路市営モノレールの駅名にもなっている「大将軍」は、現在では地名として残されていませんが、かつてのこの辺りの小字名で、JR高架化まで近くにあった跨線道路橋の「大将軍橋」にも名前が使われていました。

船場川

街中を歩いて、船場川に差しかかります。この辺りでもモノレールの高架が残されていて、独特の景観になっていますね。

次回はもう少し姫路を歩いてみたいと思います。

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