せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

明石市街を一望・人丸山に上る(前編)

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今年も終わりが近づくこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

人丸前駅

山陽電車で着いたのは人丸前駅

両馬川旧跡

駅のすぐそば、山陽電車とJRの橋の下に「両馬川」と記された石碑がありました。かつてこの地には石碑がありました。時は源平の戦いの頃、寿永3・治承8(1184)年に行なわれた一ノ谷の合戦の際、敗走した平氏軍を源氏軍が追い詰め、この地で川を挟んで戦いが行われたことから、「両馬川」と呼ばれるようになったと言われています。

天文科学館

人丸前駅から緩やかな坂道を上っていくと、時計台が象徴的な天文科学館の前にたどり着きました。

柿本神社

天文科学館の裏手に鳥居がありました。こちらは柿本神社です。

柿本神社の歴史は非常に古く、平安時代の仁和3(887)年にさかのぼるとされています。現在の明石公園の位置にあった楊柳寺という寺院の境内にある塚が平安時代の歌人・柿本人麻呂の墓であるとされ、祠が造られたのが始まりとされています(諸説あるようです)。この楊柳寺のある位置は六甲山地からなだらかにつながる台地の先端にあたり、山陽道や明石海峡を見下ろす要所であったことから、江戸時代には明石城の築城場所に選ばれ、寺は台地上を東側に移転しました。

柿本神社の境内

柿本神社の境内は古い神社らしく、落ち着いた雰囲気です。

柿本人麻呂ゆかりの神社とはいえ、知られざる存在だった柿本神社ですが、柿本人麻呂の没後千年とされた江戸時代の享保8(1723)年に「柿本大明神」との名前がつけられるとともに、千年祭が執り行われ、一気に柿本人麻呂ゆかりの神社として知られるようになり、明石のシンボルのような存在となりました。ちょうど日本標準時子午線が通ることから、麓に天文科学館が建てられていますが、山陽電車の車窓などから眺めると、こんもりとした神社の森は今でも印象的ですね。

神社から

神社の前から景色を眺めてみました。輝く明石海峡と播磨灘の景色は印象的ですね。

次回はもう少し人丸山を歩いてみたいと思います。

今年の更新は今回までです。本年も山陽沿線ブログ「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧いただきありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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アカシゾウと明石原人を求めて・八木を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、八木の海岸を歩いてみたいと思います。

明石原人発掘地

アカシゾウ発掘地から海岸を歩いていくと、フェンスで厳重に囲まれた一角がありました。こちらは明石原人発掘地です。

明石原人が発掘されたのは戦前の昭和6(1931)年のこと。アマチュアの考古学者だった直良信夫氏がこの地で人骨の化石を発見しました。直良氏は東京帝国大学(現・東京大学)に鑑定を依頼するものの、当時は相手にされず、化石は後に東京大空襲によって焼失してしまいました。戦後、東大に保管されていた石膏模型が再発見され、北京原人やジャワ原人などと同じ原人の骨とされて「明石原人」と呼ばれるようになります。しかし、現物が失われていて、後の発掘調査でも周辺からは関連する化石などは見つかることはなく、正体は今なお謎とされています。ちなみに、この辺りは明石原人がいたころからずっと時代が下がった仲哀天皇2(193)年頃、三韓征伐の帰途に神功皇后が海岸線の崖を屏風のように美しいとして「屏風ヶ浦」と名付けたと伝わっています。

住吉神社

明石原人発掘地の裏手に神社がありました。こちらは住吉神社です。

海に向いた神社

住吉神社は小さな神社で詳しい由緒はわかりませんが、周辺によくある海に向かった神社でした。鳥居の向こうには播磨灘と淡路島の景色が広がります。

来迎寺

八木の街中に入ると、寺院がありました。こちらは来迎寺です。山号は「月輪山」で、神功皇后がこの沖合で月の美しさを称賛したという伝説を由来としています。寺院の創建は養老元(717)年に、神戸市西区の櫨谷にある如意寺で行基が造った観音像の一体をこの地にまつったことに始まるといわれています。

来迎寺の境内

小さな寺院ですが、掃き清められた庭は気持ちがいいですね。神功皇后といえば、大昔のこと…となってしまうのですが、ここ八木ではそれよりはるか昔にさかのぼる歴史があるだけでなく、それらが現代まで繋がっているのを感じることができ、気が遠くなるような気さえしてきます。

平成最後の年末に、八木ではるか遠い歴史を感じてみませんか。

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アカシゾウと明石原人を求めて・八木を歩く(前編)

投稿日:



冬らしい寒さのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

中八木駅

山陽電車で到着したのは中八木駅

八木遺跡公園

駅から播磨平野らしい平らでのどかな道を歩いていくと、公園がありました。こちらは八木遺跡公園です。今では公園の周りは住宅地となっていますが、古い地図を見ると、集落があるのは谷八木川沿いと、この西側に当たる八木で、中八木にはわずかな住宅があるほかは田んぼが広がるばかりだったようです。

坂道から望む海

八木遺跡公園の横の道を下っていくと、木々の合間から播磨灘の水面が見えてきました。

アカシゾウ発掘地

海沿いの道を歩いていくと、石のブロックで囲まれた一角がありました。こちらは「アカシゾウ発掘地」です。

アカシゾウは昭和35(1960)年に当時中学生だった紀川晴彦氏がこの地の崖でゾウの牙の化石を発見したことから発掘が始まりました。120~180万年前にこの地に生息したゾウの一種とされ、同じ種類のゾウの化石は周辺でも発見されています。この八木のアカシゾウについては、紀川晴彦氏から大阪市立自然史博物館が発掘を引き継ぎ、全身の標本が作られました。

八木の海岸

アカシゾウ発掘地から播磨灘を眺めてみます。穏やかな冬の海の向こうには淡路島の島影が見えます。アカシゾウがいた頃、この播磨灘は大きな湖だったといわれています。

我々人間が歴史を紡ぎ始める前のはるか昔に思いをはせながら、もう少し八木を歩いてみたいと思います。

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湯の町・湊山を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて湊山地区を歩いてみたいと思います。

坂の町

天王川沿いから坂道を上ることにします。六甲山地の斜面に天王川や湊川が深い谷を刻んでいるこの辺りは複雑な地形で、坂道や路地が入り組んでいます。

街中の鳥居

住宅地の中を歩いていると、石造りの鳥居を見つけました。こちらの鳥居は有馬温泉の守護神ともされる豊國稲荷神社の鳥居です。

豊國稲荷神社の創建は明らかになっていないようですが、もともとは兵庫にあった兵庫城内に鎮座していたとされています。それが明治に入って移転し、有馬温泉の守護神とされていたこともあって、有馬への道筋の山中に落ち着くことになりました。前回訪れた天王温泉の石碑には、この豊國稲荷神社が天王温泉の守護神であるとも書かれていましたね。詳しい由緒はわからないのですが、温泉の神様ということになっているのでしょうか。

城壁のような石垣

豊國稲荷神社の鳥居からさらに住宅地を歩いていくと、まるで城壁のような石垣の上に住宅が建ち並んでいる景色が続きます。

大山咋神社

坂道を上りつめ、大山咋(おおやまくい)神社の前にたどり着きました。

大山咋神社が創建された時期は詳しくわかっていないようですが、古代に比叡山日吉大社から勧請されたと伝わっています。その後、福原へ遷都がなされた前後の治承年間に、平家と関係が深く、政権内で重用されていた藤原邦綱が雪御所の鎮護とするために再造営し、今に伝わっています。

豊國稲荷神社は今

先ほど、鳥居を見かけた豊國稲荷神社はかつて鳥居の先の山中にありました。しかし、平成28(2016)年に遷座され、現在はここ大山咋神社の境内にあります。険しい山中にあり、管理が難しかったためとのことで、時代を感じさせられますね。

大山咋神社より

大山咋神社より神戸の街を見下ろしてみました。古代より温泉が湧き、清盛を始め多くの人々を癒してきた湊山の温泉地と大山咋神社。時代の流れとともに姿を変えてきましたが、今も険しい坂の上から神戸の街を見下ろし、佇んでいます。

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湯の町・湊山を歩く(前編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回まで平野を歩いてきましたが、今回は祇園神社の麓に広がる湊山地区を歩いてみたいと思います。

天王川を見下ろす

神社の境内から見下ろすと、六甲山地から流れ出た川を見下ろすことができます。こちらは天王川。川の名前の「天王」とは祇園神社に因んだものです。

天王川沿いの道

天王川沿いに降りるとこんな道が続きます。建ち並ぶ家々と曲がりくねった道に風情がありますね。

湊山温泉

神社から見えた大きな屋根の建物の前に出ました。こちらは湊山温泉です。

湊山温泉の歴史は平安時代にさかのぼるとされています。川沿いのこの地に温泉が湧いていて、平清盛を始めとする平家一族も湯治に訪れたと言われています。現在の温泉施設ができたのは昭和に入ってから。一時は廃業となりかけていましたが、現在では新しい会社が運営を引き継いでいるとのことです。

天王温泉跡

湊山温泉から少し歩いたところにマンションがありました。マンションの前には石碑が。この地にはかつて、天王温泉という温泉がありました。この温泉も非常に古い歴史をもち、平清盛も湯治に訪れたといわれています。つい最近まで温泉施設がこの場所にあったようですが、湊山温泉のように新会社が運営に携わるようなこともなく、廃業してしまいました。それにしても、湊山温泉といい、かつては天王川沿いに温泉施設が建ち並んでいたのでしょうか。今では住宅地となっていますが、わずかな名残に温泉地の気配を感じることができます。

次回はもう少し、湊山地区を歩いてみたいと思います。

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