こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、
鳴尾飛行場跡を歩いてみたいと思います。
枝川町の街並み
鳴尾飛行場のあった枝川町は真新しい住宅が建ち並ぶ街並みが続いています。この辺りは飛行場になる前には競馬場が広がっていました。
この地にあった
鳴尾競馬場が開設されたのは1907(明治40) 年のこと。当時の古地図を見て驚くのが、鳴尾川の両岸に競馬場が向かい合って存在することです。東岸にあったのが
「鳴尾速歩競馬場」、西岸にあったのが
「鳴尾西浜競馬場」でした。二つの競馬場が向かい合っていた時期は長くは続かず、3年後には政府の命令で鳴尾西浜競馬場に統合され、「鳴尾競馬場」となりました。この競馬場は後に「阪神競馬場」となりますが、それも長くは続かず、昭和18(1943)年に軍に接収されて海軍の鳴尾飛行場となりました。
武庫川女子大学附属中学校・高等学校芸術館
住宅地の中を歩いていると、武庫川女子大学の敷地に突き当たりました。敷地の周囲を歩いていて発見したのが武庫川女子大学附属中学校・高等学校の
芸術館と呼ばれる建物です。敷地外から見えるこの建物は地味な存在ですが、もともとは鳴尾競馬場の大スタンドの本館として建てられたものでした。後にはなんと鳴尾飛行場の管制塔となり、戦後には武庫川女子大学附属中学校・高等学校の校舎として使われるようになりました。競馬場の本館として建てられた当時、まさか、この建物が二度も全く違う用途に使われることになろうとは、想像もつかなかったことでしょう。ただし、ほとんど跡形もない鳴尾飛行場の痕跡の中で最大の遺構と言えましょうか。場所が場所なので、不審者に思われないよう、ささっと写真を撮影して通り過ぎることに。
阪神電車武庫川団地前駅
鳴尾川を渡り、対岸の阪神電車武庫川団地前駅まで歩いてみました。戦前、この南側には先述の鳴尾速歩競馬場がありました。鳴尾競馬場に統合後、この地は工業地帯となり、
川西航空機(後の新明和工業)の工場が設けられました。余談ですが、この川西航空機の創業者の
川西清兵衛は山陽電車の前身の兵庫電気軌道の創業者でもあります。鳴尾飛行場はこの川西航空機の試験飛行場を兼ねて設けられたものでした。
東鳴尾付近
武庫川団地前から電車に乗って二つ目の東鳴尾で降りてみました。武庫川駅へと伸びる線路を眺めてみると、何だかもう一本線路が敷けそうな空間があります。阪神電車武庫川線が開業したのは昭和18(1943) 年のこと。開業時期からわかるように、軍需輸送のために設けられた路線で、将来複線化するための用地を確保していました。ただし、開業して程ない昭和20(1945)年5月の空襲で工員や貨物の輸送先である川西航空機の工場が壊滅的な被害を受け、鉄道も大きな被害を受けたために本来の役割は発揮できなかったとのこと。
阪神武庫川駅
阪神武庫川駅の通路から眺めると、武庫川線の線路はさらに武庫川に沿って北へ延びていました。現在の武庫川線は武庫川駅を発着していますが、戦時中はこの先、国鉄西ノ宮駅(現在のJR西宮駅)まで貨物線が延びていて、川西航空機への貨物輸送の役割も担っていました。戦後、貨物線は廃止となりましたが、現在でもこうして薄らと痕跡が残っています。
閑静な住宅地が広がる現在からはあまり想像ができませんが、西宮にこうした歴史があったのだということを忘れないようにしないといけないなと思いつつ、帰途に就くことにしました。
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