せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

明石港界隈を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
今回も、前回に引き続き明石港界隈を歩いてみたいと思います。

材木町の街並み

ジェノバラインのりばから材木町方面へ歩いてみることにしました。
この界隈は地図を見ると明石川と明石港に囲まれて半島のような地形になっています。その中の街並みはというと、ごく普通の住宅地が広がりますが、どことなく港町の風情を感じます。

岩屋神社

住宅地の中を歩いていると、大きな神社にたどり着きました。こちらは岩屋神社
明石近辺で「岩屋」 というと、明石の対岸である淡路市岩屋地区を思い浮かべてしまいますが、この岩屋神社はその名の通り淡路島の岩屋から遷ってきた神社だと言われています。

岩屋神社は第13代成務天皇の頃の成務天皇13(143)年に淡路島の岩屋から遷った神社だとされています。古くからこの地域の信仰を広く集め、江戸時代には明石藩の産土神とされました。当時は広大な社領を持ち、名実とも東播磨の大社として新港されてきました。
また、淡路島から遷ったという由緒に因んでこの明石港から林崎の赤石付近(こちらの林神社の訪問記事で紹介しました)へ舟を出す「おしゃたか舟神事」が毎年7月の夏季例大祭の際に執り行われています。

淡路島を望む

神社から海側を見ると、家並の間に淡路島の島影を望むことができました。

旧波門崎燈籠台

岩屋神社から海辺に出ると、石造りの灯台が現れました。こちらは「旧波門崎燈籠台」で、明暦3(1657)年に当時の明石藩主・松平忠国が築いたものです。

近世、城下町とともに現在の位置へ築かれた明石港は「波門崎」と呼ばれる岬と、築造の際に浚渫した砂を積み上げて築いた防波堤である「中崎」に囲まれた港でした。周辺の瀬戸内の港と違い、明石港は明石藩の港として設けられていて、藩の物資の輸送拠点や漁港等として使用されていたそうです。ただし、その立地から淡路島への航路の拠点としては重用されていて、多くの船が明石海峡を渡っていきました。この旧波門崎燈籠台はそうした船の目印として設けられたもので、戦後の昭和38(1963)年に新しい灯台が設けられるまで、実に300年以上も明石海峡を見守ってきました。

明石港を眺める

旧波門崎燈籠台から明石港を眺めてみました。明石藩の港として発展し、近代以降も淡路島・四国方面への航路の拠点として栄えた明石港ですが、前回も見てきましたように環境の変化によってその機能は失われてきました。一方で、漁業は現在も盛んで、今も多くの漁船が明石海峡へ漕ぎ出していきます。今月上旬の半夏生で注目された蛸や、お正月には欠かせない鯛など、今も関西の食卓を彩っています。

魚の棚でお刺身でも買って帰ろうかなと思いながら、帰途に就くことにしました。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。