せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

「ガリバートンネル」の見守った街並み・神戸三宮を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の都心の三宮を歩いてみたいと思います。

加納町第1架道橋

フラワーロードに歩道橋が架かっています。
この歩道橋に並行して架かる東海道本線の加納町第1架道橋には戦時中に米軍機による銃撃を受けた跡が残されています。

銃撃の跡

青く塗られた鉄板をよく見ると、至る所に穴が開いていました。楕円形の穴が開いているのは斜めに銃弾が貫通したからだと言われています。

阪神電車が乗り入れた当時の三宮は市街地の東の外れでした。この三宮が発展することになったのは東海道本線の三ノ宮駅がこの地に設けられてからです。高架化に伴って、昭和4(1929)年に今の元町駅の位置から駅が移されて、当時は「滝道」と呼ばれていたフラワーロード近くに現在の位置に駅が設けられました。その直後の昭和8(1933)年に、阪神電車は既存の路線を地下化し、三宮から元町へと路線を伸ばしました。さらに1936年(昭和11年)に阪急電鉄が高架で三宮へと乗り入れます。鉄道各線のターミナルとなり、多くの人が集まる街になった三宮には百貨店や映画館、商店などが建ち並ぶ東の歓楽街へと発展しました。賑わい発展した街が戦時中には米軍機の標的となったことが銃撃の跡からもうかがうことが出来ます。

国道2号線

歩道橋の上から交差点付近を見下ろしてみました。
ここ三宮交差点の周辺では「三宮クロススクエア」として再整備事業が進められています。その一環で国道では歩道の工事が進められていました。

ガリバートンネル

歩道にたたずむのは気になるコンクリート建造物です。最近「ガリバートンネル」とも呼ばれて話題になっているこちらは地下道連絡口「A14」という地下道への入り口です。見るからに古いものですが、設けられたのは阪神神戸三宮駅が地下化された頃の昭和8(1933)年頃とされています。もともとは道路上に設けられていた神戸市電の電停への連絡通路の入り口として設けられたものでした。かつてはこの他にも、車道の真ん中、そして車道の南側の計3カ所が設けられていましたが、道路工事などによって今は北側の1カ所だけが残されています。

ガリバートンネルの中

入り口を入ると、細い階段が続いています。まるで戦前の神戸がタイムカプセルのように保存されているような雰囲気でした。

地下道へ

ガリバートンネルの先は三ノ宮駅と地下街を結ぶ通路です。明るい現代の地下道に出ると目がくらみそうになりました。地下道にはかつて電停を結んでいた通路の跡もありますが、重そうな鉄の扉は固く閉ざされていました。

太平洋戦争で大きな被害を受けた神戸、そして三宮の町ですが、戦後復興にあたって行政機関を三宮へ集める計画が持ち上がります。計画に基づいて湊川駅近くにあった市役所が三宮へ移転し、それに前後して、駅周辺には商業施設が建ち並ぶようになって、三宮は神戸の経済と行政の中心へと発展していきました。
「ガリバートンネル」は阪神大水害や戦災、そして、阪神淡路大震災という幾多の災害に耐え忍びながらも発展していく三宮の町を眺めてきたのでしょうか。

ガリバートンネルを眺める

地上に戻り、「ガリバートンネル」を眺めてみました。長年この場所にたたずんできたこの建造物は再整備事業に伴い2023年秋には閉鎖されて撤去される予定です。

まもなくお別れとなる歴史の生き証人を訪ねて、三宮を歩いてみてはいかがでしょうか。

「ガリバートンネル」の見守った街並み・神戸三宮を歩いて(前編)

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真夏の日差しの降り注ぐ頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神神戸三宮駅

直通特急で到着したのは阪神神戸三宮駅です。
阪神電車や山陽電車だけでなく、奈良へ向かう近鉄の車両も発車を待っていました。

阪神神戸三宮駅の天井

阪神神戸三宮駅は2013年に完成した美装化工事や近年のホームドアの設置で以前と比べるとかなり雰囲気が変わってしまいましたが、天井を見上げると戦前の昭和8年に現在の地下線が開業し、三宮駅が設けられた際のアーチが残されています。

今では交通の結節点となっている三宮ですが、この場所へ駅が設けられたのは明治38(1905)年で、この阪神電車が最初でした。当時の阪神電車は旧西国街道の路上を路面電車のような姿で走り、新生田川の右岸の旭通付近から東海道本線に沿って三宮へ乗り入れていました。ただし、当時、東海道本線の三ノ宮駅は当時の神戸の中心市街や「三宮」の地名の由来になった三宮神社にも近い現在の元町駅付近にあり、現在の位置に駅はありませんでした。

三ノ宮駅前

阪神神戸三宮駅から地上へ上がってみました。かつてホテルなどが入っていた三宮ターミナルビルは更地となり、ポートライナーの駅がむき出しになっていました。「神戸駅」「神戸雲井通駅」と呼ばれていた地上にあった当時の阪神電車の三宮駅はこのあたりにあったそうですが、都市の中心部で昭和初期に消えた駅の痕跡が残っていることはありませんでした。

三宮を眺めて

近くのフラワーロードに架かる歩道橋から三宮の町並みを眺めてみました。
フラワーロードはかつての生田川の流路で、明治4(1871)年に東側の新生田川へと流路が変更されました。居留地にも近いこの辺りは川の跡を軸に街が作られていくことになります。生田川の流路変更の少し後の明治34(1901)年には西の湊川新湊川へと付け替えられて、川跡には新開地の町が生まれて戦前の神戸の繁華街となったことを思うと、神戸の繁華街は川に縁があるようにも思えますね。

現在も少しずつ変わりゆく神戸の中心・三宮をもう少し歩いてみたいと思います。

お堀の始まり・姫路城の東を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路城を歩いてみたいと思います。

姫路神社

喜斎門跡から城内を北へ歩くと神社がありました。こちらは姫路神社です。

姫路神社の境内

緑豊かな境内には鳥の鳴き声が響いています。

姫路神社の歴史は姫路城の歴史と比べると新しく、明治12(1879)年に姫路城下に建立されたのが始まりです。廃藩置県により藩主・酒井氏が姫路を離れて東京へ移ってしまったことに旧藩臣や旧領民が思慕の念を募らせ、酒井氏の祖とされる戦国時代の武将・酒井正親と歴代藩主を祀る神社を建立しました。しかし、この場所は城下の街中で、民家も隣接している狭隘な環境であったために、官有地となっていた姫路城内の土地を当時の大蔵省から買い受け、昭和2(1927)年に現在の場所へと移しました。それにしても、先日訪ねた長壁神社「姫路ゆかたまつり」の由来にまつわる伝説といい、姫路城の城主は人々に好かれることが多かったようですね。

寸翁神社

境内には江戸時代後期に姫路藩で家老をつとめた河合寸翁を祀る寸翁神社が佇んでいます。河合寸翁は藩の特産品の改革をおこない、産業振興に尽力しました。この寸翁神社は戦後に市内の商工関係者が寸翁の功績を称えて奉賛したことで社殿が建てられたものです。

お堀の始まり

姫路神社の傍にせせらぎがありました。この水を辿ってみると、傍の内堀へと注いでいます。池田輝政が改築した姫路城の特徴は「の」の字を描くように螺旋状に城を取り囲むお堀にあります。「の」の字である以上は始まりがあり、それがこの場所のようです。

姫路城の内堀

姫路神社の傍から内堀を眺めてみました。小さなせせらぎから注いだ水は内堀を満たしていました。この水はやがて城内を巡っていきます。

姫路城世界遺産登録30周年

姫路城を出て大手前通りを歩いていると「姫路城 世界遺産登録30周年」のフラッグが風に揺れていました。

姫路城が世界遺産に登録されたのは平成5(1993)年12月で、今年2023年12月で30周年を迎えます。今後、姫路城や姫路の街では様々なイベントが開催されるのでしょう。そうしたイベントを楽しみながら、色々な表情を見せる姫路城を楽しんでみてはいかがでしょうか。

お堀の始まり・姫路城の東を歩いて(前編)

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梅雨明け間近の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城

山陽姫路駅から大手前通りを歩いて着いたのは姫路城です。雲の合間からは夏の日差しが降り注いでいました。

姫路城を見上げる

三ノ丸広場から姫路城を見上げてみました。

姫路城が現在のような姿になったのは戦国時代の後半からです。築城された初めの頃は播磨平野に佇む姫山に築かれた砦のような城だったそうですが、黒田官兵衛羽柴秀吉と言った武将たちが城代をつとめ、城郭は拡張されていきました。特に、江戸時代初めの池田輝政の改築によってほぼ現在の姿となったようです。今では整備された城郭となり、ここが山であることは分かりにくくなっていますが、時折、こうした高低差のある山らしい景色を見ることができます。

内船場蔵南石垣と内堀

大天守の東側へ歩くと堀の傍に差し掛かりました。この堀は内堀から分岐して大天守へ伸びた行き止まりの堀です。深く切り込んだ堀はまるで渓谷のようですね。池田輝政によって現在の姿に近い城郭となった姫路城ですが、近世から近代にかけても幾度となく修復されています。この堀に面した内船場蔵南石垣は池田輝政の頃に積まれたものだそうで、現在の姫路城の初期の頃の面影を今に伝えています。

喜斎門跡

堀の向こうは喜斎門跡です。この門は姫路城の搦手口(裏門・勝手口)でした。わざわざ内堀から分岐していた先ほどの堀は城の正面の三ノ丸とこの搦手を分断する役割を担っていたのでしょうか。

これまで何度も訪ねてきた姫路城ですが、新しい視点で眺めると違った姿が見えてくるようです。次回ももう少し姫路城を歩いてみたいと思います。

市川の畔・阿成を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、妻鹿駅から市川沿いに歩いてみたいと思います。

阿成

堤防を降りて住宅地の中を歩くことにしました。通りかかった交差点の名前は「阿成鹿古」と簡単なようで読みづらい名前ですが、「あなせかこ」と読みます。この辺り一帯は「阿成」という地名で呼ばれています。

早川神社

整備された住宅地を歩いていると、神社がありました。こちらは早川神社です。

早川神社の境内

境内は木々が生い茂り杜となっています。きっと秋には紅葉が美しいのでしょうね。

早川神社の創建時期はわかっていませんが、「大国主命」こと大己貴命を祀る神社です。伝説ではこの場所から市川や姫路バイパスを挟んだ北東の麻生山で神功皇后が三韓征伐の凱旋の際に三本の矢を射る神事をおこないました。その際、大己貴命の神託があり、この地に社が築かれたとされています。また、「播磨国風土記」には倭穴無神の神戸(かんべ)がこの地にあったと記されているようで、今の奈良県桜井市にある穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)の神戸があったようで、その縁でこの地に穴師坐兵主神社の分霊を祀る神社が建立されたとも言われています。

早川神社を歩く

境内は瑞々しい木々に囲まれていて、緑のトンネルのようでした。

この早川神社が穴師坐兵主神社にゆかりがあることから、この地は「安師」「穴无」「穴無」と呼ばれるようになったそうで、江戸時代には現在の「阿成」という表記が使われるようになったそうです。読めそうで読めない不思議な地名「阿成」はこの早川神社が由来だったのですね。

石棺底石

神社の裏手には古墳の石棺の底石とされる岩が佇んでいました。先ほど見てきたようにこの早川神社の創建時期は分かりませんが、創建の由緒からはるか古代に遡るとも言われています。歴史ある神社があることや、古墳の痕跡から、この阿成の地が古くから開けていたことを伺わせます。

道しるべ地蔵

早川神社を出て市川へ向かって歩くと道しるべ地蔵がありました。かつてはこの近くの市川の渡し船の乗り場の近くにあったそうで、お堂の中のお地蔵さんには「左かめやま 右ひめじ」と刻まれているそうです。

市川を歩く

道しるべ地蔵から市川の堤防へ上がりました。市川の水面はまるで鏡のように滑らかで、橋を渡る山陽電車の普通車が写っていました。

市川を渡る心地の良い風を感じながら、伝説に彩られた阿成を後にすることにしました。