せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

三つの「湯沢山茶くれん寺」(中編) 京都市浄土院

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、 関西にある「湯沢山茶くれん寺」という通称を持つ寺院を巡ってみたいと思います。

千本今出川

山陽電車から阪急電鉄に乗り継ぎ、四条河原町からバスに乗ってはるばる到着したのは京都西陣は千本今出川、交差するのは今出川通千本通。この千本通は平安京の朱雀大路だったとされています(といっても、この辺りは平安京の外ですが)。低湿地帯だった右京は中世頃から寂れて農村化、その一方で京都の市街地の北部への拡大があり、一条通より北の今出川通まで都市化が進んだため、近世まではこの辺りが京都の市街地の北西端だったようです。現在は完全に市街地の中で、ビルの建ち並ぶ中に趣のある店舗があったりして、京都散策にはいい雰囲気です。

浄土院

千本今出川のバス停からすぐ、今出川通に面して、小さな寺院が佇んでいました。
こちらは浄土院という浄土宗の尼寺です。

湯たく山茶くれん寺

寺の前には「豊公遺跡 湯たく山茶くれん寺」と刻まれた石碑が。
この浄土院も姫路の法輪寺(こちら)と同じく「湯沢山茶くれん寺」という通称を持っているのです。

寺に伝わる話によると、法輪寺を訪れてから7年後の天正15(1587)年、秀吉はこの浄土院から今出川通を西に向かったところにある北野天満宮「北野大茶湯」を開きました。
この頃の秀吉は豊臣姓を名乗り関白・太政大臣を任ぜられ、九州平定を成し遂げる(この戦いで活躍したのが黒田官兵衛です)とともに聚楽第の造営に着手していて、名実ともに天下人の階段を駆け上がっていました。
その秀吉が北野天満宮に向かう途中、この浄土院に立ち寄ったそうです。 秀吉に対して一杯目は茶を出した住職ですが、茶人としても有名だった秀吉に未熟な自分の茶を出し続けることを恥じ、二杯目以降は庭の井戸水を沸かした白湯を出し続けました。

小ぢんまりした境内

茶を所望しているのに白湯が出ることに驚いた秀吉ですが、住職の想いに気づき、笑いながら「この寺は白湯ばかり出る、湯たくさんの茶くれん寺だ」と言ったそうです。それ以降、この寺は「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったとのこと。
姫路の法輪寺とは時期も話の内容も少し異なりますが、やはり、秀吉らしいユーモアあふれる話です。

境内には当時の井戸の跡が残っているようなのですが、拝観には事前予約が必要だったようで、木戸は固く閉ざされていました。残念ながら、今日は門から小ぢんまりとした境内を覗き見るのみ。

京都の「湯沢山茶くれん寺」を訪問し、満足と言いたいところですが、関西にはまだ「湯沢山茶くれん寺」の通称を持つ寺があるようです。というわけで、引き続き、巡っていきたいと思います。

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浄土院

三つの「湯沢山茶くれん寺」(前編) 姫路市法輪寺

投稿日:



気候の良い季節となってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今回のスタートは姫路駅
姫路駅前では引き続き、再開発の工事中です。

地下道建設中?

デッキ上から広場を眺めると、何やらトンネルのようなものを建設中。
何かの地下道でしょうか…?
いずれ貴重な光景になりそうなのでカメラに収めておくことに。

法輪寺

姫路駅から着いたのは姫路の市街地の西のはずれにある法輪寺という寺院。
歩いて30分程ですが、姫路駅からバスもあります。
法輪寺は臨済宗の寺院で、創建時期は詳しくはわかっていないようなのですが、平安時代頃とのこと。中世には英賀三木氏から厚い尊崇を受けたとされるなかなか由緒のある寺院です。

「湯沢山茶くれん寺」の石碑

歴史のある立派な寺院ですが、門前には「湯沢山茶くれん寺」 と書かれた石碑が。
何だかダジャレのようですが、これは一体…?

寺に伝わる話によると、天正8(1580)年、三木城を攻め落とし、英賀へと兵を進める秀吉の一行が当時「宝林寺」と呼ばれていたこの寺に立ち寄りました。
茶を所望する秀吉に住職が出したのは白湯。白湯ではなくそこでたぎっている茶釜の茶が欲しいという秀吉に対して居合わせた村の庄屋は「これは秀吉公に出す茶なので差し上げられない」と答えました。軽装の武士を庄屋や住職は秀吉と気づかなかったようです。

秀吉の腰掛石

秀吉は「我こそ秀吉也」と高笑い。
失礼に気づいて平伏する庄屋たちに対して九石九斗九升九合の朱印とともに、湯がたくさんあるのに茶をくれない寺であるとして「湯沢山茶くれん寺」 という寺号を与えたと言われています。
境内には秀吉が腰掛けたと言われる石があるのですが、これは平成25(2013)年に復元されたものです。

三つの「湯沢山茶くれん寺」

何だか秀吉らしいユーモアあふれるエピソードですが、実は、この「湯沢山茶くれん寺」の名前をもつ寺院は法輪寺だけではありません。
軽く調べてみたところでは、関西に三つくらいありそうです。
ちょっと気になるところですので、次回から「湯沢山茶くれん寺」追いかけてみたいと思います。

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花隈城をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

荒木村重のゆかりの地である花隈城に行ってきました。
阪急花隈駅より歩いてすぐのところにあります。

現在は公園となっています。



花隈城は天正2年(1574年)、織田信長が中国地方への勢力拡大のために荒木村重に命じて造らせた城と言われています。

この場所は東の旧生田川、西の宇治川の間にあり、南は西国街道と海が広がる要衝の地でした。別名として鼻隈城とも書かれ、ちょうど台地の先端(鼻)にあたる土地であるため、この名がついたともされています。

花隈城址の碑


現在の花隈公園は城全体の一部分であり、東西約350m、南北約200mが城の範囲と考えられています。



荒木村重は謀反を起こし有岡城に籠城しますが、この花隈城は毛利や本願寺から別所氏が立てこもる三木城への補給の重要な中継地点となっていました。村重は有岡城の落城後1579年には花隈城に入り織田信長と戦います。信長の家臣・池田恒興に攻められ、三木城が陥落した後も踏ん張りますが、1580年夏に花隈城は落城します。落城後、荒木村重は毛利氏を頼って落ち延びました。



公園は高台になっており、眺めもよいです。
ぜひ花隈城址に足を運んでみてください。

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軍師・黒田官兵衛の戦い 備中高松を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、備中高松を歩いてみたいと思います。

備中高松城址公園

現在放送中の大河ドラマからはちょっと先の話になりますが、天正10(1582)年、大軍を率いて本格的な中国攻めを開始した秀吉軍は備前・備中へと進行を開始します。
対する中国の毛利軍はここ備中高松城を防衛線とするために防御を固めました。

備中高松城は平地に築かれた平城ですが、周辺は沼地が広がり、人や馬が歩くことはできないし、泳いでいくこともできないという、攻める側にとっては非常に難しい城でした。
城主・清水宗治は城兵とともに城に立てこもり、秀吉軍と対峙します。厳しい籠城戦となる中で秀吉軍の軍師だった黒田官兵衛が考えたのが有名な「水攻め」でした。

清水宗治辞世の句

官兵衛の提案で秀吉軍は足守川をせき止める堤の築造に着手しました。堤の規模には諸説があるようですが、現在の吉備線備中高松駅の南東から足守駅付近にまで伸びる巨大なものであったと言われています。
毛利氏の有力武将の小早川隆景吉川元春が援軍として備中高松に到着したときには、堤の完成により備中高松城は湖に浮かぶ孤島のようになっていたそうです。毛利軍からの援軍や物資の供給は完全に断たれました。
備中高松での劣勢に毛利輝元は和睦を決意。城主・清水宗治の切腹と引き換えに城兵の命は助けられましたが、備中高松城は落城します。

城址公園内には清水宗治の辞世の句碑がありました。

高松城水攻め史跡公園

備中高松駅の南東には高松城水攻め史跡公園があります。
この付近の山は「蛙が鼻」と呼ばれ、その名の通りカエルの顔のような形であったそうです。この付近に黒田官兵衛の陣がありました。

堤の跡

「水攻め」という奇策を用いた「備中高松の戦い」、犠牲を少なく成果を最大にするという、軍師・黒田官兵衛の真骨頂と言える戦いであるといえないでしょうか。
この直後、大きな事件はありますが、戦国の乱世は一気に天下統一へと向かっていくことになります。

中世の行く末を定めた戦いに思いを馳せながら、 播磨への帰途に就くことにしました。

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A:備中高松駅
B:高松城址公園
C:高松城水攻め史跡公園
D:備中高松駅

軍師・黒田官兵衛の戦い 備中高松を歩いて(前編)

投稿日:



すっかり春になってきましたね。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今回は、春の陽気に誘われて、ちょっと遠出をしてみました。
姫路山陽電車から山陽本線の普通列車に乗り換えて西へ西へ…。
岡山に到着しました。
摂津・播磨どころか備前も飛び越えて備中まで来てしまいましたが、細かいことは気にしせずに…。

備中高松駅

岡山駅から吉備線の列車で備中高松に到着。
ここは日本三大稲荷のひとつとされる最上稲荷(さいじょういなり)があることで知られる街です。

最上稲荷の大鳥居

街中には巨大な鳥居が。
しかし、稲荷まではここからかなり遠いようなので、今回はやめておくことに。

備中高松城址

大鳥居から歩いてすぐの場所には備中高松城址があり、今は公園に整備されています。

備中高松城は岡山平野に築かれた平城で、築城の歴史など詳しくはわかっていないようですが、戦国時代には毛利氏の拠点となっていたようです。
歴史の上ではちょっと地味な城と言えなくもないのですが、この城を決定的に印象付けるのが、天正10(1582)年に秀吉軍と毛利軍が戦った「備中高松城の戦い」、所謂「備中高松の水攻め」です。
そこで活躍したのが…、もはや、言わずもがなかもしれませんが、黒田官兵衛です。
われら歴史部が山陽電車の沿線を離れて岡山まで遠征してきたのも黒田官兵衛が関っているからというわけ。

高松城址公園資料館

城址公園内には蔵のような姿の資料館がありました。
ここで備中高松城の戦いと黒田官兵衛についておさらいしてから城址を巡って行くこととしましょう。

ということで、次回に続きます。

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A:備中高松駅
B:大鳥居
C:備中高松城址公園・資料館


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