せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

姫路・京口を歩いて(前編)

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梅雨の合間に晴れ間が見えるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城

今回訪ねたのは姫路です。
青空の下にそびえる姫路城を眺めながら歩きだしてみることにしました。

姫路城中堀

姫路城を左手に東へと歩いていくと、緑色の水をたたえた堀が現れました。こちらは姫路城の中堀です。

池田輝政の手により慶長6(1601)年から改築された姫路城は渦巻きを描くように内・中・外と三重の堀が築かれていました。それぞれの堀によって、城と城下町は分けられ、この中堀の内側は中曲輪と呼ばれる寺社や武家屋敷の集まる地区、町人町の広がる外曲輪と分けられていました。市街地となった今でも、中曲輪の多くは学校や行政機関、公園などが広がり、外曲輪の市街地とは少し違った景色です。

中堀の鯉

中堀を覗くと大きな鯉がゆったりと泳いでいました。

内京口門

中堀の途中にあったのが内京口門の跡です。立派な石垣が残されていますが、門の内側は学校の敷地となっていて、重そうな鉄の門扉によって閉ざされています。こちらの内京口門の南側には京都へ通じる西国街道が通っていたため、このような名前になったそうです。ちなみに、外堀沿いには「外京口門」もありました。

中堀の景色

新緑の木々に彩られた中堀の景色を眺めてみました。
姫路城下の京口は街道沿いにあったせいか、見どころが点在しています。
次回、もう少し新緑の京口を歩いてみたいと思います。

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荒井・小松原を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、荒井を歩いてみたいと思います。

洗川緑道

街中を歩いていると遊歩道が現れました。こちらは洗川緑道です。今は埋め立てられていますが、その名の通り、かつてこの場所には南洗川という川が流れていました。今の住宅が建ち並ぶ景色が広がっていますが、かつてのこの辺りは加古川の支流の北洗川と南洗川、法華山谷川が作るデルタ洲が広がっていました。水利、そして、水運に恵まれた土地であったせいでしょうか、古くから栄えていたと伝わっています。

三社大神社

緑道を外れて街中を歩いていると大きな神社がありました。こちらは三社大神社です。

小松原城の碑

境内には石碑がありました。この地にはかつて、小松原城と呼ばれる城がありました。

小松原城を小松原盛忠なる赤松一族の人物が築いたのは弘長元(1262)年のこと。デルタ洲の頂点に位置したこの地は天然の要害で、この辺りの地域を支配する拠点となったそうです。城郭と集落を取り囲むように堀が築かれ、大規模な環濠城郭集落が形成されたとされていて代々小松原氏の城として使われていたそうですが、いつの頃か廃城となり、跡地は住宅地となりました。今では城の面影はありませんが、堀をそのまま埋め立てた道路や入り組んだ住宅地に城跡の雰囲気を感じることができます。

大福寺

三社大神社に隣接してあるのが大福寺です。この辺りも小松原城の城郭の中心であったとされています。この寺には小松原盛忠を祀る十三重層の石塔があります。

御所殿神社

三社大神社から入り組んだ住宅地の中を歩いていくと小さな神社がありました。こちらは御所殿神社です。

先ほど見てきたように、この辺りは多くの川によってデルタ洲が作られていました。その一つだったとされるのが南批都麻島(なびつまじま)です。この南批都麻島に生まれた美女が印南別嬢で、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とも呼ばれ景行天皇の妻となった人物でした。この御所殿神社には印南別嬢が祀られています。はるか古代、景行天皇は大和からここ播磨の地を訪れて印南別嬢を妻として迎えたと伝わっています。前回訪ねた荒井神社とともに、この地域の古い歴史を感じる神社です。なお、印南別嬢の墓は加古川を遡った日岡に建立されたと言われていて、日岡神社近くの日岡陵古墳であると言われています。

神社前の池

神社の前には緑色の水が張られた池がありました。こちらの池の底からは弥生時代の高坏が見つかったそうで、小さな池にはるか古代のロマンを感じることができますね。

工業地帯の山側に静かな住宅地の広がる荒井。街中にははるか古代へ遡る史跡が眠っていました。まだまだ厳しい状況が続きますが、お近くのスポットをたずねてみてはいかがでしょうか。

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荒井・小松原を歩いて(前編)

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梅雨の中に夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

荒井駅

梅雨の雨の中、山陽電車で訪れたのは荒井駅です。
工業地帯の真ん中にあり、通勤客で賑わう駅ですが、日中はひっそりとした雰囲気でした。

荒井の街並み

工場が建ち並ぶ浜側に対し、山側には住宅地が広がっています。旧道沿いの家々は新しいものになっていますが、曲がった道に古い道の雰囲気を感じることができます。

荒井神社

荒井の街の中にあったのが荒井神社です。

荒井神社の楼門

荒井神社で印象的なのはこちらの楼門です。

荒井神社ははるか古代の舒明天皇元(629)年に遡るとされています。山陰の出雲から渡ってきた氏族がこの地を開き、大己貴神(大黒様)を祀ったのが始まりとされています。境内の保育園の名前は「白兎愛育園」といい、なぜ播磨で「白兎」と思ってしまいますが、出雲や大黒様に関わる歴史を考えると納得ですね。

荒井神社の境内

雨の降り続ける荒井神社の境内。
あいにくの天気なのは残念ですが、もう少し荒井を歩いてみたいと思います。

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見野古墳群を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路市の見野古墳群を訪ねてみたいと思います。

見野古墳群4号墳

3号墳から山に向かって歩くと、見野古墳4群号墳が姿を現しました。
こちらも盛土が流出していて、石室がむき出しになっています。

山中の古墳

山の中の林の中には11号墳がありました。こちらは盛土がほとんど流されてしまい、もう大きな岩だけの姿になっています。

見野古墳群6号墳

見野古墳群の中でも目立つのがこちらの6号墳です。6号墳は「夫婦塚」とも呼ばれ、一つの墳丘に二つの石室がある珍しい造りです。こちらも盛土は流されていますが、そのおかげで二つの石室があるのがよくわかります。

前回も訪ねたように見野古墳群は古墳時代後期の6世紀終わりから7世紀頃の築造とされています。この古墳を築造した人物はわかっていませんが、後にこの地の南東にある見野廃寺の建立にも関わったとされ、古墳時代以降もこの地でかなりの勢力を持ち続けることになる一族であったと考えられています。

見野古墳群を眺める

古墳群を眺めてみるとこんな景色です。段々畑のようなところに穴の開いた丘や巨石が点在している光景はちょっと不思議な景色ですね。

山腹からの景色

古墳群のある林を抜けて、山腹から景色を眺めてみました。
なぜここにたくさんの古墳を築いたのか不思議な気もしましたが、こうして八家川沿いの眺めを見てみると、この地を古墳の場所に選んだ理由がわかるような気がしました。

姫路市の東部ののどかな地域に古墳が集まる見野古墳群。密を避けたお散歩に訪ねてみてはいかがでしょうか。

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見野古墳群を訪ねて(前編)

投稿日:



雨の続くころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽姫路駅

直通特急で到着したのは山陽姫路駅です。

見野古墳群バス停

駅前から神姫バスに乗って着いたのがその名も「見野古墳群前」というバス停です。

見野の景色

姫路市の中でも四郷町見野と呼ばれるこの辺り、山沿いにのどかな景色が広がっていました。こんなところに古墳が?

見野古墳群3号墳

集落を抜けた先にあったのが「3号墳」と書かれた古墳です。

見野古墳群は姫路市の東側、八家川沿いの山麓に築かれた群集墳です。築造時期は古墳時代後期の6世紀終わりから7世紀頃とされています。播磨地域の古墳では、五色塚古墳王塚古墳壇場山古墳が知られ、それと比べると小規模な古墳ですが、一つ一つを見ると巨大な石室が築かれたものが多くあり、有力者が埋葬された古墳であることがうかがえます。

3号墳の石室

3号墳の盛り土は流され、石室がむき出しになっています。横から内部を覗いてみると、思った以上の大きさで驚きました。石室だけの規模では姫路市内有数の規模とのことで、この地域の有力者が埋葬されていたのでしょう。

のどかな山麓に古墳が集まる見野古墳群、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

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