せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

異人館と港・網干を訪ねて(前編)

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暑かった季節も遠ざかったような気のするこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽網干駅

飾磨駅から網干線の電車で着いたのは山陽網干駅

山陽網干駅を眺める

山陽網干駅は山陽電車の西端の駅です。

かつてはここ網干から相生市の那波を経て赤穂への路線が計画されていました。「山陽」という壮大な社名も西へと伸びる路線網にちなんでつけられましたが、相生への路線は昭和46(1971)年に許可が廃止されています。また、ここ網干から山崎へ山陽電鉄自動車部(今の山陽バス)の乗合バスが神姫自動車(今の神姫バス)との共同運行で運行されていましたが、こちらも昭和45(1970)年に廃止され、今は神姫バスのグループ会社のウエスト神姫のバスが単独で運行をしています。かつては山陽電車の西の拠点ともいえる駅でしたが、今は静かな終着駅です。

網干の街並み

網干の市街は山陽網干駅の南側に広がっていて、姫路市網干区になる以前は網干町と呼ばれていました。市街地の西側を流れる揖保川の舟運と瀬戸内海航路の結節点の港町として、古くから栄え、市街地には当時をしのばせるような街並みが続いています。

網干川の眺め

市街地を流れる網干川に架かる橋に差し掛かりました。
新しいマンションと、古くからの家並みが今の時代らしいコントラストを描いています。

港町として栄えた網干。次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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祭と塩田・白浜を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の白浜を歩いてみたいと思います。

桟敷席

松原八幡神社の前にはこんな施設がありました。
こちらは「灘のけんか祭」の際に使われる桟敷席です。
前回もお話しました通り、2020年の灘のけんか祭は新型コロナウィルスの影響で屋台練り・神輿合わせの中止が決まっています。いつもならもうしばらくすれば賑わうはずの桟敷席はどこか寂しげに見えました。

「灘のけんか祭」の歴史ははるか中世に遡るとされています。元々の祭礼は「放生会」として行われていました。前回訪れた隣の八正寺は松原八幡神社の少し前の神亀元(724)年の創建とされ、松原八幡神社の創建後は神社の神宮寺となりました。中世に播磨の守護大名となった赤松氏の庇護を受けた松原八幡神社と八正寺は、僧兵を抱えて大きな勢力を持つようになりますが、応仁の乱が勃発した応仁元(1467)年、赤松氏と対立する山名氏の軍勢の攻撃を受けて焼失してしまいました。後の永禄元(1558)年に赤松政則の手によって神社と寺は再建され、その際に政則は神社に田んぼと米二百俵を寄進。氏子たちは喜んでその米俵をかついで御旅山(宮山)に上ったそうで、それが今のように御旅山へ渡る祭礼になった由来とされています。

松原八幡神社の楼門

桟敷席から神社へと戻り、楼門を眺めてみます。

現代のような祭になったのは明治時代に入ってからで、神仏分離令により八正寺が神社から切り離され、氏子中心の祭になったことがきっかけでした。激しい祭は、今や播磨の秋を彩る風物詩ですね。

水路

神社から少し歩くと水路がありました。今では細い水路ですが、ここはかつて入り江になっていて、松原八幡神社の門前まで海岸が迫っていました。そして、入り江の東側には塩田が広がっていました。この入り江では昭和初期に埋め立てられるまで、「灘のけんか祭」の本宮の朝に年番(練り番)の地区の人たちが海に入って身を清める潮かきが行われていました。

塩田の村

東に向かって歩いていくと、宇佐崎地区に入ります。この辺りは浜側の塩田で栄えた村でした。塩田で栄えたエネルギーが祭にも発揮されていたのでしょうか。ただし、この地域の発展を支えた塩田は戦後に姿を消しています。塩田だった場所のうち内陸部は住宅地になり、播磨灘沿いの一帯は広大な工業地帯となりました。「灘のけんか祭」の潮かきは工業地帯の向こうの白浜海水浴場で今も行われています。

地域の姿が変わりながらも播磨の秋の風物詩として執り行われている「灘のけんか祭」、来年はいつものように開催できることを心から願いながら、白浜を後にすることにしました。

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祭と塩田・白浜を歩いて(前編)

投稿日:



季節が秋になっていくのを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

白浜の宮駅

山陽電車で着いたのは白浜の宮駅です。

白浜の宮駅を眺める

白浜の宮駅はバリアフリー化が完了していて、立派なエレベータと歩道橋が設けらています。

白浜の石棺仏

駅から歩いてすぐの住宅の合間に小さなお堂がありました。こちらは「白浜の石棺仏」です。家型石棺の蓋に地蔵立像が彫られたもので、南北朝時代の末の明徳3(1392)年の建立とされていて、「明徳地蔵」とも呼ばれています。

八正寺

駅から程なくの場所に寺院がありました。こちらは八正寺です。
寺の前の大きな銀杏の木が印象的ですね。

松原八幡神社

八正寺から浜側に回ると朱塗りの大きな鳥居がありました。こちらは松原八幡神社です。

松原八幡神社は天平宝字7(763)年の建立とされる古社です。この年に隣の妻鹿村の漁師が「八幡」と書かれた木札を海中から引き揚げ、妻鹿村と松原村の間の宮山に祀ったことが起源とされています。後に豊前国の宇佐神宮からの勧請でここ松原村に八幡神社が建立されました。ちなみに、宮山には松原八幡神社の元宮の神社があり、松原八幡神社の御旅所もこちらにあります。

松原八幡神社の境内

松原八幡神社といえば秋の「灘のけんか祭」ですね。祭の際には賑わう境内ですが、今は静かな古社らしい雰囲気でした。また、今年は新型コロナウィルスの影響で屋台練り・神輿合わせの中止が決まっています。

白浜の宮と言えば松原八幡神社!
ですが、次回はもう少し、街を歩いてみたいと思います。

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港町・飾磨を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、飾磨を歩いてみたいと思います。

史蹟舊姫路藩御舩役所之趾の碑

川沿いを歩いていると、石碑がありました。
こちらは「史蹟舊姫路藩御舩役所之趾」の碑です。何だか難しい名前ですね。

姫路藩御舩役所を眺める

近くにある水門からこの石碑の辺りを眺めてみました。今では面影はありませんが、この地にはかつて姫路藩の御舩役所がありました。

前回もご紹介しましたが、ここ飾磨は古くから港町として栄えてきました。かつての飾磨はもう少し西側、夢前川河口付近が中心だったとされていますが、近世以降は現在の飾磨駅周辺が中心となっています。この地が発展することになったのは、慶長6(1601)年のこと。この辺りにあった入江に当時の姫路城主だった池田輝政が外堀川を掘削した土砂を使って「向島」という人工島を築いて御舩役所を置き、この地を姫路の外港として整えたことに始まります。この時に外堀川は堀としての役割だけでなく、飾磨と姫路市街を結ぶ運河としての役割も持つようになりました。のちに運河としての役割は城下に繋がる船場川に移りますが、この辺りは「飾磨津町二十町」という町に発展します。ここにあった入江は明治時代までは地図上で姿を追うことができるのですが、後に埋め立てられ、今は企業の建物が建っています。

恵美酒天満神社

飾磨の街中を歩いていると、趣のある神社がありました。
こちらは恵美酒天満神社です。

飾磨の街並み

古くから賑わっていた飾磨には今も当時を偲ばせる街並みが残されています。恵美酒天満神社の周辺には外堀川や同じく姫路市街への運河として使われていた船場川から分かれた水路が張り巡らされていて、水路と街並みの景色が広がっています。

恵美酒天満神社を眺める

水路越しに恵美酒天満神社を眺めてみました。

港町として姫路とは違った発展を遂げながら、一方で、姫路の外港として姫路を支える街だった飾磨。
山陽電車の駅の周辺の街中には今も趣のある景色が残されています。

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港町・飾磨を訪ねて(前編)

投稿日:



暑さも少しだけおさまり、空には秋の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

飾磨駅

山陽電車で到着したのは飾磨駅

飾磨駅ビル

今は姫路市の一地区の飾磨区になっている飾磨ですが、以前は姫路とは別の「飾磨市」という自治体で、この飾磨駅は飾磨市の中心駅でした。

古くから姫路の南側の港町として栄えていた飾磨は戦時中の昭和15(1940)年に市制を施行して「飾磨市」となっています。それ以前から、飾磨は飾磨町として自治体が分かれていて、別の街という意識が強かったのでしょうか。「飾磨市」が周辺の自治体とともに姫路市に合併されたのは戦後すぐの昭和21(1946)年のことで、「飾磨市」が存在したのは戦時中のわずか6年間だけでした。兵庫県では戦後に多くの自治体が合併をしていきましたが、この飾磨市の合併は大きな市町村合併のはしりのようなものだったのでしょうか。

飾磨街道

飾磨駅のすぐそばの踏切を通るのは姫路と飾磨を結ぶ飾磨街道で、この街道はさらに生野へと続いて「銀の馬車道」の一環となっています。道沿いには「銀の馬車道」の幟が立てられていました。

外堀川

街中を歩くと、姫路の市街地から流れる外堀川のほとりに出ました。
今は静かに川の流れる景色が広がっていますが、かつては少し違った景色が広がっていました。

次回はもう少し飾磨の街を歩いてみたいと思います。

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