せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

北摂の城下町・三田を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて北摂の城下町の三田を歩いてみたいと思います。

高低差

平坦そうな印象の三田ですが、盆地に三田丘陵が舌のように張り出していて、意外と起伏に富んでいます。近世に九鬼氏が作った町ではこの高低差の上下で侍町町人町に分かれていたそうで、今まで歩いてきたのは町人町に当たります。

屋敷町

高低差の上に上がると屋敷町に出ました。武庫川沿いの町人町とは明らかに区画が大きく広々としています。白い塀が連なる景色はまさに屋敷町ですね。

三田市歴史資料収蔵センター

屋敷町の中はさらに細かい町に分かれています。その中にあったのが西薬師町三田市歴史資料収蔵センターです。なかなか興味深い施設ですが、平日のみの開館で訪問時は閉まっていました。

金心寺

この三田市歴史資料収蔵センターのある場所にはかつて金心寺という寺院がありました。地名の薬師とはこの金心寺のことを指しています。

現在の三田は近世に九鬼氏の作った町が基本ですが、そもそもはこの金心寺の門前町として形成されたと言われています。金心寺は白鳳7(678)年に創建されたとされる非常に古い寺院です。現在の金心寺は明治時代に市街地の西に移転していますが、かつてはこの屋敷町一帯に寺域をもつ大寺院だったと言われています。もとは松山庄と呼ばれていたこの地も金心寺の三福田に因んで「三田」と呼ばれるようになったとも伝えられていて、いわば三田のルーツのような場所ですね。

薬師と三田

金心寺のあったとされる場所を眺めてみました。ゆったりとした街並みに木々の緑が混じり合い、気持ちのいい景色が広がります。武庫川沿いの市街地ともニュータウンとも違う三田の姿を眺められたような気がします。

今回は三田のルーツを訪ねてみましたが、次回は城下町としての三田、そして、この町が近代日本に与えた影響について辿ってみたいと思います。

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北摂の城下町・三田を歩く(前編)

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夏の気配も感じるこのごろ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三田駅

神戸電鉄で到着したのは三田駅。三田というと山間の小さな町というイメージがあるかもしれませんが、近年の住宅開発で人口が急増し一気に発展しました。駅前には商業施設が建ち並んでいます。私の中では駅前に砂埃の舞うバスターミナルがあり、三田近郊や東条湖などに向かうバスがずらりと並んでいる光景が印象深いのですが、すっかり過去の景色となってしまいましたね。

武庫川

駅前から歩いて行くと武庫川を渡る橋に差し掛かりました。丹波篠山に流れを発する武庫川は、この三田の辺りではまるで下流域のようなゆったりとした流れです。しかし、これから武田尾の渓谷を刻み、大阪湾へと流れていくわけで、武庫川にとってはこの三田盆地は小休憩といったところでしょうか。

城下町の街並み

武庫川の対岸には古い市街地が広がっています。この通りは「魚の棚」と呼ばれているとのこと。明石の魚の棚を思い浮かべてしまいますが、普通の住宅地が続いています。かつては魚屋が軒を連ねていたのでしょうか。

盆地に開けた三田は古くから交通の要衝で、有馬郡の中心都市として栄えてきました。南北朝時代には赤松氏に領有され、中世から近世にかけて有馬氏九鬼氏の城下町となって近代を迎えます。

正覚寺

街中を歩いていると正覚寺という寺院を見つけました。鐘楼を頂いた山門がなんとも趣深い寺院です。

西方寺

さらに街中で見つけたのが西方寺という寺院。まるで城壁のような長屋門を構え、門と一体になった鐘楼も立派です。京都にあったら観光名所になっていそうですが、ここ三田では自然に街並みに溶け込んでいました。

三田の街並みを眺める

西方寺を少し引いてみると、こんな景色。
三田の街並みは決して有名なわけではありませんが、実に情緒がありますね。

三田をぶらりと歩いてみましたが、次回はこの三田の始まりに迫ってみたいと思います。

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花屋敷を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて宝塚の花屋敷に日本最初のトロリーバスを求めて歩いてみたいと思います。

新興住宅地を歩く

新花屋敷からさらに先の新興住宅地を歩くことに。新花屋敷にたどり着いたトロリーバスですが、実はこの先、山を越えた先の能勢電鉄多田駅まで延伸の計画がありました。

満願寺町

住宅地を歩いて行くと、満願寺という集落に着きました。多田延伸の第一ステップだったと言われているのがここ満願寺までの延伸と言われています。しかし、開業すらしていませんので、何の痕跡もなくのどかな集落が広がっています。ちなみに、余談になりますが、この満願寺町は川西市に属していて、周囲を宝塚市に囲まれた飛び地になっています。現在はバス路線のある宝塚市の花屋敷方面へのつながりが強い地域ですが、かつては川西市多田の領域だったそうで、そのまま川西市に属するようになったとのこと。豊中や池田などこの辺りにはやけに飛び地が多く、歴史的経緯を調べたりすると何日も寝られなくなってしまいそうです。

日本初のトロリーバスである日本無軌道電車が廃止になった昭和7(1932)年に京都市で初めての都市型のトロリーバスが運行を開始しました。その後、名古屋や大阪、東京など大都市にも次々とトロリーバスが開業し、いずれも戦後のモータリゼーションで廃止されていきましたが、戦前~戦後の都市交通の一翼を担っていくことになりました。その中で、日本初のトロリーバスであった日本無軌道電車は忘れられていくことになりました。

満願寺の山門

ここ満願寺まで来たので、ついでといったら失礼ですが、地名にもなっている満願寺を訪ねることにしました。決して有名ではない寺院ですが、山門の雰囲気からしてなかなかの趣でわくわくしてしまいます。この界隈は由緒あるものの知られざる寺院が多く、歩いていて楽しいエリアです。

由緒によると、満願寺は奈良時代に創建されたとされ、非常に古い歴史をもっています。平安時代には多田に所領をもち武士団を形成した源満仲が帰依したとされ、室町時代にも足利幕府の庇護を受けて発展しました。

満願寺の境内

新緑のトンネルになっている参道を抜けると満願寺の本堂にたどり着きました。現在は小ぢんまりとした山中の古刹ですが、かつては多くの僧坊や塔頭寺院をもつ大寺院だったそうです。何となくですが、以前訪れた太山寺に似た雰囲気を感じるのは同じ密教の寺院だからでしょうか。

満願寺より

満願寺の本堂から参道を振り返ると、むせかえるような新緑の山々が広がっていました。これからしばらく気候のいい季節が続きます。日本の都市交通のパイオニアを築き、そして、あっさりと消えていった日本無軌道電車とこの満願寺の新緑を訪ねて、花屋敷を歩いてみる小旅行はいかがでしょうか。

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花屋敷を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて花屋敷に日本最初のトロリーバスの跡を求めて歩いてみたいと思います。

万年坂

つつじガ丘を過ぎて待ち受けるのはさらに急な坂。この坂は万年坂と呼ばれているそうです。坂の途中のお地蔵さんはトロリーバスが運行している当時からあったそうで、トロリーバスとほぼ同じルートを走るバスを見守っています。

長尾台

万年坂を登りつめて到着したのが長尾台バス停。日本無軌道電車の終点・新花屋敷はこの付近にあったと言われています。

新花屋敷温泉

電車と違い、トロリーバスは一方向にしか進むことができないため、ここ新花屋敷には方向転換のためのループ線が設けられていました。「峠」と書かれた文字通り峠の茶屋のある場所には日本無軌道電車を運行していた新花屋敷温泉土地の本社があったと言われています。この周辺には温泉施設を中心に娯楽施設が建ち並び、周辺でも有数の観光地として賑わっていたそうです。

日本最初のトロリーバスとして生まれ、新花屋敷の温泉への足となった日本無軌道電車ですが、かなり乗り心地が悪かったそうで故障も多く、さらに花屋敷駅から歩いても知れている距離であったために利用は少なかったと言われています。そんな中、昭和恐慌によって観光客の足が遠のいたことでもともと少なかった利用者が激減、さらに運営会社の新花屋敷温泉土地の資金繰りが悪化したため、開業からわずか4年の昭和7(1932)年、日本無軌道電車は運行を休止しそのまま廃止となってしまいました。新花屋敷温泉土地も倒産し、今ではここに温泉施設があったのが信じされないような山間の集落と新興住宅地が広がっています。

待合室跡?

バス停前の空き地にはレンガ作りの建物のものらしき基礎の跡がありました。こちらが日本無軌道電車の待合室の跡と言われています。廃止後、トロリーバスの車両は公衆便所に転用され、さらに架線柱などの設備も戦後まで残されていたそうですが、今では何も残っていません。

あっさりと歴史のかなたに消えていった日本無軌道電車ですが、登場当初はさらなる夢がありました。次回はさらに日本無軌道電車の夢の跡を辿ってみたいと思います。

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花屋敷を歩く(前編)

投稿日:



新緑の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

トロリーバス

みなさんはトロリーバスという乗り物をご存知でしょうか。 見た目はバスですが、ガソリンエンジンではなく、電車のように架線から電気を取ってモーターで走る乗り物で、東ヨーロッパや中国などの都市でよく見られる乗り物です。日本でも大阪や京都などで導入されましたが、日本の都市には合わなかったのか、通常のバスに取って代わられ、現在は黒部アルペンルートに2路線が残るのみです。写真はチェコ共和国イフラヴァ市のトロリーバスです。どういうわけか、旧共産圏にはトロリーバスが今でも多く走っています。

雲雀丘花屋敷駅

そんな話をしながら到着したのが阪急電車の宝塚線の雲雀丘花屋敷駅です。駅と小さなバスターミナルが一体となっていて、ちょっと昔の郊外の駅の雰囲気が残っています。

花屋敷駅跡

雲雀丘花屋敷という長い駅名からわかるように、かつては「雲雀丘駅」「花屋敷駅」の2駅があったのが昭和36(1961)年に統合されて生まれた駅です。かつての花屋敷駅があったのはこの踏切付近と言われていますが、今は何の痕跡も残っていません。

花屋敷バス停

花屋敷駅跡から程なく、花屋敷バス停にたどり着きました。住宅地の中の何の変哲も無いバス停ですが、実はこのバス停からトロリーバスが走っていました。その名は日本無軌道電車。日本で最初のトロリーバスです。

日本無軌道電車は昭和3(1928)年に花屋敷から山中の温泉地だった新花屋敷までを開業しました。社名の無軌道電車とはトロリーバスの日本語で、現在でもそうですが法律上トロリーバスは路面電車と同じ軌道の扱いとなっています。ただし、日本無軌道電車が開業した当時はトロリーバスの立ち場を定めた法律はなく、なんと乗合自動車に分類されたとのこと。日本初ならではの苦労があったようです。

つつじガ丘

新花屋敷を出ると待ち受けるのは急な坂道。この付近にはつつじガ丘停留所があり、トロリーバスの交換設備があったそうです。なかなかの勾配で心が折れそうになってしまいます。振り返ると大阪平野の街並みと遠く紀伊半島の山並みを望むことができました。日本無軌道電車が開業した頃、既に自動車が一般的に使われていた。にも関わらず特殊なトロリーバスが採用されたのはこの急勾配にあったと言われています。この勾配は電車で登るにはきつすぎ、また、当時の自動車では非力でこの勾配を登ることができなかったそうで、より馬力のあるトロリーバスが採用されたそうです。

この先、日本で最初のトロリーバスが目指したのはどんなところだったのか。次回に続きます。

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