せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

旧山陽道の街並み・大蔵谷を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、大蔵谷界隈を歩いてみたいと思います。

稲爪神社楼門

国道から稲爪神社の正面に回ってみました。
海側にそびえるのは神社の楼門です。
お祭りなので、提灯に明りが灯っていて、何だかいい雰囲気ですね。

境内の茅の輪

訪れたとき、境内には大きな茅の輪がありました。毎年6~7月に日本の多くの神社で行われる夏越しの大祓がこの神社でも行われています。この茅の輪をくぐると厄払いができ、今年の残り半分を健康に過ごすことができると言われています。

稲爪神社はかつて「稲妻神社」と呼ばれていました。ものものしい名前の通り、歴史は古く、由来ははるか古代の推古天皇の時代にさかのぼります。神社の由緒やその他の資料によると、このとき、五体皆白銅の不死身の鉄人が率いた軍勢が西アジアから朝鮮半島の三韓(高句麗・百済・新羅の三カ国)を征服し、さらに日本に攻め込んできたとのこと。全身を鎧で覆った鉄人の軍勢に日本軍は歯が立たず、九州は攻略され、四国の伊予にまで進軍してきました。このとき、鉄人征伐の命を受けた伊予の役人・小千益躬なる人物は鉄人の弱点は足の裏であるとの三嶋大明神のお告げを聞き、降参したふりをして朝廷のある大和までの先導役を務めることになります。ちょうど明石に着いたころ、突然の稲妻に驚いた鉄人が落馬。その隙に足の裏を射てついに鉄人を討ち、日本から退却させました。のちに益躬は鉄人を討ったこの地に社を建てて三嶋大明神を祭りました。これが稲爪神社の始まりといわれています。

楼門から海側を眺める

楼門から海側を眺めてみます。かつては海を望むことができたのでしょうが、今は住宅が立ち並び、水平線を見ることはできません。

稲爪神社に伝わるものと同様の伝説は伊予にも残されているようなのですが、このときの鉄人が何者なのかはよくわかりません。しかし、全身鉄の鎧の軍勢となると、中東あたりから天山山脈やシルクロードの砂漠を越えて軍勢が攻めてきたのだろうかと想像してしまいます。大蔵谷からはるかシルクロードを想像するとは思いませんでしたが、こうした歴史が何気なくあるところが山陽沿線の面白いところですね。

大蔵谷へ

何だか稲爪神社で長くなってしまいましたが、引き続き、旧山陽道の風情を求めて大蔵谷を歩いてみたいと思います。

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