せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

かつての西御屋敷・紅葉の好古園を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、紅葉の姫路を歩いてみたいと思います。

「兵ども乃 あゝ三九 庭の跡」碑

中曲輪の北側の緑地の中に石碑が佇んでいました。こちらは歩兵第39連隊跡に建てられた「兵ども乃 あゝ三九 庭の跡」碑です。前回も見てきたように、この辺りは近代後に陸軍の用地となりました。軍用施設が建ち並ぶようになった一方で、かつての城郭の面影は失われることとなりました。

好古園

石碑から道路を挟んで向かい側は「姫路城西御屋敷跡庭園 好古園」です。ちょうど紅葉の季節ということもあって、賑わっていました。

好古堂跡

好古園の入り口付近に「好古堂跡」と刻まれた石碑がありました。

現在、好古園となっている一帯には好古園の正式名の通り姫路城の西御屋敷がありました。本多忠政の手により江戸時代初めの元和4(1618)年に造営されたこちらの屋敷には城主の側室が住んでいました。屋敷には庭園も備えられていたそうです。この西御屋敷の南側、ちょうど石碑の辺りには江戸時代の末の寛延2(1749)年に当時の城主の酒井忠恭が開いた藩校「好古堂」がありました。もともと「好古堂」は酒井家が治めていた上州前橋にあった藩校で、忠恭が姫路へ転封された際にここ姫路へ移されたものです。現在の好古園の名前はこの「好古堂」が由来です。

好古園の紅葉

好古園はちょうど紅葉の盛りで、鮮やかな紅葉が庭園を彩っていました。

近代に入り、姫路城の西側は前回見てきたように陸軍の用地となりました。西御屋敷や好古堂は取り壊され、美しかったと言われる庭園も失われてしまいました。戦後もこの好古園の一帯は住宅や旧国鉄の宿舎となり、現在とは異なって建物が建ち並んでいたそうです。この一帯が公園として整備されることになったのは昭和60(1985)年のこと。その後、公園整備に先立って行われた調査では本多時代の屋敷の痕跡が発掘されたそうです。現在の「姫路城西御屋敷跡庭園 好古園」が開かれたのは平成4(1992)年のことでした。

紅葉の盛り

燃えるように鮮やかな紅葉が好古園の庭園を彩っていました。

今や好古園は観光情報にもよく登場する姫路屈指の紅葉の名所。一度失われた庭園が現代へ蘇った歴史を中曲輪から歩いて見てきた後に眺めると、より紅葉が鮮やかなように感じました。

かつての西御屋敷・紅葉の好古園を訪ねて(前編)

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山々が鮮やかに色づいたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城

曇り空の下に佇む姫路城
感染症の影響が緩やかになり、行楽シーズンを迎えたこともあって随分と賑わっています。

鵰門跡

姫路城の南側、かつての中堀を埋め立てた国道2号線(西行)まで下ってみました。国道沿いには土手が続いていて、交差点部分には巨大な石を組み合わせた石垣が佇んでいました。ここは鵰門(くまたかもん)の跡です。

鵰門の桝形

鵰門の中では道路がクランク状に曲がっていました。

安土桃山時代の末から江戸時代の初めにかけて行われた池田輝政による姫路城の改修は姫山とその周辺に大城郭を築くものでした。この中堀周辺では八町ごとに門が設けられ、ここ鵰門はかつての大手筋だった中ノ門筋の西隣の重要な門でした。今では門の建物は失われていますが、かつての鵰門は国道に面した外門と内側の内門の二重構造になっていました。内門は櫓を備えた櫓門となっていて、クランク状の道路になっている桝形を見下ろすような配置になっていたようです。攻め込んできた軍勢は桝形の中で櫓からの集中攻撃を受けることになったのでしょう。

中曲輪

鵰門を通り抜けると、姫路城の中曲輪です。町人の居住地だった外曲輪に対し、中曲輪は武家屋敷が建ち並んでいました。近代以降は旧日本陸軍の用地となり、この辺りには歩兵第39連隊の本部が置かれました。

中曲輪を歩く

歩兵第39連隊が置かれていた当時、この辺りは軍関係の建物が建ち並んでいましたが、戦後、学校や駐車場、バスの営業所となり、軍用地だった面影はありません。時々回送のバスが通り過ぎる道路沿いには色づいた木々が立ち並んでいました。

次回も紅葉に染まる姫路城を訪ねて、歩いてみたいと思います。

相生を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、相生市の相生地区を歩いてみたいと思います。

相生の町並み

相生天満神社を後にして、相生の街中を歩きます。
どこか瀬戸内の港町のような趣のある街並みが続いていました。

光明寺

街の中にひときわ目立つ大きな屋根が見えました。こちらは光明寺です。

光明寺の境内

山門をくぐった先の境内には浄土真宗の寺院らしく、巨大な本堂がそびえていました。

光明寺は明応5(1596)年に播磨海老名氏の二代目の海老名季重が開いた寺院で、海老名氏の菩提寺でした。創建当初は本堂前のイチョウの木の間に設けられた小さなお堂だったそうですが、明治時代、相生港に台風で流れ着いた木材を使って今の堂宇が建てられたそうです。ちなみに、相生の庄屋となった海老名氏はここ光明寺の北側、今の相生公民館の辺りに屋敷を構えていましたが、この屋敷は明治時代に焼失し、現存していません。

南町荒神社

相生の街を通り抜けて、南側の山に天満神社と向かい合うように佇む南町荒神社を訪ねてみました。

荒神社からの景色

荒神社からは瓦屋根の家々が建ち並ぶ相生地区を見下ろすことができました。近世を通して相生は赤穂藩領で、城下町ではありませんが、どこか漁村とは違った趣があるように感じますね。

相生湾沿いの巨大な造船所は重工業都市・相生の象徴のような景色ですが、瓦屋根の家々が山の合間に建ち並ぶ光景は「おお」と呼ばれた頃の相生を今に伝えているようです。これから相生では牡蠣のシーズンを迎えます。深く切れ込んだ相生湾の海の恵みを楽しみながら、相生の町並みを訪ねてみてはいかがでしょうか。

相生を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、相生市の相生地区を歩いてみたいと思います。

蛭子神社

相生港バス停の傍には神社が佇んでいました。こちらは蛭子神社です。前回、少し見てきたように、相生湾の奥の那波と違い、ここ相生は漁業を中心とした集落でした。この蛭子神を祀るこの蛭子神社も漁村らしい雰囲気を今に伝えています。

大谷川

相生地区の北側を大谷川が細く流れていました。川沿いには家並みが続いています。街中には相生湾で獲れた新鮮な魚介を扱う鮮魚店が所々にあり、今でも漁村の活気を感じることができます。

相生天満神社

大谷川を渡った先、石段の上に立派な神社が佇んでいました。相生天満神社です。この神社は建立されたのは平安時代も終わろうとしていた建久2(1191)年のこと。当時、この地を納めていた海老名氏が社を建てたのが始まりです。

もともと「おお」と呼ばれていたこの地を豪族・海老名氏が治めるようになったのは平安時代の後期の長治元(1104)年とされています。海老名氏は元々相模国、現在の神奈川県海老名市付近を治めていた豪族で、家督争いの末に一派が相生湾の奥の那波に城を構えてこの地を治めるようになりました。「相生」の地名は相模国の「相」に生きる「生」という字を組み合わせて生まれました。ただし、昭和に相生市となるまで、「相生」の読み方は「おお」のままだったそうです。

相生天満神社の境内

境内は急な斜面に張り付くようですが、趣があり立派な社殿が佇んでいました。
この相生天満神社の創建には様々な伝説がありますが、一説では播磨海老名氏の祖となった海老名家李が陣中で拾得した菅原道真像をこの地に祀ったのが始まりとされています。

相生地区を見下ろす

相生天満神社からは山と相生湾に囲まれた谷に住宅が建ち並ぶ相生地区を見下ろすことができました。古くは「おお」と呼ばれ、この相生市の原点ともいえる相生地区。次回ももう少し歩いてみたいと思います。

相生を歩いて(前編)

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木々が色づき、暦の上では冬を迎えたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

相生駅

山陽姫路駅からJRに乗り換えて着いたのは相生駅。
新幹線の駅もあり、相生市の玄関となる駅です。

相生港バス停

相生駅からバスに乗って着いたのは相生港バス停です。
相生市の中心市街は深く切れ込んだ相生湾の最奥部から相生駅にかけて広がっていて、相生地区と呼ばれる相生湾内の入江の奥に広がるこの辺りは少しのどかな雰囲気です。

相生湾

バス停のすぐそばには相生湾が広がっていました。青々とした水面の向こう、湾の対岸には巨大な造船所がそびえています。

古くは蝦江と呼ばれた相生湾に面した相生市は播磨灘が深く切り込み、深く風の影響を受けにくい地形を生かして、古くから港町として栄えていました。湾の最奥部の那波は港町、ここ相生は漁業の町として、栄えていたそうです。そんな相生湾に難工事の末にドックが開設されたのは明治45(1912)年のことでした。

相生(おお)の石灯籠

バス停の近くには石灯籠が佇んでいました。相生(おお)の石灯籠と呼ばれるこちらは江戸時代の天保14(1843)年に相生港の波止(防波堤)に建立されたもので、夜間には灯りが灯されて灯台の役割を果たしていたそうです。古くからの港は平成11(1999)年の相生湾の改修で雰囲気が変わってしまいましたが、港を見守ってきた石灯籠は今も波止のあった場所に佇んでいます。

造船業の発展で重工業の街のイメージの強い相生ですが、ここ相生にはそれ以前の相生湾の風情が残されているようです。
次回、もう少し相生を歩いてみたいと思います。