せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

宿場町と毛織物・加古川を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加古川を歩いてみたいと思います。

称名寺

西国街道沿いに続く寺家町を外れて、南側へ出てみました。町中に佇むのは称名寺です。

称名寺の境内

加古川のシンボルでもある銀杏の木が立つ境内には蝉時雨が降り注いでいました。

称名寺自体は聖徳太子の創建と伝わる古刹で中世に加古川を治めた糟谷氏の菩提寺でした。それだけでなく、現在称名寺が建つ場所はかつて糟谷氏の居城の加古川城があった場所とされています。古くから東播地域を治める拠点であっただけでなく、安土桃山時代の天正5(1577)年、中国の毛利氏征伐のためにここ加古川へ入った羽柴秀吉が諸国城主を集めて開いた軍議「加古川評定」が行われた場所でもあります。この加古川評定の結果、別所氏三木城は秀吉軍の攻撃を受けて落城し、その後近世にかけて、三木は明石藩の領地となりました。そんな出来事を考えると、ここ加古川は東播地域の歴史が動いた場所だったのかもしれませんね。

ニッケパークタウン

称名寺とは逆に寺家町の北側に出てみると、巨大な商業施設が広がっていました。こちらは「ニッケパークタウン」です。量販店や飲食店の入る現代らしい商業施設ですが、かつてこの場所には日本毛織の加古川事業所がありました。

日本毛織は明治29(1896)年に創業された毛織物のメーカーです。明治32(1899)年にここ加古川で加古川事業所を操業させ、加古川を毛織物の一大産地とさせました。ちなみに、創業者の川西清兵衛は毛織物業で得た利益をもとに鉄道事業にも参画します。それが、のちに山陽電車となる兵庫電気軌道でした。近世までは宿場町や行政都市だった加古川は日本毛織の企業城下町へと変化していきました。

加古川日本毛織社宅建築群

ニッケパークタウンの西側、ちょうど称名寺の裏手辺りを訪ねると、古めかしい町家群が現れました。こちらは加古川日本毛織社宅建築群、日本毛織加古川事業所で働いていた社員たちの社宅の跡です。

加古川日本毛織社宅建築群は明治時代からの住宅が残された街並みです。人気のない趣のある建物群はどこか不思議な雰囲気が漂っていました。部屋数の多い建物を眺めていると、かつては多くの住人で賑わっていたことを偲ばせるようですね。街中に残る洋館は明治時代に毛織織物の技術を伝えた「お雇い外国人」の住居で、加古川市内では珍しい異人館です。多くの社員が働いていた日本毛織加古川事業所ですが、昭和51(1976)年に工場は加古川対岸の印南工場へ合併され、跡地は先ほど眺めてきた商業施設となっています。

加古川日本毛織社宅建築群を眺めて

砂利道に板壁の続く加古川日本毛織社宅建築群を眺めてみました。工場は加古川対岸となりましたが、今もこの周辺には日本毛織関連の施設が建ち並び、企業城下町の雰囲気が残されています。そんな中でこの街並みが残されているのはやはり不思議な気がしますが、こんな雰囲気の景色を静かに眺められるのは貴重な場所なのかもしれません。

宿場町から企業城下町へとあり様を変えながらも賑わってきた加古川、お買い物の際に少し歩いてみてはいかがでしょうか。

宿場町と毛織物・加古川を歩いて(前編)

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夏の盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

加古川駅

山陽明石駅から乗り換えて着いたのは加古川駅です。
駅前には真夏の厳しい日差しが降り注いでいました。

加古川の街並み

整然とした街並みの加古川駅前ですが、駅から少し離れると歴史を感じる街並みが続いています。現在の加古川は東播磨の中核都市ですが、元々の加古川は西国街道の宿場町のひとつでした。

寺家町

かつての西国街道には寺家町という商店街が続いています。

加古川の宿場町の歴史は非常に古く、はるか古代へ遡ります。「賀古駅」と呼ばれた元々の加古川の宿駅は加古川駅から南東の野口にありましたが、中世の「賀古川宿」は野口から北西、加古川の渡しに近くへと移ったとされています。近世には西国街道の拠点となる宿場町として栄え、加古川の畔から現在の加古川駅付近まで宿場町の街並みが続いていたようです。その中でも、宿場の中心として賑わったのは現在も商店街が残る寺家町だったそうで、現在も、寺家町には趣のある建物が残されています。

黒壁の旧家

寺家町の商店街の中に特に風格のある建物が残されていました。「黒壁の旧家」と呼ばれるこちらは現在は使われていないようですが、立派な造りは宿場町のかつての賑わいを今に伝えるようです。

陣屋

商店街の外れに「陣屋」と書かれた人形店がありました。こちらは屋号の通り、姫路藩が加古川宿に置いた役所の陣屋跡にあるお店です。外からはよくわかりませんが、陣屋の建物は現存しているようで、内部に入ると当時の面影が残されているようです。

西国街道の宿場町として栄えた加古川をもう少し歩いてみたいと思います。

書写山の麓・曽左を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて姫路の曽左を歩いてみたいと思います。

御車寄跡

阿弥陀寺を後にして、バスの行きかう県道に戻りました。道沿いに石碑が建っているのが見えました。こちらは御車寄跡です。花山天皇や後醍醐天皇が書写山へ御幸した際に車駕を停めた屋敷の跡とされています。

立丁

御車寄跡から書写山の方へ向かって坂道が伸びています。この坂道沿いの街は立丁と呼ばれています。この坂道は書写山への参道の「東坂」に続いていて、現在は住宅が建ち並んでいますが、かつては書写山への巡礼宿が建ち並んでいました。当時の宿の屋号は今も残されているそうです。

八王子神社

東坂への坂道の途中にあったのが八王子神社です。こちらも書写山を開いた性空上人によって建てられたと伝わる古社です。

「西の比叡山」ともいわれる書写山圓教寺はもはや説明が不要なほどに知られた寺院です。「書写」という不思議な名前は伝説で素戔嗚尊が書写山の山頂で一泊したことに因んで「素盞ノ杣(すさのそま)」、そして、「素戔(すさ)」と呼ばれるようになったことに由来しています。山内にある白山権現には素戔嗚尊が祀られていますが、圓教寺の創建前からこの地に祠があったとされています。やがて、書写山が釈迦が法華経などを説いたインドの霊鷲山(チャタ山)を”書き写したようだ”ということから「素戔(すさ)」に「書写」の文字を当てるようになりました。また、時代が降るとともに「曽左」と言う文字も当てられるようになり、山の名前は書写山、山麓の門前町は「書写」「曽左」と呼ばれるようになりました。この地域はかつて飾西郡曽左村と呼ばれていて、今も地域の地名は「書写」です。書写山にいくつかある山道の中でも西坂と東坂はメインルートで、今も歩いて山上を目指す人は少なくありません。しかし、参拝者や観光客の多くは書写山ロープウェイに移ってしまい、ロープウェイの駅が曽左から離れた場所に設けられたために曽左の門前町としての機能は薄れていき、街の中に佇む書写山にゆかりのある社寺にかつての賑わいをしのぶのみです。

如意輪寺

東坂の登り口の近くに長い石段のある寺院がありました。こちらは如意輪寺です。

如意輪寺の境内

高台にある如意輪寺の境内は大量のカカシが座っていて、少し不思議な雰囲気でした。

こちらの如意輪寺も長保4(1002)年、性空上人の創建とされています。この寺が開かれてから300年後の応永5(1398)年、書写山は女人禁制となり女性の入山ができなくなりました。そこで心空慈伝上人はこの寺に女人堂を設けて女性の巡礼の拠点としました。明治に入ると女人禁制が廃令となり、女性も入山できるようななったため女人堂としての役割は終わり、境内には静かな雰囲気です。門前町も女人堂も、いずれもこの地区の歴史の移り変わりを示しているようですね。

如意輪寺からの眺め

如意輪寺の境内からは曽左や姫路の北西郊の街並みを眺めることができました。

歴史ある社寺が佇み、門前町の賑わいを今に伝える曽左、書写山と併せて訪ねてみてはいかがでしょうか。

書写山の麓・曽左を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、書写山の麓の曽左を歩いてみたいと思います。

書写山西坂参道

坂本城跡から北側、兵庫県立大学のキャンパスの方へと歩いてみました。大学の建物が建ち並ぶ中を通り抜ける坂道は書写山への参道の「西坂」です。書写山への参道はいくつかあり、現在はこの東側の夢前川沿いから伸びる書写山ロープウェイがメインルートとなっていますが、かつては南麓のこの辺りからも多くの参拝者が山上の圓教寺を目指して歩いていました。

日吉神社

西坂の途中に立派な絵馬殿のある神社がありました。こちらは日吉神社です。

日吉神社の境内

絵馬殿を潜ると山沿いに境内が広がっていました。

「大学内にある神社」と言われる日吉神社ですが、歴史は大学よりはるかに長く、平安時代に遡ると言われています。創建したのは書写山を開いた性空上人で、圓教寺を開くとともにこの地に山王権現を祀って書写山の鎮守としたそうです。現在は住宅地の広がる曽左地区ですが、前回も歩いてきたように、「西坂」「東坂」といった書写山の参道の麓の門前町として開けてきた町です。比叡山坂本のような街を考えると、こちらの日吉神社はちょうど日吉大社になぞらえることができそうですね。

阿弥陀寺

日吉神社から東側へ歩くと、木々に囲まれた寺院がありました。こちらは阿弥陀寺です。平安時代の長久2(1041)年の創建と伝わる古刹で、もとは現在地より西側にあったそうですが、敷地が県立大のキャンパスとなるために現在の場所へ移っています。

阿弥陀寺の境内

山門をくぐると、木々に覆われた境内が広がっていました。現在地の移転当時は木々の生えていない更地だったそうですが、植栽の整備を進めて現在のようになったそうです。外は真夏の暑さですが、境内はまるで別世界のような空間でした。

書写山の門前町として栄え、今も歴史ある街並みの残る曽左をもう少し歩いてみたいと思います。

書写山の麓・曽左を歩いて(前編)

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梅雨明け間近な頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

県立大工学部バス停

山陽姫路駅前からバスに乗って着いたのは県立大工学部バス停です。停留所の名前の通り、目の前には兵庫県立大学のキャンパスが広がっていました。

床坂

バス停のすぐ西側には切通しのような坂道があります。こちらは床坂と呼ばれていて、夢前川沿いの平野と菅生川沿いの谷間の間の峠道です。

床坂の祠

坂の入り口には小さなお堂がありました。道路は拡幅され、車やバスではあっという間に通り過ぎてしまいますが、どこかかつての峠道を感じる雰囲気があります。

床坂は姫路から北西方面への古くからの道で、現在も宍粟市や姫路市安富町へのバスの経路となっています。伝説では今の安富町に住んでいた「伊佐々王」と呼ばれる大鹿の休憩所だったそうです。この床坂の東側、ちょうど書写山の南麓にあたる地域は曽左(書写)と呼ばれ、古くから書写山と繋がりのある地域でした。ここまでのバスが通り過ぎた停留所には「西坂」「東坂」という言葉があり、書写山への登り口だったことが地名からもわかります。

桜池

床坂から住宅地の中を歩いていくと、桜池という小さなため池がありました。

坂本城跡

池の傍にも住宅地や水田が広がっています。中世にはこの場所に「坂本城」という城がありました。築城時期は詳しくわかっていないそうですが、発掘調査によって室町時代の14世紀から16世紀にかけてこの場所にあり、赤松氏の手によるものだったそうです。交通の要所に位置したこの城は赤松氏、そして、赤松氏が滅亡した後は山名氏の重要な拠点でした。現在は殆ど面影はありませんが、水田の中に土塁が残されています。

書写山の麓の曽左地区をもう少し歩いてみたいと思います。