せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

曽根・日笠山麓を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、曽根を歩いてみたいと思います。

霊松殿

前回もご紹介したように、曽根天満宮は平安時代に菅原道真がこの地に松を植えたことが始まりとされています。この初代・菅公手植えの松は江戸時代までこの地にあり、大木へ育ったそうです。ただ、社殿などが焼失した秀吉の播州征伐以降は衰弱しはじめ、江戸時代半ばの寛政10(1798)年に枯死してしまいました。現在の松は五代目で、初代松の幹はこちらの霊松殿に保存されています。

曽根の街並み

曽根天満宮の北側へ歩くと、昔ながらの街並みが広がっていました。この辺りはもともとの曽根の集落に当たる地区で、集落や天満宮の浜側には塩田が広がっていました。江戸時代には姫路藩領となった曽根ですが、後に幕領、そして、一橋領となりました。曽根で作られた塩はやはり幕府領だった法華山谷川沿いの今市を経て出荷されていったそうです。

旧入江家住宅

集落の中で目立つのが古くから製塩を営み、曽根の庄屋もつとめていた豪商・入江家の屋敷です。この入江家の他にも大きな屋敷が多く建ち並び、製塩で栄えた当時の賑わいを今に伝えているようです。

天川と日笠山

集落を出ると、天川の畔に出ました。川の向こうにそびえているのは桜の名所としても知られている日笠山です。曽根天満宮の始まりとなった菅原道真手植えの松ですが、一説ではこちらの日笠山に植えられたとも言われています。

住吉神社

天川を渡ると、山沿いに小さな神社が佇んでいました。こちらは住吉神社です。

黒岩十三仏

住吉神社の傍の崖に草木に覆われるような岩がありました。岩には仏像が刻まれています。「黒岩十三仏」と呼ばれるこちらの磨崖仏は今もJR曽根駅近くにある時光寺を開いた時光坊が刻んだものという伝説がありますが、仏像の左側に室町時代の年号が記された銘文が刻まれているそうで、実際は曽根の在家尼僧たちが生前供養のために刻んだものとも言われています。近世には製塩で栄え、現在は静かな住宅地となっていますが、天満宮とともに製塩で栄える以前の曽根の姿を垣間見ることができるような気がします。

日笠山と山陽電車

山陽曽根駅近くに戻りました。日笠山の麓を山陽電車が行きかっています。

塩田で栄えた街並みが今も残る曽根ですが、中世以前の伝説に彩られた史跡もあり、歴史の長さを感じることができました。これからの連休に、訪ね歩いてみてはいかがでしょうか。

曽根・日笠山麓を歩いて(前編)

投稿日:


藤の花の咲く頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽曽根駅

山陽電車で着いたのは山陽曽根駅です。
なぜかローマ字で大きく書かれた駅名が特徴的ですね。

曽根天満宮参道

駅前からは曽根天満宮の参道が続いています。
あいにくの曇り空ですが、新緑の季節を迎えて木々は青々としています。

山陽曽根駅近くに佇む曽根天満宮は由緒ある神社として知られています。創建時期は不明ですが、伝説では延喜元(901)年に大宰府へ流される菅原道真が伊保の港へ立ち寄り、この地に松の木を植えたのが始まりで、後に道真の四男・淳茂が播磨国へ流された際に社を建立したとされています。

曽根天満宮随神門

参道を通り抜けると曽根天満宮の随神門がそびえていました。この随神門は江戸時代の大普請がおこなわれた享保12(1717)年の建立です。銅板葺きの屋根や破風が印象的で、由緒ある神社らしい立派な門ですね。

曽根天満宮の境内

広い境内には立派な社殿が佇んでいました。創建時の社殿は戦国時代に秀吉播州征伐の時に焼失してしまい、現在に残るのは天正18(1590)年に再建されたものです。

藤の花

境内ではちょうど藤の花が見ごろでした。
爽やかな紫色の花々を眺めていると初夏の訪れを感じますね。

高砂の曽根界隈をもう少し歩いてみたいと思います。

手苅丘の麓・手柄を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、手柄を歩いてみたいと思います。

生矢神社

船場川沿いに歩いていると、大きな神社がありました。こちらは生矢神社です。

生矢神社は名前からもわかるようにはるか古代、神功皇后の三韓征伐の際に現在の白浜の宮駅北側の麻生山から放たれた三本の矢の一本が落ちた場所とされています。これまでに訪ねてきた太市の破盤神社の割れ岩、余部の矢落の森、安室辻井の生矢神社的形と同じような伝説が伝わる地の一つです。

生矢神社の境内

手柄山の南麓に佇む神社の境内は広々としていました。

創建時は「行箭社」やこの辺りの地名「三和山」にちなんで「三和社」と呼ばれていたこの神社ですが、平安時代には平清盛が厳島へ向かう際にこの地へ立ち寄り霊夢を感じたことからこの社を「生屋大明神」として祀ったそうです。その後、江戸時代には清盛の十六代孫という関永重なる人物がこの地の代官職を務めるようになり、清盛ゆかりのこの神社の社殿を再建し、整備したそうです。以来、歴代の藩主からの寄進を受けるなどして広大な社領を持つ神社となりました。近代に入り、市街地として整備される中で社領は現在の規模になりましたが、それでも手柄山の山麓に佇む姿には歴史を感じることができます。

袖ぐみ地蔵

生矢神社から手柄山の麓を西へ歩くと、袖ぐみ地蔵がありました。地蔵堂の前ではまだ桜の花が残っていて、春の日が差し込んで幻想的な光景でした。

三和寺

手柄山の麓に佇んでいたのが三和寺(さんなじ)です。

三和寺の境内

山の麓の境内は緑に包まれるようでした。こちらは江戸時代に盤珪和尚の高弟の祖什という僧侶が再興したと伝わっています。盤珪和尚といえば網干の龍門寺を創建した僧侶ですね。生矢神社と同じく歴代の姫路藩主から信仰された寺院ですが、今は春の緑の中に静かに佇んでいました。

船場川と手柄山

船場川に架かる橋から手柄山を眺めてみました。現在は姫路市民の憩いの場の公園となっている手柄山ですが、風土記の時代にまで遡り、周辺に目を向けると歴史あるスポットが集まっているのが意外にも感じました。

私自身が気になって訪ね歩いていた姫路の矢落伝説の地も一回りしました。射られた矢は三本のはずなのに伝説がこんなに多く残されているのは不思議ですが、いずれ新しいことがわかるのかもしれませんし、伝説は伝説のまま、私たちの心を癒して楽しませてくれるのかもしれません。
そんなことを思いながら、春の終わりの手柄を後にしました。

手苅丘の麓・手柄を歩いて(前編)

投稿日:


初夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

手柄駅

山陽電車で着いたのは手柄駅です。抜けるような青空が広がっていました。

旧姫路市中央卸売市場

駅の西側に広がるのは旧姫路市中央卸売市場です。3月に妻鹿駅の浜側の妻鹿漁港近くに新市場が開場したばかりで、こちらの旧市場はひっそりと佇んでいました。

船場川

手柄駅からしばらく歩いていると船場川に差し掛かりました。姫路城下を流れてここ手柄を通って飾磨へと流れる川です。眩しい日差しに水面が輝いているようでした。

船場川と桜

船場川沿いには桜が残っていて、川の上を白鷺が飛んでいきました。

姫路市街の南側、手柄山の麓に広がる手柄地区は古い歴史を持っているとされています。奈良時代の「播磨国風土記」には手柄山が「手苅丘」と記され、麓のこの辺りは「手苅村」と呼ばれていたそうです。不思議な地名の由来には、近隣の国々の神がこの辺りで手で草を刈り食物を置く敷物としたという伝説や、この辺りの住民は鎌を知らず手で草を刈っていたという伝説があります。「手苅」が今の「手柄」となった時期は詳しくわかっていませんが、一説では永享12(1440)年の結城合戦の際に英賀三木氏の配下の武将がこの辺りで手柄を挙げたことに因んでいるともされています。その後、近世にかけて「手苅」という地名は消えてしまいますが、明治時代に手柄山に因んで手柄村が設置され、この辺りが再び手柄と呼ばれるようになりました。

鯉の釜

船場川が手柄山にぶつかり大きく曲がっているこの辺りは淵になっていて、「鯉の釜」と呼ばれています。「姫が淵」「蛍沢」という別名もあるそうで、古くは蛍の名所として知られていたそうです。

姫路市街に近接しながら、豊かな自然を感じられる手柄をもう少し歩いてみたいと思います。

花盛りの姫路城を訪ねて

投稿日:


今年は開花が早かった桜も散り始めた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

桜の時期は過ぎつつある頃ですが、花の盛りに姫路城を訪ねてきましたのでご紹介します。

姫路城を眺めて

定番の眺めになりますが、山陽姫路駅前の大手前通り越しに姫路城を眺めてみました。明るい春の日差しに、白いお城が一層輝いているように見えますね。

お堀越しの姫路城

大手前を歩き、姫路城の前へ着きました。ちょうどお堀を観光用の和船が進んでいきます。まるで一幅の絵のような光景でした。大手門へと続く桜門橋には多くの観光客が行きかっています。

何度も訪ねていますが、姫路城は播磨平野にそびえる姫山に築かれた平山城です。もともとは中世に築かれた城で、戦国時代から安土桃山時代にかけて、黒田官兵衛や羽柴秀吉が城代をつとめた頃に拡張されていきました。現在のような城郭が整備されたのは江戸時代の初め、池田輝政の手によります。

三ノ丸広場の桜

姫路城の大手門をくぐり、三ノ丸広場に入ると、辺りは桜の海のようでした。三ノ丸広場はお花見の方でいっぱいでした。

城郭として整備された姫路城ですが、築城当時はこのように桜は植えられていなかったとされています。城主や家族の住んでいた居館の庭園の植栽に桜もあったとされていますが、現在のような桜並木ではなかったそうです。

基準木

三ノ丸広場の西側には基準木という看板が立っていました。こちらは姫路城の桜の開花の基準木で、この木の開花状況が姫路城での桜の開花状況として公開されています。現在の標準木は二代目で先代は樹齢90年とも言われる老木でした。

近世を通じて姫路を中心とした播磨を治める拠点だった姫路城ですが、明治に入ると城一帯に陸軍の施設が設けられました。姫路城自体は民間に売却されてしまいましたが、のちに国有に戻され、明治の大修理として大規模な修繕工事が施されました。この修理の完了後に城跡の陸軍の使用していない場所は姫山公園として整備されていきました。姫路城で桜が植えられるようになった時期ははっきりしていませんが、樹齢90年と言われる先代の標準木が植えられたのはちょうどこのころ。姫山公園が都市公園として整備される中で城内に桜の木が植えられていったのでしょうか。

姫路城大天守と桜

桜越しに大天守を眺めてみました。
姫路城が今のような桜の名所となったのは城郭として役目を終えて、都市公園として整備されていったからと言えるのでしょうか。城にとってそれが良いことなのかは私にはわかりませんが、こうして白い大天守と桜の花を楽しめるのは時代が移り変わっていったおかげと言えるのかもしれません。

今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、来年は是非花盛りの姫路城を訪ねてみてください。