せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

有馬温泉に秀吉と官兵衛の足跡を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、有馬温泉を巡ってみたいと思います。

天神泉源

温泉街の路地を歩いて行くと、温泉街を見下ろす天神泉源にたどり着きました。
有馬の街中には多数の泉源があり、こちらはその一つ。その名の通り、有馬天神社の境内にあります。もくもくと噴き出す湯気がいかにも温泉地と言う感じですね。

温泉寺

天神泉源から古い建物が建ち並ぶ複雑怪奇な路地を通り抜けて温泉寺にたどり着きました。
こちらの寺院は神亀元(724)年に行基が開いたと言われ、古い歴史を持っています。観光案内などでは「温泉寺」となっていますが、正式な名称は「温泉禅寺」といい、黄檗宗の禅宗寺院です。

古い歴史をもつ有馬温泉ですが、幾度となく存亡の危機にさらされました。前回紹介した慶長伏見地震もその一つです。
そのほかに、この温泉寺に伝わる縁起によると、承徳元(1097)年に大規模な土砂災害があり、有馬の街は壊滅。以後、100年近くの間、街は消滅してしまったと言われています。この有馬を再建したのが大和国吉野郡川上村の高原寺の僧・仁西でした。熊野権現の導きで土砂に埋まった温泉を発見した仁西は十二の宿坊を開き、川上村の平家落人を招いて経営させました。これが現在に残る温泉宿「有馬十二坊」の始まりと言われています。
ただし、仁西は記録が非常に少ない上に、当の川上村には高原寺という寺院も存在せず、謎の人物とされています。また、実際の記録で「坊」とつく旅館が現れたのはこの仁西の話の200年以上後の室町時代中頃ということで、この話の信憑性は薄いとの説もあるとのこと。

太閤の湯殿館

温泉寺の奥には極楽寺という寺院がありました。この寺院の境内には「太閤の湯殿館」という博物館があり、館内では阪神淡路大震災の際に倒壊した極楽寺の庫裏の下から発見されたという「湯山御殿」の遺跡を観ることができます。

有馬温泉を気に入り、幾度となく湯治に訪れた豊臣秀吉慶長伏見地震の際に湧出した新たな泉源に湯山御殿の造営を始めました。まさに「御殿」というような贅を尽くした建物だったそうですが、病に倒れた秀吉は湯山御殿の完成を見ることなくこの世を去りました。以後、1995(平成7)年の阪神淡路大震災後の発掘まで御殿は幻の存在となりました。館内で秀吉がついに入ることのなかった岩風呂の遺構を見下ろすと、何だか考えさせられるものがあります。

太閤の湯

温泉街の外れには「太閤の湯」という日帰り温泉施設があり、館内には湯山御殿の岩風呂を模した温泉があります。「太閤の湯殿館」で遺跡を見た後にこの温泉に入ると何だか妙な気分になってしまいますね。

官兵衛古道

「太閤の湯」の前庭には「官兵衛古道」なる遊歩道がありました。「太閤の湯」のリニューアルに際して設けられたそうで、歩道上には黒田官兵衛ゆかりの地名がつけられています。

有岡城!?

ちょっと驚くのが「有岡城」。なんと、官兵衛が幽閉された有岡城の土牢が再現されていました。この土牢から脱出した官兵衛は有馬温泉で体を癒したそうです。有馬温泉の効果があれば十分完治できるはずでしたが、三木合戦の報を聞いた官兵衛は温泉を飛び出し、戦場へ馳せ参じていきました。完治しなかった左足は曲がったままとなってしまいます。

再び温泉街を歩く

夕暮れ、温泉街へと戻ってきました。
観光客がそぞろ歩く中、過去から現代まで、多くの人を癒してきた有馬温泉を後にすることにしました。

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有馬温泉に秀吉と官兵衛の足跡を訪ねて(前編)

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秋らしく肌寒くなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
温もりの恋しくなってきたこの頃、有馬温泉を訪れてきました。

神戸電鉄有馬温泉駅

電車を乗り継いで到着したのは神戸電鉄の有馬温泉駅
ガラス張りの建物は温泉地らしからぬ現代的な雰囲気ですが、 二階には茶室「有大庵」があり、実は和風な駅です。

有馬温泉は「日本三大古泉」の一つと言われ、非常に古い歴史を持っています。温泉が発見された時期は詳しくわかっておらず、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)という神が見つけたとも言われています。飛鳥時代以降には天皇が入浴したとの記録がいくつも見られ、この時代には既に温泉地として知られていたことが分かります。その後、行基仁西といった僧侶が寺院や宿坊などを整備し、温泉地としての体裁が整えられていきました。

太閤橋

有馬温泉駅から交通量の多い道を歩いて行くと、有馬川のほとりに出ました。
川に架かるのは「太閤橋」
以前は「太古橋」という名前だったのですが、平成13(2001)年にリニューアルされて「太閤橋」という名称に変更されました。

秀吉像

太閤橋のたもとにある公園に行ってみると、豊臣秀吉の晩年の姿を表した像がありました。穏やかな視線の先に目を移してみると、有馬川にかかる赤い橋が見えました。

ねね橋

赤い橋は「ねね橋」
平成8(1996)年にできた新しい橋ですが、有馬川の景色に何だか合っているような気もします。 橋のたもとには秀吉の正室・ねねの像がありました。太閤橋の秀吉像はこのねね像を見ていたようです。

中世には全国有数の温泉地として整えられた有馬温泉ですが、1500年代に二度の大火に見舞われ、温泉街を見下ろす落葉山に城があったことから戦の舞台ともなり、荒廃しました。極めつけは文禄5(1596)年の慶長伏見地震です。建物等の被害だけでなく、この地震の影響で温泉の温度が上昇し、有馬温泉は致命的なダメージを受けました。
荒廃した有馬温泉の再建に協力したのが秀吉でした。
建物の再建だけでなく、湧出温度が上昇してしまった泉源の改修を行い、名実ともに有馬温泉を見事によみがえらせたのです。なお、有馬ではこの秀吉の改修以降、泉源の改修は行っていないそうです。

温泉街を歩く

秀吉の話が長くなってしまいましたが、まだまだ温泉街に入ったばかりです。
先を急ぐことにしましょう。
次回は、さらに秀吉と有馬温泉の関係に迫ってみます。

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知られざる「明石城」を求めて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、船上城とその城下町を歩いてみたいと思います。

密蔵院

城跡から南東に向かうと、大きな寺院の屋根が見えてきました。
こちらは密蔵院という寺院。
平安時代の延喜4(904)年に創建された寺院と伝えられ、船上城があった頃は城下町の中にありました。かつては多くの堂宇が立ち並び、非常に栄えたそうですが、 昭和20(1945)年7月の明石大空襲によって焼失してしまいました。現在の建物は昭和51(1979)年に再建されたものです。
ちなみに、境内には天ぷら油をかけて願掛けをする「油掛地蔵」なるお地蔵さんがあります。

望海浜公園

密蔵院の前に広がるのは「望海浜公園」です。
この辺りが船上城の南端に相当し、土塁が築かれていました。 土塁の向こうには港があり、瀬戸内海を行きかう船が停泊し賑わっていたようです。
この土塁は近年まで残っていたということなので、しばし、公園の中を探してみたのですが、見つかりませんでした。
ちなみに、この公園は古くから景勝地として知られていて、江戸時代に明石城主を務めた 松平直明はこの地に「望海亭」なる茶室を設け、景色を楽しんだそうです。

宝蔵寺

望海浜公園から北西へ向かい、再び船上城の城下町へ戻ることしました。
石畳の敷かれている路地を歩いて行くと、本瓦葺きの寺院が現れました。
こちらは通称「林の毘沙門さん」と呼ばれる宝蔵寺という寺院です。
密蔵院と同じく船上城の城下町にあり、さぞ栄えたのであろうと思いきや、船上城のあった一時期には空き家となっていたようです。
船上城を築いた高山右近は大河ドラマでも触れられたように、熱心なキリシタンでした。右近が前任地の高槻で仏教徒をキリスト教に改宗させてきたことに警戒感を覚えた宝蔵寺の僧侶たちは右近の排斥を図りますが、逆に処罰され、江井ヶ島へ逃れることになりました。空き家となった宝蔵寺はキリスト教の教会として使用され、宣教師たちが住んでいたとのこと。仏教の寺院に戻ったのは右近が追放された後の事でした。
寺には今も隠れキリシタンが礼拝に使ったとされる「マリア観音の十字架」が保存されています。

高砂道

宝蔵寺の前の道路は山陽道より海側のルートで明石と高砂を結ぶ「高砂道」と呼ばれる街道でした。今は住宅が建ち並んでいますが、かつてはこの道路沿いが船上城の中心だったと言われています。不自然に曲がった「鍵辻」が城下町の風情を今に伝えています。

政治と経済の中心として栄えた船上城とその城下町ですが、中世都市の定めと言うべきか、近世に入ると消えていくことになります。
元和3(1617)年に明石郡を与えられた小笠原忠真は当初船上城に入りますが、将軍・徳川秀忠の命ですぐに新城の建設に取り掛かりました。この新城が現在に残る明石城で、船上城は明石城と入れ替わりに元和5(1619)年に廃城となりました。高山右近が城を築いてからわずか33年のことです。ちなみに、船上城の建物の一部は明石城で再利用されていて、今でも巽櫓などでその姿を見ることができます。

山陽電車と踏切

北へ向かうと山陽電車の新しい高架橋が見えてきました。
この景色が見られるのもあとわずかの間。中世から現代へと大きく変貌した街は、さらに変化の時を迎えようとしているというべきでしょうか。
かつて「明石城」と呼ばれた城と城下町に思いを馳せながら帰路につくことにしました。

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知られざる「明石城」を求めて(前編)

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朝晩はめっきり寒くなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

前シリーズでは明石城とその周辺を歩いてみました。
しかし、実は、明石には今に残る明石城ができる以前にも「明石城」と呼ばれた城がありました。今回はそんな知られざる「明石城」を求めて歩いてみたいと思います。

西新町駅

スタートは山陽明石駅の西隣の西新町駅。
現在は「山陽電鉄本線明石市内連続立体交差事業」の第二期工事のために仮駅舎になっています。
駅のすぐそばには巨大な高架橋がそびえ立っていて、”新”西新町駅らしい構造物も姿を現していました。数年後にはこの周辺の景色は一変していることでしょう。

旧山陽道

西新町駅の東には国道2号線の仮橋と仮踏切があります。
山陽電車・国道と斜めに交差するのは旧山陽道
山陽電車がこの踏切を行きかう光景も間もなく過去の景色となります。

船上城

西新町駅から住宅地の中を歩いていくと、街中にぽっかりと田んぼがありました。
稲刈りが終わった田んぼは何だか寂しげですが、その真ん中には鬱蒼と茂る森がありました。
この森が別名「明石城」と呼ばれた「船上(ふなげ)城」の天守台の跡と言われています。

船上城は天正14(1586)年、秀吉の四国征伐の後に行なわれた所領替え「天正の国替え」で高槻城主だった高山右近が明石郡を与えられたことから始まります。右近は一旦、現在の神戸市西区にあった枝吉城(ちなみに、この城も別名「明石城」と呼ばれます)に入った後に、明石川の河口付近へ新しい城と城下町を築きました。それがこの船上城です。今に残る明石城よりも100年も前に、この地に大きな城と城下町があったのです。
その後、熱心なキリシタンだった右近が「バテレン追放令」によりフィリピンのマニラへ追放されてから、この地域は秀吉の直轄領となります。船上城には秀吉配下の城番が置かれたものの、城主は不在となります。しかし、この時期、船上城の城下町は瀬戸内海を航行する船が立寄る港町として非常に栄えたようです。

天守台へ

田んぼのあぜ道を歩いて天守台跡へ上ってみました。
当時はかなり大規模な城郭があったようですが、今に残る天守台は意外なほどの狭さです。かつてはそれなりの広さがあったそうですが、徐々に田んぼに浸食されていったようです。木々の中に「古城大明神」なる神社が佇んでいました。

堀の跡?

天守台跡の近くにはその名も「古城川」という名前の川が流れていました。
この川は船上城の堀跡と言われています。
この堀の南西には船上城の城郭と瀬戸内海航路の中継港として栄えた城下町が広がっていました。
次回は船上城の城下町を探ってみたいと思います。

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城下町・明石を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、明石の街を歩いてみたいと思います。

柿本神社

天文科学館の裏から石段を上ると柿本神社に到着しました。
天文科学館ができる前はこの柿本神社と明石城が明石のランドマークでした。
今でも、山陽電車の車窓などからは結構目立つ存在です。

柿本神社は飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂を祭った神社です。古くは「人丸神社」、通称「人丸さん」と呼ばれ、山陽電車の人丸前駅の駅名もこの神社に因んでいます。
柿本人麻呂の経歴はあまりわかっておらず、生没年等も不明です。ただし、すぐれた歌が現代にも伝わっていて、平安時代の和歌の名人・三十六歌仙に数えられています。
この地に人麻呂を祭る神社が建立されたのは仁和3(887)年と言われ、今もこの神社の隣に佇む月照寺の覚証という僧侶が人麻呂の墓とされる塚の上に祠を設けたのが始まりとされています。ただし、どうも、この辺りが諸説あるようで詳しいことはわかっていないようなのですが、いずれにしろ、この神社は明石に街が生まれるはるか以前からこの地を見下ろしていたのです。

亀の水

柿本神社から人丸山を下ると、「亀の水」と書かれた水場を見つけました。
こちらは江戸時代から湧き出す水場で、「明石の名水」と呼ばれています。当初は柿本神社の手水として設けられていたそうです。

明石城へ

「亀の水」から明石駅を経て辿り着いたのが明石城。明石のシンボルのお城です。
記事の取材時にはなかったのですが、10月7日から幻の天守閣がイルミネーションによって現れるイベント「明石城イルミネーションプロジェクト」が開催されています。関心のある方は是非どうぞ。

小笠原氏によって整備された明石の城下町とお城ですが、その後、江戸時代の初期にかけて諸般の事情から頻繁に城主が変わります。しかし、天和2(1682)年、城主だった本多氏が陸奥岩瀬藩へ転封となったのちに越前から移ってきた松平直明が城主となってからは安定することとなり、松平氏が治めるまま明治維新を迎えることになります。明治維新後の廃城例で廃城となりますが、その後、明石公園として整備され、現在は市民の憩いの場となっています。

坤櫓

訪問時はちょうど坤櫓が公開中でしたので、中を拝見することに。
こちらの坤櫓は京都・伏見城から移築された建物とされ、 唐破風の上に千鳥破風を重ねた珍しい造りです。破風の格子が朱塗りで、豪華な造りだったことを偲ばせます。明石城には天守閣が設けられなかったとのことで、この坤櫓が天守閣の役割を果たしたと言われています。

城跡からの眺め

城跡からは明石駅と明石の街並み、淡路の山並みが一望できます。
今となってはここ明石にお城と町がここにあるのが当たり前のようになっていますが、前回、少し触れたように明石城とその城下町がこの地に生まれたのはこの人丸山のおかげです。
では、もともとのお城はどこにあったのか…?

明石城、その前について迫ってみたいと思いますが、それはまた改めての機会にします。

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