せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

生駒山地の麓・石切を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて、生駒山麓の石切を歩いてみたいと思います。

生駒山地への道

石切劔箭神社
から石切駅の方へ戻り、途中から山の方へと向かってみます。
参道の賑わいからは離れて、まるで静かな山里のような景色が続いています。

石切劔箭神社上之社の鳥居

坂道の先にあったのは鳥居。こちらは先ほど訪ねた石切劔箭神社上之社です。

上之社の石段

鳥居の奥には石段が続いています。木々に囲まれた空間に石段が続く光景はどこか厳かな雰囲気ですね。

石切劔箭神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)とその御子の可美真手命(うましまでのみこと)の二柱です。神話では、饒速日尊は神武天皇の東征に先立って天磐船に乗って哮ヶ峰(生駒山)に着きます。当時鳥見の里(とみのさと)と呼ばれていた河内と大和に先住していた鳥見一族と呼ばれる人々を饒速日尊は従え、河内と大和を治めるようになりました。

石切劔箭神社上之社の境内

境内は先ほど訪ねた本社と比べると小ぢんまりしていますが、山の中の神社らしい雰囲気です。

神話では、饒速日尊の死後、神武天皇がこの地に攻め入りますが、息子の可美真手命が「天羽々矢」を神武天皇へ差し出して天照大神の子孫であることを示し、可美真手命と鳥見一族は神武天皇へ従うようになったとされます。のちに可美真手命は生駒山中に饒速日尊を祀る祠を建てたそうで、これが石切劔箭神社の始まりとされています。この祠は今も元宮として山中に残されているようですが、祭祀の中心は山麓の上之社や本社へ移ったそうです。

石段から眺める

石段の上から麓を眺めてみました。
木々の間からは大阪平野の街並みを望むことができます。

縁日のような参道を歩くと、はるか神話の時代まで遡る古社が迎える石切の地。少し足を延ばして訪れてみませんか。

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生駒山地の麓・石切を歩いて(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、少し足を延ばし、生駒山麓の石切を歩いてみたいと思います。

石切劔箭神社

賑やかな門前町を通り抜けると、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)に着きました。境内への入り口には絵馬殿がそびえています。

境内へ

絵馬殿をくぐると、本殿へ向かって参道が伸びています。

石切劔箭神社の創建時期は記録が焼失してしまったために詳しくはわかっていないそうですが、はるか古代に遡るともいわれています。祭神の饒速日尊は神武天皇の東征の際に功績あったとされ、もとは生駒山中に祀られていました。現在はでんぼ(腫物)の神様とされていて、近隣だけでなく関西の各地から多くの人が参拝に訪れています。

石切劔箭神社の境内

境内は多くの参拝客で賑わっていました。この神社で特徴的なのは本殿と百度石の間を往復する百度参りで、この時も参拝客が列をなして境内を往復する姿が見られました。

境内を歩く

本殿の奥には社務所や穂積殿という建物が連なっています。複雑に入り組んだ建物が渡り廊下で結ばれていて、ちょっと不思議な空間に迷い込んだような気分になります。

生駒山麓の街中に佇む古社・石切劔箭神社、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

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生駒山地の麓・石切を歩いて(前編)

投稿日:



紅葉もそろそろ見ごろになってきた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

石切駅

神戸三宮
から阪神なんば線を経由して、近鉄奈良線の電車に乗りました。大阪の街を通り過ぎ、瓢箪山を通過すると、電車は大きなカーブを描いて生駒山地へと挑んでいきます。電車が到着したのは新生駒トンネルの手前の石切駅。この駅の次は奈良県の生駒駅です。

石切

石切に駅ができたのは大正3(1914)年の今の近鉄奈良線の前身の大阪電気軌道が大阪と奈良を結ぶ路線を開業させたときのことで、開業当初の石切千手寺前駅はこの看板の向こう辺りにあったとされています。

石切の門前町

かつての駅跡からは商店街が続いています。こちらは石切剣箭神社の門前町です。門前町は神社に向かって上り坂になっていることが多いのですが、ここ石切では下り坂になっていて、少し不思議な雰囲気ですね。

古い地形図を見ると、この辺りには生駒山の興法寺への道と社寺、そして、川沿いにたくさんの水車がある様子がわかりますが、今のような街並みの姿はありません。今のような商店街ができたのは先ほど訪ねた石切千手寺前駅がこの地に開業してからです。麓にある石切剣箭神社への参道とするために道の拡幅をおこない、やがて道沿いに商店が建ち並ぶようになりました。独特な雰囲気のあるこの門前町は駅とともに発展してきたのですね。

石切大仏

参道の途中に大仏が佇んでいました。こちらは製薬会社が昭和55(1980)年に建立した石切大仏です。

賑やかな門前町

神社が近づいてくると、だんだんと賑やかな雰囲気になってきました。飲食店からは香ばしい匂いが漂い、まるで縁日のような雰囲気です。

生駒山地の麓に門前町が続く石切。次回は石切剣箭神社を訪ねてみたいと思います。

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薬の街・道修町を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪・船場の道修町を歩いてみたいと思います。

道修町

道修町に建ち並ぶ製薬会社には様々な資料が展示されています。
この街が現在のような薬の街になったのは江戸時代の初めの寛永年間に堺の商人の小西吉右衛門なる人物が薬種問屋を開いたことが始まりとされ、享保7(1722)年には当時の将軍・吉宗が薬種問屋を株仲間として特権を与え、さらに薬の街として発展していきます。政治・経済の中心が東京に集中した今も、大阪や関西に本社を置く製薬会社が多いのは、道修町があったからなのかもしれませんね。

神農さん

道修町を歩いていると、一角のビルに「神農さん」という文字とともに張り子の虎のイラストの描かれた看板がありました。

少彦名神社

こちらのビルにあるのは少彦名神社です。

少彦名神社は少彦名命(すくなひこなのみこと)と神農炎帝(しんのうえんてい)を祀る神社です。少彦名命は日本、神農炎帝は中国の神ですが、いずれも医薬の神とされています。先ほどのビルの看板の「神農さん」は神農炎帝にちなんだ通称ですね。道修町に医薬の神を祀る社が建てられたのは江戸時代の安永9(1780)年のことで、当時、既に薬の街となっていたこの地に、やはり医薬の神の京都・五條天神社より少彦名命を勧請したのが始まりです。

少彦名神社の境内

ビルの合間に社がありました。広くはありませんが、香の匂いが漂い、どこか厳かな気分になります。

神農祭

少彦名神社では毎年11月22・23日に例大祭の「神農祭」が執り行われています。この祭礼の始まりは江戸時代の終わりの文政5(1822)年のこと。当時流行していたコレラに対し、道修町の薬種商が「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り、お守りの張り子の虎とともに神前で祈願したうえで施したことが始まりとされています。現在は丸薬の配布は行われていませんが、張り子の虎は現在も神農祭のお守りとして、授与されています。

旧小西家住宅資料館

少彦名神社から堺筋を挟んだ向こうに和風建築が佇んでいました。こちらは旧小西家住宅資料館で、コニシの本社として使われていた建物でした。現在は接着剤で知られるコニシですが、もとは道修町の薬種商として発展した会社でした。大阪の都心にあり、変わりゆく街並みに佇む和風建築は、近世・近代の道修町の風情を今に伝えるようです。

まだまだ油断はできない状況ですが、気候の良い時期になりお出かけ気分が盛り上がってきましたね。お天気の良い日には、少し遠くの街を歩いてみてはいかがでしょうか。なお、電車バスをご利用の際は感染症対策にご協力ください。

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薬の街・道修町を歩いて(前編)

投稿日:



立冬を過ぎ、いよいよ冬の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

淀屋橋駅

緊急事態宣言解除後、久しぶりに遠出をして、大阪へやって来ました。
大阪梅田から御堂筋線に乗り換えて着いたのは淀屋橋駅です。
風格あるビルの一角に、趣ある「地下鉄」の表記があります。

御堂筋

駅前を通るのは御堂筋です。
南向き一方通行の大阪のメインストリートですね。街路樹のイチョウはもう少しすれば金色に染まることでしょう。

道修町

淀屋橋駅から南に少し歩いたところで東西の道に入ると、オフィスビルの建ち並ぶ御堂筋とは違った趣の景色が広がります。この辺りは道修町と呼ばれる一角です。

道修町は大阪・船場の町のひとつで、御堂筋を挟んで東西に広がっています。不思議な地名には諸説があるようで、はっきりとはわかっていませんが、オフィスと昔ながらの建物が並ぶ独特の景色が広がっています。この街は、江戸時代から「薬の街」として知られています。その名残で、今も多くの薬品会社が建ち並び、大手製薬会社もこの地に本社を構えているところがあります。

大阪薬科大学発祥の地

オフィスの建ち並ぶ一角に「大阪薬科大学発祥の地」の碑がありました。現在は大阪医科大学の薬学部となった大阪薬科大学の前身の「大阪道修薬学校」は、明治37(1904)年に日本初の薬学専門学校として、ここ道修町に開設されました。現在、キャンパスは高槻に移転していますが、今も学校があった場所には記念碑が残されています。

感染症の流行で医療が注目されている今だから…というわけではありませんが、次回ももう少し道修町を歩いてみたいと思います。

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