せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

高槻城をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

今回も山陽電車から阪急電車に乗り換えて、阪急京都線のお城めぐりということで高槻城跡に行ってきました。

阪急高槻市駅から南に徒歩約10分で着きます。
キリシタン大名、高山右近のゆかりの城になります。

高槻城は別名、入江城とも呼ばれます。江戸時代の一国一城令により、摂津の国ではこの高槻城が残りました。

ちなみに明治7年に廃城となり、鉄道の東海道線が敷かれる際に石垣や木材が使われました。

石碑


高槻城は14世紀前半には記録として存在します。有名な城主はやはりキリシタン大名の高山右近ではないでしょうか。

高槻城はもともと足利幕臣の和田惟政が城主であり、高山氏もその傘下にありましたが、和田惟政が死に、その子・惟長と高山友照・右近親子が対立。和田氏を滅ぼして、高山氏が城主となりました。

城址公園


現在はきれいな公園となっています。

高山右近像


公園内には高山右近の像が立派に建っています。

天主教会堂跡


キリシタンであった高山右近は城内に天主教会堂を建て、キリスト教布教に努めました。

右近は生涯キリシタンを貫き、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出された際は信仰を守ることと引き換えに領地・財産をすべて放棄、徳川家康によるキリシタン国外追放令が出された際はそれに従い、フィリピンのマニラに行き、マニラで息を引き取りました。

高槻市立しろあと歴史館


城址公園のそばには歴史館があります。
無料で公開されていますが、展示もしっかりとしていて、一般的な資料館と遜色ありません。

キリスト教に生涯をささげた高山右近ゆかりの地である、高槻城跡にぜひ足を運んでみてください。


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茨木城をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

今回も山陽電車から阪急電車に乗り換えて、阪急京都線のお城めぐりということで茨木城跡に行ってきました。
阪急茨木市駅から歩くこと10分。江戸時代の一国一城令のため茨木城は取り壊されているため、城跡を訪ねます。
城跡は現在、茨木小学校になっています。

復元された櫓門


茨木城の城主では中川清秀が有名でしょうか。

中川清秀は荒木村重の傘下で、村重の謀反の際にも当初は村重に従いますが、織田方の説得によって、高槻城主の高山右近とともに織田方に降りました。

荒木村重謀反のきっかけとなった、敵対する石山本願寺への兵糧を横流ししたのは中川清秀の家臣とする説もあるようです。
清秀がこの茨木城を大規模な城へと拡充しました。

当時の茨木城を偲ぶ遺構としては、茨木神社に城門が残っています。

茨木神社



茨木神社のはじまりは807年に坂上田村麻呂がこの地に荊切(いばらきり)の里を作った際に鎮座したとされています。この「荊切」が「茨木」の地名の由来になったともいわれています。

茨木城から移築されたと伝わる搦手門


中川清秀のその後は織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の下で活躍します。本能寺の変後は羽柴秀吉に合流して、明智光秀との山崎の戦いでも主力となりました。

ぜひ、黒田官兵衛や荒木村重とのつながりが強い、この茨木城跡に足を運んでみてはいかがでしょうか。

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明智光秀ゆかりの地 ~勝竜寺城をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

今回は山陽電車から阪急電車に乗り継ぎ、阪急京都線のお城めぐりということで勝竜寺城に行ってきました。

場所は阪急京都線長岡天神駅からJRを超えて、徒歩で20分くらいでしょうか。

勝竜寺城公園


現在は公園となっていますが、堀や城壁、城門などが再現されており、非常にきれいな日本庭園となっています。

公園内


勝竜寺城ですが、本能寺の変を起こした明智光秀が中国大返しにより引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れ、この城に入城します。さらに追撃にあった光秀は自身の居城である坂本城に落ち延びようとしますが、道中で落命します。その一日後に勝竜寺城も落城しました。

光秀が逃げ出した北門跡


もともとは1339年(歴応2年)に細川頼春が築城したといわれています。戦国時代には三好三人衆の属城でしたが、織田信長が足利義昭をたてて上洛する際に落城させます。その後、信長は細川藤孝に勝竜寺城を与え、細川藤孝がより堅固な城に改修しました。

堀と外観


細川忠興とガラシャの銅像


また勝竜寺城は明智光秀の娘である玉(ガラシャ)が細川忠興に嫁いだ城でもあります。勝竜寺城の前の通りはガラシャ通りと名付けられています。ちなみに秋には長岡京ガラシャ祭りと呼ばれる祭りがあるそうです。

建物の2階には無料の展示室もあり、出土品などが並べられ、勝竜寺城の歴史を学べます。



大河ドラマの「軍師官兵衛」も本能寺の変が近づいてきたと思いますが、ぜひ明智光秀ゆかりの地であり、黒田官兵衛が攻略した勝竜寺城に足を運んでみてはいかがでしょうか。

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大和盆地を見下ろす信貴山へ(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、信貴山を巡ってみます。

朝護孫子寺本堂

信貴山で有名なものといえば平安時代後期に描かれたとされる国宝『信貴山縁起絵巻』です。
「飛倉の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の三部からなる絵巻は、寺の縁起というよりはこの寺の中興の祖と言われる命蓮上人にまつわる説話を描いたものですが、当時の人々の姿が生き生きと描かれ、見応えがあります。
境内の霊宝館ではこの『信貴山縁起絵巻』のレプリカを見ることができます。

この『信貴山縁起絵巻』の「飛倉の巻」では命蓮上人が空飛ぶ鉢を使って托鉢を行う様子が描かれています。托鉢を嫌がった長者が鉢を蔵の中に閉じ込めたところ、鉢は蔵ごと浮き上がり、たくさんの米俵を率いて信貴山へと飛んで行きました。蔵を追い掛けてきた長者に命蓮上人は慈悲の心を説いたとされます。ちなみに、播磨を中心に多くの説話を残す法道上人も同様に空鉢の術を使っていたと言われています。

空鉢護法堂

この空鉢の法は龍王から授かった術と言われ、信貴山の奥には龍王を祭る空鉢護法堂があります。案内に従って向かってみることにしました。険しい山道を上りつめてお堂に着いたころには疲労困憊ですが、かなり山の上に来ただけあっていい眺めです。

信貴山城跡碑

空鉢護法堂の近くにはこんな石碑がありました。
信貴山城は現在、空鉢護法堂がある信貴山雄嶽(おだけ)を中心に築かれた山城です。城が築かれたのはかなり古く、現代でも眺めがいいことからわかるように、大和盆地を見下ろす重要な城として整備が続けられました。
戦国時代には木沢長政松永久秀が築城入城、山上には四層の天守閣が設けられ、大和の拠点として整備拡張が行われました。松永久秀といえば主君の三好長慶に謀反を起こしたり、将軍足利義輝暗殺の首謀者などという説もあり、「乱世の梟雄」と呼ばれる悪役…と言いたいところですが、史実を確認すると信憑性に乏しいようで、多くは後の創作と言われています。
織田方についたものの、本願寺攻めから離脱して裏切った久秀は天正5(1577)年、信貴山城に籠城し、信長軍と攻防戦を繰り広げました。しかし、信長軍の猛攻撃で城は落城。久秀は信長が所望していた茶釜「古天明平蜘蛛」に火薬を詰めて爆発させ自害しました(諸説あるようなのですが、大河ドラマ「軍師官兵衛」ではこの説を採用していましたね)。
その後、信貴山城は廃城となり、大和の拠点としての役割は失われましたが、今でも周辺には石垣の痕跡などを見ることができます。

信貴山の眺め

恐ろしい歴史があったのが嘘のように、信貴山からの眺めは穏やかです。
この空鉢護法堂の他にも信貴山の山内には多くの特色あるお堂があり、回りきるのが大変なほど。梅雨の晴れ間には、パワースポット巡りと歴史散策ができる信貴山の散策はいかがでしょうか。

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大和盆地を見下ろす信貴山へ(前編)

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ぐずついた天気の日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今回は奈良県の西の端の信貴山を訪ねてみました。

西信貴ケーブル

やってきたのは、山陽電車から阪神電車を経て近鉄に乗り継いだ信貴山口駅
ここで近鉄の電車からケーブルカーに乗り換えます。
このケーブルカーは近鉄の運行する路線で、西信貴ケーブルと呼ばれています。わざわざ「西」 というからには東もあるのかと思うところですが、信貴山の反対側、近鉄生駒線信貴山下駅から出ていた東信貴ケーブルは昭和58(1983)年に廃止されてしまいました。

近鉄バス

ケーブルカーの終点の高安山駅からは近鉄バスに乗り換え。
このバスが走るルートには、かつて、信貴山急行電鉄が運行する電車が走っていました。山上で電車が走っているとはなかなか面白いのですが、この電車は戦時中の昭和19(1944)年に休止され、後に廃止されてしまいました。

信貴山朝護孫子寺

近鉄バスの終点の信貴山門バス停から参道を歩いて、信貴山朝護孫子寺に到着しました。 信貴山朝護孫子寺は信貴真言宗の総本山で、毘沙門天を本尊とする寺院です。
創建時期ははっきりとしていないようなのですが、平安時代の中ごろには堂宇があったと言われています。

世界一福寅

この寺を創建したのは聖徳太子であるという説もあります。物部守屋討伐の途上、この信貴山で勝利のための祈祷を行った聖徳太子の前に毘沙門天が現れ、勝利の秘法をさずけました。そのおかげで守屋に勝利した聖徳太子は後にこの山に寺院を築いたとされるものです。ただし、この伝説は後年の創作と言われ、信憑性が薄いとされています。
聖徳太子の前に毘沙門天が現れたのが寅年、寅日、寅の刻であったことからこの寺は寅に縁があるとされ、境内は寅ばかり。そういえば、西信貴ケーブルの車両にも寅が描かれていましたね。境内には「世界一福寅」と言われる巨大な寅がありました。
余談になりますが、この朝護孫子寺の張り子の寅にそっくりの寅がミャンマーのお寺の土産物にもあります。はるかに離れた日本とミャンマーに似たような土産物があるとは何だか興味深いですね。「アジアは一つ」ということでしょうか。

本堂からの眺め

本堂からは大和盆地が見渡せます。
何とも爽やかな景色で、お寺参り以外にも楽しめますね。
また本堂では戒壇巡り(暗闇の中で極楽への錠前に触れるお参り)もできます。

こんな感じで、なかなか楽しい信貴山ですが、次回は歴史部らしくこの信貴山を舞台にした戦いについて迫ってみたいと思います。

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