せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

姫路の城西を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の城西地区を歩いてみたいと思います。

農人町の街並み

西国街道を離れた住宅地、城西地区には今も趣のある建物が残されています。町中には歴史ある和菓子屋や仏壇屋も点在していて、「姫路城下町の原点」とも言われています。

農人町ののこぎり街路

この辺りは農人町という地名です。その名の通り、この辺りは市街化が進む中でも在来の農民が混住していた地区とされています。地割は当時のままで、道路に対してのこぎり状になっていることがわかります。

飾磨県庁跡

趣ある町を通り抜けると、急に空き地にたどり着きました。こちらは飾磨県庁跡です。

明治4(1871)年の廃藩置県により、日本各地に藩に代わって県が置かれました。ここ姫路には姫路藩を継承した「姫路県」の成立後、播磨に分立する県を合併した「飾磨県」が置かれることとなります。県庁は姫路城三の丸に置かれましたが、。明治9(1876)年にここ龍野町へ完成した立派な飾磨県庁舎に置かれます。しかし、庁舎の完成直後、飾磨県は神戸を県庁所在地とする兵庫県へ合併されることが決定し、庁舎はほぼ使われることなく役目を終えることになりました。県庁がなくなった後、この場所は姫路赤十字病院として使われていましたが、その病院も郊外へ移転し、この場所は今も空き地のままです。播磨を広く治める「飾磨県」を夢見たこの場所は、どこか寂し気に佇んでいました。

姫路城を眺めて

散策の締めくくりに訪れたのは姫路城の前。
近世には播磨の中心となった姫路。その背後には、船場川の水運と西国街道によって発展し、近代の姫路の中心となることも夢見た姫路の城西地区の存在がありました。

秋も深まるころ、姫路の近世から近代を巡る道を歩いてみてはいかがでしょうか。

姫路の城西を歩いて(前編)

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少しずつ木々も色づいてきた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西国街道

前回まで、姫路の船場川界隈を歩いてきましたが、川沿いに気になる石碑「←西国街道」。前回は通り過ぎていましたが、やはり気になってしまうので、歩いてみたいと思います。

船繋ぎ岩

街道沿いの民家には船繋ぎ岩が佇んでいます。
船場川を行く高瀬舟をこの岩に繋いだのでしょう。

初井家住宅

街道沿いに立派な民家がありました。こちらは初井家住宅です。江戸時代の建築とされる民家で、通常は非公開ですが、街道の趣を今に伝えています。

江戸時代の初め、姫路城が築城された当時、この城西地区は農村だったとされています。後に、船場川が運河として使用されるようになると川沿いや船入川沿いの材木町が発展するようになりました。その後、街道沿いにも商人が集まるようになり、商工業の街として発展するようになります。街道沿いに町が発展し、広がっていくのは城の東側の野里地区にも似たようなものを感じますね。

龍野町

街道沿いの一角は「龍野町」という地名です。諸説あるようですが、西国街道がここ姫路から龍野へと伸びていたため、龍野へ通じる街道沿いにあるということでこの地名がつけられたとのこと。大手前とは違い、この付近は姫路大空襲でも被害を受けなかったので、今も町中には趣のある建物が残されています。

古くから街道沿いの商工業の街として栄えた姫路の城西地区、もう少し歩いてみたいと思います。

高瀬舟が上下した川・船場川を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、姫路の船場川に沿って歩いてみたいと思います。

材木町

船場川から西に分かれる船入川を遡ってみると、住宅街が広がっています。この辺りは「材木町」という地名で、その名の通り、寛永元(1624)年に本多忠政が城下の材木業者をこの地域に集めたことに由来しています。当時は船場川や船入川を通じて、城下町で使われる材木が運び込まれていたのでしょう。

見星寺

材木町には、見星寺という寺院が佇んでいました。こちらは江戸時代の初めの寛永11(1635)年に当時の城主の本多政朝が祖母の徳姫(見星院)の菩提を弔うために建立した寺院とされています。

景福寺

静かな住宅地を歩いていると、大きな寺院の山門がありました。こちらは景福寺です。

現在は姫路にある景福寺ですが、もともとは摂津国川辺郡六瀬(今の猪名川町)にありました。戦国時代に現在の播磨町に移り、池田輝政が姫路城主を務めた際に姫路の坂田町へ移されました。その後、宝暦4(1754)年に姫路へ転封された酒井忠恭の手によってこの場所へ移されました。ちなみに、江戸時代に池田氏が岡山や鳥取へ転封された際にそれぞれの地域にも景福寺が建立されていて、猪名川町に残る景福寺と合わせて「四福寺」と呼ばれているそうです。

姫路藩主酒井家墓所

代々姫路城主の庇護を受けた寺院として発展し、江戸時代の中頃に姫路藩主を務めた酒井氏の菩提寺とされた景福寺の境内には酒井家の墓所がありました。

景福寺の境内

境内には本堂がゆったりと佇んでいました。本堂の向こうの景福寺山にも歴代藩主や家臣の墓所があり、この辺り一帯が姫路藩主たちにとって大切な場所だったことをうかがわせます。

かつては高瀬舟が行きかい姫路の物流を支えた船場川と船入川、舟運の跡を辿って歩くと、姫路藩主ゆかりの地が静かに佇んでいました。まもなく木々も色づく頃、外堀沿いの道を歩いて、訪ねてみてはいかがでしょうか。

高瀬舟が上下した川・船場川を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の船場川に沿って歩いてみたいと思います。

船場川に沿って

姫路城の西側を船場川に沿って歩いていきます。

旧西国街道

川沿いに歩いていると、「←西國街道」と書かれた石碑が立っていました。姫路城下を通った西国街道はここで西に向かっていきます。ちょうどこの北角には「せんざき屋」という豪商があり、民家になった今も舟をつないだ「船繋ぎ石」が民家の敷地に残されています。

炭屋橋

船場川沿いを歩いていると、「炭屋橋」と刻まれた橋で船場川に交わる水路のような川を渡りました。こちらの川は船入川です。

船入川之

船入川沿いには石碑がありました。

船場川は古代には市川の本流だったとされています。江戸時代の初め、池田輝政の手により現在の姫路城が修築された際に市川の本流を現在の流路へ付け替え、もとの本流は姫路城の外堀を兼ねるように改修されました。その後、池田氏に続いて姫路城主となった本多忠政の手により飾磨津と城下を結ぶ運河として整備され、今の「船場川」という名前となりました。この船入川はその名の通り船場川を上った船がこの川へ入り、物資の積み下ろしを行っていました。

船溜まり跡

炭屋橋から眺めると、埋め立てられて公園や民家になった船溜まりの面影を見ることができます。かつてはここをたくさんの高瀬舟が出入りし、荷物を運ぶ人々で賑わっていたのでしょうね。

船入川の先には町並みが広がっています。
次回ももう少しこの町並みを歩いてみたいと思います。

高瀬舟が上下した川・船場川を歩いて(前編)

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秋も少しずつ深まりゆく頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

船場川

山陽姫路駅から北西へ姫路城下を歩いてみました。市街地をゆったりと流れるのは船場川。今回はこの船場川沿いに歩いてみたいと思います。

外堀跡

船場川に沿って歩いていると、水の溜まった池のようなものがありました。こちらは姫路城外堀の跡です。

備前門跡

この辺りには備前門という城門があり、その名も備前門橋という橋が架かっていました。堀跡の傍には発掘で見つかった橋の礎石のレプリカの石が展示されています。

姫路城の堀は天守閣のある内曲輪を中心に螺旋を描くように張り巡らされていました。外堀は東は現在のJR播但線の線路の近く、南はJR姫路駅近くまで現在の姫路の中心市街にあたる外曲輪を囲むように張り巡らされていました。西側では船場川が外堀の役割を果たしていましたが、一部には川に並行して堀が築かれていました。これらの堀は市街化が広がるにつれて多くは埋め立てられてしまいましたが、ここ備前門跡付近には周りが埋め立てられて池のようになりながらも、水をたたえた外堀が残されていました。

姫路城埋門

船場川に沿って歩き、国道を渡ると、立派な石垣が見えてきました。こちらは姫路城の埋門(うずみもん)です。この辺りは中曲輪の南西に当たり、今は国道になっているところに中堀が築かれていました。

中堀

埋門を通り抜けると、水が抜かれて空堀のようになった中堀と船場川が並行して続いています。

千姫の小径

車門跡を過ぎると中堀にも水が戻りました。二つの堀の間に挟まれた細い堤は「千姫の小径」として遊歩道になっています。静かな住宅地と緑地に囲まれた空間はまるで都会のオアシスのようですが、かつてのこの辺りには別の役目がありました。

次回はもう少し、船場川を歩いてみたいと思います。