せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

時の町・人丸前を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、人丸前駅界隈を歩いてみたいと思います。

中崎公会堂

大日本中央標準時子午線通過地識標
の傍にあったのが中崎公会堂です。何度もご紹介している建物ですが、明治44(1911)年の建築で、風格ある瓦屋根が特徴です。この公会堂の落成記念講演には夏目漱石が呼ばれたそうです。

明石市立天文科学館

人丸前駅の方へ戻り、山陽電車の高架の北側へ出ました。そびえているのは明石市立天文科学館です。日本標準時子午線の通る人丸山に建てられた時計塔は明石のシンボルで、明石上とともに山陽電車の車窓を彩っていますね。

柿本神社

天文科学館の裏手にあったのが柿本神社です。

柿本神社は平安時代の仁和3(887)年に楊柳寺(今の月照寺)の住職の覚証なる人物が寺の裏にあった塚が柿本人麻呂の塚であるという夢のお告げを受けて、境内に鎮守として祠を建てたのが始まりです。その後、楊柳寺のあった場所には明石城が築城されることとなり、祠は寺とともに今の人丸山へ移転し、今のような姿となりました。

柿本神社の境内

歴史ある神社だけあって、境内は広々としていて、夏の強い日差しが差し込んでいました。

神門の向こう

拝殿から振り返ると、神門の向こうに播磨灘の水面を眺めることができました。

赤トンボの標柱

柿本神社の前にはトンボの標柱がありました。こちらも日本標準時子午線を示す標柱で、実は戦前の昭和5(1930)年に建てられ、意外と古いものです。こちらは明石市の文化財にも指定されています。

人丸山からの眺め

柿本神社を出ると、天文科学館越しに播磨灘と明石の街並みを見下ろすことができました。天文科学館ができ、時の町となったこの町ですが、柿本神社を初めそれ前の史跡も息づいていて、今と昔が混じり合い新しい時を紡いでいる町のように感じました。

日本標準時子午線が定められてから135年となった今年は山陽電車や明石市天文科学館を始め、様々なイベントが開催されています。この機会に訪れてみてはいかがでしょうか。

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時の町・人丸前を歩いて(前編)

投稿日:



夏の盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

人丸前駅

山陽電車で着いたのは人丸前駅です。

日本標準時子午線

高架駅のホームには日本標準時子午線の表記が為されていました。

日本標準時子午線は明治19年勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」の交付された明治19(1886)年7月13日のことです。この時に兵庫県を通る東経135度線が日本標準時子午線として定められました。なんと今年2021年は東経135度線が日本標準時子午線となって135周年となります。それを記念して、明石市天文科学館をモチーフにしたキャラクターの「シゴセンオー」が人丸前駅の名誉駅長に就任し、駅構内にも記念の様々な装飾が施されています。

明石市立天文科学館

ホーム上からは明石市立天文科学館を眺めることができました。青空の下に白い建物が映えていて、名実ともに明石のシンボルのような存在ですね。

日本中央標準時東経百三十五度子午線通過標

国道沿いに出ると、大きな看板がありました。天文科学館のPR看板のようにも見えますが、この中には碑があり、もともとは昭和8(1933)年に国道2号線開通の際に測量された子午線の位置を示すために建立された標柱でしした。覆いの一部は透明なアクリル板になっていて、石碑を眺めることができるようになっています。

大日本中央標準時子午線通過地識標

人丸前駅から海側に向かって歩くと、道路側に石碑がありました。こちらは大日本中央標準時子午線通過地識標です。こちらが建立されたのは明治43(1910)年で、日本標準時子午線制定の24年後のことでした。日本標準時子午線は明石市だけでなく兵庫県内で数多くの市町を通っています。にもかかわらず明石が「子午線の町」として知られるようになったのはこの石碑が初めて建立されたためとも言われています。ちなみに、計測の仕方の変更で現在の世界測地系で計測された東経135線はこの石碑の少し西側を通っています。

時の町・明石にはどこか地球の大きさを感じることができるようなスポットが溢れていますね。次回ももう少し人丸前駅界隈を歩いてみたいと思います。

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姫路・野里を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の野里地区を歩いてみたいと思います。

お夏清十郎比翼塚

慶雲寺の境内に墓所のようなものがありました。
こちらはお夏清十郎比翼塚と呼ばれています。

「お夏清十郎」は江戸時代に姫路で実際に起きた駆け落ち事件と、それを題材にした歌舞伎や浄瑠璃などのことです。江戸時代初めの寛文2(1662)年、姫路城下の旅籠・但馬屋の娘だったお夏と室津から但馬屋へ働きに出ていた清十郎が恋に落ちました。しかし、その恋を但馬屋の主人は許さず、清十郎に濡れ衣をかけられて処刑、お夏は墨染の衣をまとって読経を続け、清十郎の冥福を祈るようになったと言われています。

慶雲寺の境内

慶雲寺には夏の日差しがあふれていました。

二人の純愛に心打たれた但馬屋はのちにこの寺の境内へ比翼塚を築きました。また、このお話は歌舞伎や浄瑠璃などのたくさんの文芸作品にもなりました。井原西鶴の『好色五人女』に収められた『姿姫路清十郎物語』や、近松門左衛門の人形浄瑠璃『五十年忌歌念仏』はよく知られていますね。

野里地区の街並み

慶雲寺を過ぎても、野里地区には趣のある街並みが続きます。古くから交通の経路上にあった野里は古くから栄え、第二次世界大戦中の空襲被害にも遭わなかったために歴史ある街並みが今も残されています。姫路でもこうした街並みを見られるところは意外と少なく、最近は注目されています。

日吉神社

街の中にあったのが日吉神社です。承和元(834)年に北の増位山にある随願寺の鎮守として近江の日吉大社の勧請を受けて建立された神社で、戦国時代に焼失した後に再建され、現在は前回訪れた雲松寺の鎮守ともされています。

日吉神社の境内

ロードサイドに商店が建ち並び賑やかな現代の野里街道から離れた神社の境内は静かな雰囲気でした。

姫路城築城の中で変わっていった京口と野里、今訪ねてみると物語に彩られた近世からの風情の残る街並みを楽しむことができました。いよいよ夏本番、青々とした緑と姫路の街並みを訪ねてみませんか。

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姫路・野里を歩いて(前編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回は姫路の京口を歩いてきましたが、さらに野里街道を北へ向かってみました。

野里寺町

野里地区の野里寺町に差し掛かりました。
住宅や商店が建ち並んでいますが、瓦屋根の趣のある建物が目立ちます。

雲松寺

新道のほうの野里街道を覗いてみると、山門が大きな寺院がありました。こちらは雲松寺です。もとは曼陀羅寺といい、北側の威徳寺町にあったそうですが、池田輝政の改築時にこの地へ移転し寺号も改めたと言われています。

もともとは「大野里」と呼ばれていた野里地区は姫路城が築かれる前からこの辺りに村が広がっていました。大きく変わったのは慶長6(1601)年からの池田輝政の姫路城大改築で、この時に野里地区の南側は城下に入り、野里街道沿いの街は外町となりました。

慶雲寺

野里地区で目立つのが慶雲寺です。

慶雲寺の境内

慶雲寺の境内は街中にあるせいか広くはありませんが、整った雰囲気です。

慶雲寺は室町時代の嘉吉3(1443)年の創建と伝わっています。もともとは天台宗の寺院でしたが、南室和尚なる人物が天正5(1577)年に中興した際に現在の臨済宗の禅寺となりました。この南室和尚に帰依したのか池田輝政で、この慶雲寺に姫路城築城の際の木材を寄進するなどしました。本堂はこの時に建てられたものとされています。

緑あふれる境内

慶雲寺の境内は夏の緑があふれていました。

次回は慶雲寺からもう少し野里地区を歩いてみたいと思います。

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姫路・京口を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路城の東側、京口を歩いてみたいと思います。

旧寺町

内京口門から少し東側に向かうと、寺院が建ち並ぶ一角がありました。
こちらは「旧寺町」と呼ばれています。

妙国寺

通りに入ってすぐにあるのが妙国寺です。こちらはもともと天文20(1551)年に姫路の北側の置塩城下に建立されたものが、現在地の北側の河間町に移転し、池田輝政の姫路城改築の際にこの地に移りました。

ここ姫路に限ったことではありませんが、城下町にはこうして寺院が集められた「寺町」が設けられることが多くありました。当時の寺院は強固な塀や石垣を持ち、一種の砦のような機能があり、城の防御の一環として重要な地区に集められることが多かったとされています。この近隣では尼崎の寺町がよく知られていますね。
ここ姫路でも、この旧寺町と呼ばれる地区の寺院は多くが池田輝政の改築の際にこの場所へ集められ、街道沿いの内京口門外京口門の間の防衛設備とされました。そのためか、ほとんどの寺院は東側に山門を向けて並んでいます。

正明寺

旧寺町の寺院は通りの西側に並んでいますが、珍しく東側にあったのが正明寺です。

多くが中世に建立された寺院の旧寺町ですが、この正明寺は特に古い歴史を持ち、平安時代の康治2(1143)年に正覚坊道邃なる人物が建立したとされています。称名寺と呼ばれていた創建当初は姫山、現在、姫路城が建っている山にありましたが、正平元(1346)年に赤松貞範が姫山へ築城をした際に城下へ移転、城下でも何度も移転し、やはり池田輝政の改修の際の慶長13(1608)年に旧寺町へ移転し、江戸時代にも移転して現在に至っています。

正明寺の境内

境内を覗いてみると、堂宇が建ち並んでいました。旧寺町は昭和20(1945)年の姫路大空襲で大きな被害を受け、歴史ある寺院の多くが焼失してしまいました。この正明寺も中門と庫裏の一部を残して焼失してしまったそうで、現在の建物は戦後に建立されたものです。

野里街道

京口の名の通り、京都へつながる街道沿いに開けた京口は防衛機能を持つ町となり、城下のほかの街とは少し違った景色が広がっていました。この京口からはもう一つ、北へと延びる街道が通っています。その名は野里街道

次回はこの野里街道をたどって歩いてみたいと思います。

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