せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播州・斑鳩を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、太子町を歩いてみたいと思います。

硯橋

太子山を下りて、鵤の街を歩いてみます。街の中には埋もれるように橋の欄干があり、「硯橋」の名前が刻まれていました。かつてこの向こうには「中宮寺」という寺院があったようで、また奈良の斑鳩を思わせます。

斑鳩寺仁王門

突き当りには大きくて立派な門がありました。こちらは斑鳩寺仁王門です。

斑鳩寺の境内

仁王門をくぐると、広大な境内が広がっていました。

前回も歩いてきたように、ここ太子町の鵤は聖徳太子ゆかりの土地で、「鵤荘」と呼ばれる法隆寺が保有する荘園でした。創建は鵤荘となった推古天皇14(606)年とされていて、荘園の経営のために法隆寺が伽藍を建立したのが始まりとされています。

聖徳殿後殿

境内には立派な八角堂がありました。こちらは大正15(1916)年に建立された聖徳殿後殿です。

法隆寺の支院として栄えていた斑鳩寺ですが、室町時代の天文10(1541)年に守護大名の赤松氏と山名氏との戦いの際に堂宇は焼失。現在の建物はここから少し北側にあった篠山円勝寺の昌仙法師の発願や当時の龍野城主・赤松政秀の支援で順次再建されていったものです。再建後は天台宗の寺院となった斑鳩寺はその後も繁栄し、太子信仰の広まりもあって近世には巨大な伽藍と多数の塔頭寺院を持つ大寺院となりました。しかし、明治に入ると寺域は縮小していき、塔頭寺院も今は一つしか残っていません。

三重塔

境内で目立つのは三重塔です。こちらは室町時代に再建された際の永禄8(1565)年の建立とされています。

塀と三重塔

寺の東側に出てみました。
水路の向こうには立派な塀と先ほど眺めた三重塔がそびえています。

播磨にありながら法隆寺の荘園となり、今も奈良の影響を強く感じる鵤。その中に佇む斑鳩寺は風格ある姿を見せてくれます。秋のお散歩に姫路から足を延ばして訪ねてみてはいかがでしょうか。

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播州・斑鳩を訪ねて(前編)

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秋冷の候、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。



山陽姫路駅前から神姫バスで着いたのは難しい名前のバス停です。
この難しい漢字は「いかるが」と読みます。流石に読めないのか、バスの車内の表示では平仮名での案内でした。

大師堂

バス停から歩くと、山添いにお堂がありました。
こちらは大師堂です。

太子山

大師堂の裏手の山は太子山です。その名の通り、頂上には聖徳太子の立像がありました。今では公園となっている山ですが、かつては網干から龍野を経て新宮を結んでいた播電鉄道が鉄道の沿線だったこの地に遊園地を設けていたそうです。

この辺りは揖保郡太子町にあたります。「太子」の地名といい、バス停名にもなっている「鵤(いかるが)」といい、どこか聖徳太子とのつながりを感じますね。はるか古代の推古天皇14(606)年、推古天皇より播磨の土地を賜った聖徳太子はその土地を仏法興隆のために法隆寺に寄進しました。以来、この辺りは法隆寺の荘園「鵤荘」と呼ばれるようになりました。その後、近代に入ってもこの辺りは「斑鳩」と呼ばれていました。「太子町」となったのは戦後の昭和26(1951)年のことです。

太子山からの眺め

太子山からは「斑鳩」「鵤」と呼ばれている街を眺めることができます。

聖徳太子ゆかりの播州・斑鳩、次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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大仏への道・兵庫を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、兵庫を歩いてみたいと思います。

旧湊川

かつての西国街道を歩いていくと、新開地に差し掛かりました。今は面影はありませんが、かつてこの辺りには旧湊川が流れていましたが、流路が付け替えられた今は面影はありません。かつての「神戸」と「兵庫」は旧湊川によって分かれていましたが、流路の付け替えにより地続きとなり、中間には繁華街となる新開地が生まれました。

岡方倶楽部

阪神高速3号神戸線をくぐり、さらに西国街道を歩いていくと、立派な建物がありました。こちらは岡方倶楽部です。

この辺りはかつての「兵庫津」です。古くから港町として栄えていた兵庫は江戸時代には岡方、北濱、南濱の三つに分けられていました。このうちの「岡方」は海に接しない区域を指していて、この場所には総会所があったとされています。明治以降も「岡方」の呼び名は残り、兵庫の商人たちが昭和2(1927)年に社交場として西国街道沿いに設けたのがこの「岡方倶楽部」でした。
幕末の開港以降、神戸の中心は徐々に東へと移っていきましたが、それでも明治以降も依然として兵庫も港町として大きな存在感を持っていたことを伺うことができますね。

札場の辻跡

岡方倶楽部からさらに歩くと「札場の辻跡」に差し掛かります。ここで西国街道は曲がり、柳原の方へと向かっていきます。かつてのこの辺りは兵庫の中心街で、近世には人通りの多い街道沿いに幕府の高札場が設けられていました。今では企業が建ち並んでいますが、港湾に関係する企業も多く見かけ、港町の賑わいを今も感じることができます。

能福寺

西国街道から少し外れた場所には能福寺がありました。

兵庫大仏

能福寺は平安時代の延暦24(805)年の建立とされる古刹ですが、ここで知られているのは兵庫大仏こと毘廬舎那仏像ですね。こちらの大仏は兵庫の豪商・南条荘兵衛が明治24(1891)年に建立したものが始まりです。戦時中には金属類回収令により解体されてしまいますが、平成3(1991)年に現在の仏像が再建されています。

明治以降は神戸に港町の機能が移っていった印象が強いかと思いますが、西国街道沿いに兵庫を歩いていくと、明治以降の港町の繁栄を今に伝えるものを数多く見かけることに気づかされます。
お散歩にも適した季節になってきた今、近代の兵庫を訪ねて歩いてみませんか。

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大仏への道・兵庫を歩いて(前編)

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秋も深まりつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

高速神戸駅

今回降りたのは高速神戸駅です。
あまりイメージがないかもしれませんが、高速神戸駅の地上にはこんな和風建築のような出入り口もあります。

湊川神社

出入り口のすぐそばには湊川神社があります。

湊川神社は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将・楠木正成を祀る神社です。楠木正成は南北朝の戦いで南朝の後醍醐天皇方につき、足利尊氏らと戦いましたが、延元元・建武3(1336)年の湊川の戦いで敗れて自害しました。ただし、その後も忠臣として高く評価され、明治時代には「大楠公」と称されるようになりました。そんな楠木正成を祀る神社が建立されたのは明治13年のことで、意外と最近です。

御墓所

境内の南東には楠木正成の墓所がありました。

徳川光圀公銅像

墓所の中には水戸黄門こと徳川光圀の銅像がありました。なぜ徳川光圀が?と思ってしまいますが、楠木正成が自害してからずっと時代が下った江戸時代の元禄5(1692)年にこの地へ家臣を遣わして楠木正成の墓碑を建立し、表面には光圀の筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が刻まれました。このことが楠木正成のさらなる評価につながり、この地に神社が建立されることになったきっかけの一つとも言われています。

西国街道

湊川神社の浜側、JR神戸駅の近くまで歩くと、市街地が広がっています。
市街地の中のこちらの道、実はかつての西国街道です。

次回は湊川神社の門前から西国街道を辿って歩いてみたいと思います。

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異人館と港・網干を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、網干を歩いてみたいと思います。

旧網干銀行

網干の市街地で目立つのが、緑色のドーム屋根が印象的なこちらの建物です。
こちらはかつての網干銀行網干町支店です。

揖保川の舟運と瀬戸内海航路の結節点だった網干は古くから港町として栄えていました。物資の集散地として栄えたことを背景に、網干銀行が創業したのは明治時代のことで、この建物が建てられたのは大正11(1922)年のことでした。昭和に入り網干銀行が三十八銀行(後に合併して神戸銀行)に合併されるまで、本店級の扱いでしたが、戦後に店舗が山陽網干駅前に移転し、その後は商店として利用されていました。数年前に商店は閉店しましたが建物はリニューアルされ、今はレストランとして営業しています。

旧網干銀行を眺める

間もなく築100年になろうという建物は重厚ながら優美な装飾も施されていて、非常にシンボリックです。

かつての塩田は

網干の市街地を抜けて海側に出ると工業地帯が広がっていました。
かつてこの辺りには塩田が広がっていました。

ダイセル異人館

工業地帯の中に公園のような一角がありましたその中には小さな洋館があります。
こちらはダイセル異人館です。

網干の海側一体に日本セルロイド人造絹糸(今のダイセル)が工場を設けたのは明治42(1909)年のこと。以後、工場は拡張し、今では網干の海側一体に広大な敷地が広がっています。この異人館は明治43(1910)年に、工場の技術指導のためにドイツ、イギリス、スイスから赴いた計6名の外国人技術者の宿舎として建てられたものです。緑色が鮮やかなこちらは資料館として使用されていますが、感染症対策のために今は公開が休止されています。

衣掛クラブ別館

ダイセル異人館と並ぶように建つ洋館が衣掛クラブ別館です。こちらもダイセル異人館と同様に外国人技術者の宿舎として建設されました。こちらは一般には公開されていませんがピンク色の壁に赤い屋根はかわいらしくて印象的ですね。

ダイセルの敷地

ダイセルの創業100年を記念して整備された敷地は異人館の存在もあってどこか異国情緒が漂っています。

物資の集散地として栄えた近代まで、そして、工業地帯として近代から現代に発展していった網干。網干を代表する洋館はこの街の移り変わりを象徴しているようでした。

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