こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、亀山を歩いてみたいと思います。
亀山本徳寺
亀山本徳寺の境内に入ります。
広々とした境内に聳えるのは巨大な本堂で、こちらは兵庫県内最大の仏堂とされています。元々の本堂は幕末の安政2(1855)年に地震で損壊し、修復中だったものが明治元(1868)年に火災で焼失、現在の建物は京都・西本願寺の北集会所を移築して本堂としたものです。
播磨にはかつて英賀御坊と呼ばれる寺院がありました。山陽電車の網干線の西飾磨駅から夢前川駅にかけてのエリアに英賀城とその城下町が築かれ港町として栄えていましたが、永正12(1515)年に城下に英賀御坊が建立されたことで寺内町としての性格も持つようになり、播磨における浄土真宗の拠点として非常に栄えていました。今の亀山御坊は英賀御坊がこの地に移ったものです。
本堂
本堂に上がることができました。
堂内には涼しい風が吹き渡り、真夏の日差しが降り注ぐ外がまるで別世界のようでした。
新撰組入刀跡柱
本堂は京都にあった頃、新撰組が屯所として使用していて、堂内には新撰組が付けたとされる刀傷のある柱がありました。
太鼓楼
境内にある太鼓楼はまるで城の櫓のような姿です。この太鼓楼自体は近世に再建されたものですが、このような姿をしているのは城郭のように見張り台を置いていた寺内町の姿を今に引き継いだものと言われています。
中世に非常に栄えた英賀でしたが、天正8(1580)年に秀吉の手によって英賀御坊がここ亀山に移転。後に英賀は秀吉の攻撃を受けて英賀城は落城、城と寺を失った英賀は都市としての機能を失っていきました。一方の亀山御坊はというと、本願寺の東西分裂の中で当時の姫路城主の池田輝政の影響で西側の本願寺派となりました。江戸時代の元和4(1618)年には大谷派が当時の城主・本田忠政に訴え、亀山御坊から分裂。姫路城下に船場御坊こと姫路船場別院本徳寺が建立され、現在に至っています。
長屋門
亀山御坊の裏手には立派な長屋門がありました。
踏切と水路
長屋門沿いに歩くと、勢いよく水の流れる水路がありました。向こうには山陽電車の踏切があり、ちょうど電車が通過していきます。
波乱の歴史を辿ってきた亀山御坊。今は亀山の地に静かに佇んでいます。
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