せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

姫路・野里地区を歩く(前編)

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雨続きのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城を望む

今回訪れたのは姫路
展望デッキからは先月グランドオープンしたばかりの姫路城を望むことができます。
オープンして間もない今は大変な混雑のようで、歴史散策はもう少し落ち着いてからとしましょう。

バスに乗って

神姫バスターミナルからバスに乗って姫路城の北東へ向かうことにします。
神姫バスターミナルも今月オープンしたばかりで、のりばには真新しい案内表示器が設置されています。

野里

バスで10分少々で到着したのは慶雲寺前という停留所。この辺りの地名は「野里」で、「野里寺町」「野里大和町」といった住所がつけられています。

野里寺町

バス道から一本東の道に入ると、写真のような景色が広がります。この通りは旧野里街道とされ、沿道には城下町らしい建物が残っています。

野里の名前は『播磨風土記』に見られる「大野里」に由来するとされ、中世には「野里村」が成立しました。但馬街道が通っていたことで交通の要所として栄えたほか、北の随願寺(播但線砥堀駅北西の山にある寺院)の門前町としても繁栄したと言われています。
慶長6(1601)年から始まった池田輝政の姫路城改修では、野里村の南部は外堀の中となり城下町に組み込まれ、残りの野里街道沿いの地区も外町として整備されました。

大野家住宅

旧野里街道を北に歩くと現れたのが虫籠窓が立派なこちらの住宅。
案内図には「大野家住宅」 とあります。この大野家は元禄時代より鋳物屋を営んでいたそうで、今に残る建物は江戸~明治時代のものと言われています。野里地区には古くから職人が多く住み、特に鋳物産業が盛んでした。この地で作られた鍋は「野里鍋」「播磨鍋」と呼ばれて播磨の特産物として全国に知られており、大阪の陣のきっかけとなった京都・方広寺の鐘もここ野里で作られたと言われています。

野里地区にはこうした建物が多く残されています。
次回にかけて、もう少し歩いてみることにしましょう。

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