せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

市川の畔・阿成を歩いて(前編)

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梅雨の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

妻鹿駅

山陽電車の普通車が着いたのは市川の畔の妻鹿駅です。

甲山を眺めて

山陽電車の市川橋梁に並行して架かるのは歩道橋の「なかよし橋」です。橋の上からはかつて国府山城のあった甲山を眺めることができました。

市川の堤防を歩く

なかよし橋を渡って市川の右岸を歩くことにしました。川の向こうには甲山がそびえています。

「国府山城」のほかに「甲山城」「妻鹿城」とも呼ばれるこちらの城は中世の鎌倉時代の末~室町時代頃に妻鹿孫三郎長宗なる人物が市川河口近くの築いたものです。以来、妻鹿氏の居城となり、室町時代の半ばには赤松貞村の次男の居城となりました。この国府山城が注目されるようになったのは天正8(1580)年のことで、姫路城を居城としていた黒田官兵衛羽柴秀吉に姫路城を譲り、官兵衛本人と父・職隆とともにここ国府山へ移ったことでした。今回は訪ねませんが、この甲山には黒田官兵衛の城の名残が今も残されています。

鉄橋を渡る山陽電車

轟音に振り返ると、直通特急が市川橋梁を渡るところでした。

次回も市川に沿って歩いてみたいと思います。

姫路・長壁神社を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、「姫路ゆかたまつり」の開催間近の姫路の街を歩いてみました。

西二階町

立町長壁神社からお城の方へ歩くと、アーケードのある商店街と交わりました。こちらは西二階町商店街で、道路は姫路城下を貫く旧西国街道です。江戸時代、城下の建物は平屋に限られていましたが、この辺りは旧西国街道の本陣が設けられ、立町の長壁神社と播磨国総社を結ぶ道でもあったことから城下の中心的な街であったため、二階建ての建物を建てることが許されていました。そのことが地名の由来になったとされています。

西二階町の入口

西二階町商店街の入口も「姫路ゆかたまつり」の開催に向けて装飾が施されていました。この通りは東二階町、西二階町の他に「中二階町」という一角もありましたが、こちらは戦後に大手前通りが造られた際に道路になりました。

播磨国総社

東二階町を歩き、西国街道をはなれて北へ向かうと播磨国総社こと射楯兵主神社に着きました。

長壁神社

総社の境内にも長壁神社があります。

前回も見てきたように、長壁神社は姫路城内と城下の間を何度も遷っています。秀吉の姫路城の改築の際に最初に遷されたのがここ総社でした。池田輝政によって総社の長壁神社は城内に戻されますが、寛永16(1639)年に松平忠明が城主となると再び総社へ遷され、さらに慶安2(1649)年に榊原忠次が城主になると城内の社が再建され、城内と総社の二つの社が併存することとなりました。さらに、その後、「姫路ゆかたまつり」の由来となったとされる遷座祭で立町へ長壁神社が建立されることになりました。一方、こちらの総社の長壁神社は明治時代に姫路城内の社を遷したのが国道の建設工事で昭和2(1927)年にこの場所へ遷されたものです。

姫路城を眺めて

二つの長壁神社を訪ねて歩いてきましたが、姫路城の大天守の最上階にはもう一つ長壁神社があります。さらに、江戸時代中期に当時の城主の松平朝矩が前橋藩へ転封となった際、前橋にも長壁神社の分社が建立されました。この神社は今もあり、日本に4つもの長壁神社があることとなります。姫山に鎮座していた神社が歴史の流れの中で4つに分かれていったのはなんだか不思議な気がしますが、この神社が城主にも城下の人々にも大切に信仰されてきたことを表しているのでしょうか。

「姫路ゆかたまつり」に因んで姫路市内に複数ある長壁神社を巡ってみました。今日6月22日は立町長壁神社の例祭日で、間もなく姫路へ夏の訪れを告げる「姫路ゆかたまつり」が始まります。長壁神社の歴史に思いをはせながら、今年2023年に4年ぶりに開催される夏祭りを訪ねてみてはいかがでしょうか。

姫路・長壁神社を訪ねて(前編)

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夏の始まりの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路ゆかたまつり

姫路に夏の訪れを告げるのは毎年6月に開催される「姫路ゆかたまつり」です。長らく感染症の影響で開催がありませんでしたが、今年2023年は4年ぶりに開催が決まりました。そんな久しぶりの祭りに盛り上がる姫路の街を歩いてみます。

大手前通りの看板

山陽姫路駅前から姫路城へと伸びる大手前通りには長壁神社の案内看板が並んでいました。「姫路ゆかたまつり」は長壁神社の祭礼にちなんだ夏祭りです。

立町長壁神社

市街地の中に小さな神社が佇んでいました。こちらが「姫路ゆかたまつり」の由来となった長壁神社です。祭りの開催が迫り、賑やかに飾られています。

長壁神社に祀られているのは奈良時代の光仁天皇の皇子の刑部親王とその王女・富姫とされています。もともとは市内の姫山に社があったそうです。しかし、この姫山には姫路城が築かれ、秀吉の姫路城改築の際にこの社は城下へ移されてしまいました。江戸時代に入り、姫路城主となった池田輝政が病に倒れます。これが長壁神社を移した祟りであるとされ、神社は城内にも再建されました。その後、再び城下に移され、城内に再建されと移転を繰り返し、ここ立町に社が築かれたのは寛保2(1742)年のこと。城主をつとめていた榊原政岑越後高田へ転封される際、城内の長壁神社をこの場所にあった長彦寺(ちょうげんじ)に移して建立されました。遷座がおこなわれたのは夏至の6月22日で、この時の遷座祭が「姫路ゆかたまつり」の始まりとされています。

回り灯篭

長壁神社の前の交差点には回り灯篭が吊るされていました。

長壁神社の遷座祭は急に決まった祭礼だったため城下の町人の準備が整っていなかったところ、榊原政岑は裃の代わりに浴衣での参加を認め、走り馬の代わりに回り灯篭(走馬灯)を使ったとされています。ただ、長壁神社の遷座と祭礼が実際に行われたのは榊原氏の転封後だったそうで、祭りの期限には諸説あるようです。遷座によって城下で行われるようになった祭りに、榊原政岑を偲ぶ思いが結びついて、こうした伝説を生んだのかもしれません。

長源寺

立町長壁神社の近くには長源寺が佇んでいました。読みは長彦寺と同じ「ちょうげんじ」で、明治時代に無住になっていたものが大正時代に再建され、寺号を改めたものです。もともと立町長壁神社はこの長源寺の境内にありましたが、大正時代に再建された際に寺と神社で境内を折半して分かれたそうです。

4年ぶりに開催される「姫路ゆかたまつり」、歴史ある城下町の夏祭りの久々の開催で盛り上がる姫路の街をもう少し歩いてみたいと思います。

初夏の錦ヶ浦を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、初夏の魚住を歩いてみたいと思います。

住吉神社の楼門

魚住の住吉神社の境内の海側に佇んでいるのが楼門です。江戸時代前半の慶安元(1648)年に明石の和坂村山崎清左衛門なる人物によって建立されたもので、立派な造りが印象的ですね。

住吉神社の鳥居

楼門の向こうには参道が続いています。松林に囲まれた参道の向こうに佇むのは鳥居で、その向こうには播磨灘が広がっています。住吉神社の前の海は「錦ヶ浦」と呼ばれていて、錦ヶ浦へ向かって伸びる参道はここ魚住の印象的な光景です。

前回も見てきたように、ここ住吉神社の創建は神功皇后が三韓征伐へ向かう途中にこの地へ立ち寄ったことが由来とされています。その際、神功皇后がここで松の枝に衣を干したそうです。その衣が風に風にたなびいてまるで錦のように見えたことからこの地が「錦ヶ浦」と呼ばれるようになったと伝わっています。

錦ヶ浦を眺める

鳥居を通り抜けて、海辺へ出てみました。現在の住吉神社の前は漁港になっていて、多くの漁船が並んでいます。海の向こうには淡路島の山々が霞んでいました。

石灯籠と錦ヶ浦

鳥居の傍から錦ヶ浦を眺めてみました。土手には航路の安全を祈る常夜灯が建てられていました。この美しい別名はこの地が古くから景勝の地だったことを今に伝えているようですね。

もう少しこの景色を眺めていたいと思いましたが、電車の時間が迫って来たので魚住を後にすることにしました。住吉神社ではこれから紫陽花の季節を迎えます。梅雨の晴れ間には、花と海の景色に彩られた古社を訪ねてみてはいかがでしょうか。

初夏の錦ヶ浦を訪ねて(前編)

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梅雨の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽魚住駅

山陽電車で着いたのは山陽魚住駅です。

住吉神社

駅から浜国道を渡り、住宅街を歩いた先にあるのが住吉神社です。

住吉神社の境内

訪ねたのが休日ということもあって、住吉神社の境内は多くの人で賑わっていました。

播磨灘沿岸に住吉という名の神社は数多くありますが、こちらの住吉神社は特に歴史があり、起源ははるか古代に遡るとされています。神功皇后の三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨に遭ったために神功皇后の船はここ魚住へ避難しました。その際に住吉大神を祀ったところ、暴風雨がおさまり、船は進軍を続けることができました。その後、神功皇后は摂津へ住吉大神を祀る神社を築きますが、雄略天皇8(464)年に住吉大神の神託で播磨の地に勧請されたのがこの住吉神社です。

藤の花

境内は藤の名所として知られています。訪れた時は藤の花は終わりかけで、現在は紫陽花の花が見ごろを迎えている頃でしょうか。雄略天皇8(464)年の住吉大神の勧請の際、大藤を切って海に浮かべて神意を伺ったところ「この藤の枝の流れ着く処に、我を鎮祀れ」とお告げがあったとされています。その大藤が流れ着いたのが魚次浜(魚住浜)だったことがこの場所へ社を築いた由来だそうです。藤は住吉神社と縁の深い花なのでしょう。境内の藤は例年4月中旬~5月初めに見ごろを迎えるそうです。

能舞台

境内で目を引くのが松の絵が鮮やかなこちらの能舞台です。江戸時代の寛永4(1627)年に初代明石藩主の小笠原忠政が建立したもので、明石市の文化財に指定されています。訪れた時はちょうど琴の演奏会が開かれていました。こちらの能舞台では毎年5月に能楽の奉納がおこなわれていますが、使われている機会はそれほど多くありません。こうして舞台が使われているのを見られたのは貴重な光景でした。

新緑の眩しい住吉神社から、もう少し初夏の魚住を歩いてみたいと思います。