せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

浪速の今宮を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪は今宮を歩いてみたいと思います。

廣田神社

今宮戎神社の裏手には、廣田神社がありました。

廣田神社の境内

境内はひっそりとした雰囲気です。

この廣田神社は創建時期は不明ですが、非常に長い歴史を持っていると言われています。今宮戎神社と同様に四天王寺の鎮守として建てられたとされていますので、同時期の古代の建立と考えられるのでしょうか。ちなみに、えびす神社の総本社とされる西宮市の西宮神社の北側にも「廣田神社」があり、西宮神社自体も廣田神社の摂社が由来とされているようです。今宮戎神社とこの廣田神社の位置関係にも似たものを感じますね。

新世界

廣田神社からにぎやかなミナミの街中を歩いていくと、通天閣が見えてきました。塔の下に広がるのは新世界です。

通天閣

足元から通天閣を見上げてみました。現在の塔は二代目で、パリの凱旋門の上にエッフェル塔を載せたデザインという初代通天閣が戦時中に解体されたのを戦後の昭和31(1951)年に再建したものです。今では登録有形文化財に指定されています。

天井画

通天閣の下にはクジャクを描いた天井画がありました。この天井画は初代通天閣に描かれていたものを再現したものだそうで、現代の大阪のシンボルにもどこか歴史のつながりを感じることができますね。

再び通天閣を眺める

再び通天閣を眺めてみました。

太古の史跡と近代現代の繁華街が同居する大阪・今宮。関西に住んでいると逆にあまり行かない場所なのかもしれません。感染症が落ち着いたころ、改めて歩いてみてはいかがでしょうか。

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木津川のほとり・津守を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて津守を歩いてみたいと思います。

鶴見橋跨線橋

「汐見橋線」沿いに歩いていると古めかしい陸橋が見えてきました。こちらは鶴見橋跨線橋です。もともとは大阪市電阪堺線(三宝線)が「汐見橋線」を跨ぐために設けられたものでした。現在は道路橋となっています。

津守神社

鶴見橋跨線橋の先にあったのは津守神社です。

日本の近代化に伴い工業が発達し、現在は住宅も目立つ津守ですが、もともとは淀川河口から堺へと海沿いに広がる新田の一部「津守新田」でした。津守の新田開発が始まったのは江戸時代の初めの元禄11(1698)年の頃と言われています。大阪湾岸では江戸時代の初めから河川の改修と合わせて新田開発が行われ、広大な田んぼが広がっていました。現在、大阪湾岸には工業地帯が広がっていますが、その土地を生み出したのは江戸時代の新田開発にあったともいえるのでしょうか。津守新田も大阪湾岸の新田の一つとして開発されました。

津守神社の境内

津守神社は津守新田の鎮守として創建された神社と伝わっています。目の前には幹線道路の新なにわ筋が通っていますが、神社の境内は都会の喧騒から離れた静かな雰囲気でした。

津守新田会所跡

津守神社の向かいの小学校・幼稚園の敷地に石碑がありました。小学校と幼稚園はすでに閉校・閉園されていて門は固く閉ざされているのですが、柵の隙間から石碑を見ることができます。こちらは「津守新田会所跡」の石碑です。会所は新田で小作料の徴収を行なったり幕府へ年貢を納めたり、その他、田んぼの維持修繕などを行なう役場のような施設でした。この場所で津守新田の行政を司っていたのですが、今は石碑がその存在を伝えるのみです。

西天下茶屋の街並み

阪神高速の高架を潜ると西天下茶屋の街並みが続きます。

西天下茶屋駅

街の中にあったのが西天下茶屋駅
今は時折電車がやってくる小さな駅ですが、おしゃれな窓があり、丸みを帯びた屋根の駅舎はかわいらしく趣がありますね。かつて高野山への路線として賑わった時代を今に伝えているようです。ホームに上がると、ちょうど電車がやってくるところでしたので、このまま汐見橋に戻ることにしました。

現在は住宅が中心の静かな町となっている津守ですが、歩いてみるとそこかしこに新田開発、そして、工業地帯として大いに繁栄した痕跡を見出すことができます。これから気候のよい秋、買い物ついでに足を延ばしてみませんか。

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木津川のほとり・津守を訪ねて(前編)

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残暑厳しい中に秋の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

津守駅

阪神なんば線から乗り換えた南海電車で到着したのは津守駅。南海高野線の「汐見橋線」とも呼ばれる区間にある駅です。

汐見橋線

「汐見橋線」
とも呼ばれる岸里玉出~汐見橋間が開業したのは明治33(1900)年のことです。当時物資の集散地として賑わっていた木津川に高野山からの木材などを運搬することを計画したといわれています。津守駅の一駅北側の木津川駅には今でも広い貨物駅の跡が広がっています。しかし、早くも昭和4(1929)年には、高野山方面の列車は便利な難波駅に発着するようになり、この区間は支線となってしまいます。現在では2両編成の電車が行きかうどこかのんびりした雰囲気の路線です。

大日本紡績津守工場跡

駅前には西成公園と高校の広々とした敷地が広がっています。かつてこの地には大日本紡績津守工場がありました。明治42(1909)年に操業を開始したこの工場は当時日本最大規模の紡績工場で、この工場への通勤客で津守駅は非常に混雑したといわれています。当時の地形図を見ると、木津川の左岸、田んぼの広がる中に巨大な工場が記されています。日本の綿産業を支えた大工場ですが、太平洋戦争中の空襲で焼失。残された設備で鉄工所となったようですが、それも廃業してしまいました。

津守商店街

駅の近くには大阪らしい雰囲気の商店街がありました。

古い地形図を見ると、大日本紡績の他にも津守には多くの工場があったことがわかります。かつては住宅地となっている現在とは全く違う景色が広がっていたのでしょうか。

もう少し、津守を歩いてみたいと思います。

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浪速の住吉を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の住吉を歩いてみます。

反橋

住吉大社
で象徴的な存在がこの反橋(太鼓橋)でしょうか。 この橋の橋脚は秀吉の妻の淀君が奉納したものと言われています。注目すべきはこの橋の架かる池。住吉大社は大阪城付近から伸びる上町台地の南端に位置します。古代の上町台地の西側には海が迫り、砂州や潟湖が広がっていたそうです。かつて反橋の前には砂浜が広がっていたとのこと。橋の架かる池は砂州の中にあった潟湖の名残とのことで、実は住吉大社創建以前にまで遡ろうかという凄まじい歴史をもつようです。

細井川

住吉大社の境内を出ると南側に細井川という川が流れていました。その名の通り「細い川」なのですが、橋から覗き込んで見るとなかなかの深さです。

住吉大社のあるこの辺りは、古代には住吉津(すみのえつ)と呼ばれる港でした。大阪の古代の港といえば難波津が知られていますが、この住吉津は大和川の河口近くに位置し、大和盆地や河内東部からのアクセスに優れていて、大変賑わっていたようです。大陸から奈良へと続くシルクロードの港湾として多数の物資が運ばれ、遣隋使・遣唐使もこの港から旅立ったと言われています。航海の神様とされる住吉大社がここに創建されたのもこの住吉津の存在があったからなのかもしれません。ちなみに、住吉津の入江は先ほどの住吉大社の池や南側にあった潟湖の浅香潟と繋がっていましたが、現在は池や細井川にわずかな名残があるのみです。細井川の深い深い川底は当時の海底の高さなのかもしれません。

浅澤社

細井川沿いに小さな社がありました。こちらは住吉大社の末社の浅澤社で、大社の境内の外にありますが、前回訪れた楠珺社とともに初辰まいりの四社の一つです。こちらには特に授与品はないようなのですが、初夏には境内の池に咲き乱れる杜若の花を楽しむことができます。

住吉津の跡?

南側を通る国道479号線から細井川の方を眺めてみました。不自然にくぼんだ高低差は住吉津の跡でしょうか。

古代には港湾として栄えた住吉津ですが、政治経済の中心が大和川流域から淀川流域に移るなかで難波津に対する優位性を失い、衰退していきました。江戸時代には新田開発が盛んにおこなわれ、大社の目の前まで来ていた海岸ははるか西へと離れていきました。今では地形などにわずかに痕跡を感じるのみです。

住吉行宮跡

細井川を渡った先にあったのが住吉行宮跡です。こちらは南北朝時代に南朝政権が行宮(仮の御所)を置いた跡です。後村上天皇と長慶天皇がそれぞれわずかな期間ですが、行宮として用いたと伝わっています。ここに行宮が置かれたのは住吉大社の神主家である津守氏の協力があったとも言われていますが、現在は住宅地の中に静かにたたずんでいました。

古代には大いに栄えた住吉ですが、今は港としての存在感はありません。しかし、住吉行宮であったり、初詣客が西日本最多と大いに賑わい信仰を集める住吉大社であったり、地形であったり、今もこの地に残されているものがあります。山陽沿線の景色と比べてみながら歩いてみるのも興味深いかもしれません。

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浪速の住吉を訪ねて(前編)

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寒い日が続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

住吉大社駅

今回訪れたのは南海電車の住吉大社駅
山陽沿線で「住吉」といえば、神戸市東灘区の住吉を思い浮かべるか、明石の住吉神社を思い浮かべるか…というところですが、こちらは大阪の「住吉」です。

住吉公園駅跡

南海電車の駅前には阪堺電車の住吉公園駅の跡がありました。「日本一終電の早い駅」として知られていた住吉公園駅ですが、ちょうど一年前に廃止となり、現在、駅舎は当時と変わらない姿で残っていますがホームと線路の跡はすっかり駐車場となっていました。

住吉鳥居前

駅から歩いてすぐに電車の行き交う電車道に出ました。傍にある電停の名前はその名も住吉鳥居前電停。目の前には住吉大社の鳥居がそびえていました。

住吉大社は神代の221年に神功皇后が朝鮮征伐の帰途、務古水門(むこのみなと)で船が進まなくなり、神託に従ってこの地で住吉大神を祭ったのが始まりと言われており、非常に長い歴史をもっているといわれています。ただし、この話、以前訪れた東灘区の本住吉神社の由緒に似ているような…。

住吉大社

住吉大社の境内は賑わっていて、奥の第一本宮前には行列ができていました。神社の本殿は南側に向いていることが多いのですが、ここ住吉大社では第一から第四まである本殿のすべてが西側…つまり、大阪湾に向かって建てられています。

同じように海に向かった神社といえば、明石の魚住にある住吉神社が思い浮かびますね。住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』によると住吉大神から播磨へ移りたいと神託があり、神託に従って藤の枝を流し、枝が流れ着いた場所に社を築いたのが明石の住吉神社の始まりとされているとのことで、実は名前以上に住吉大社と深い関わりがあります。また、魚住は神功皇后が朝鮮征伐の帰途に暴風雨で船が進まなくなった際に住吉三神に祈った地でもあるとされています。何だか似たような話が入り混じっていてだんだんよく分からなくなってきました。

楠珺社

境内の外れに楠珺社(なんくんしゃ)という末社がありました。住吉大社では毎月最初の辰の日にこの楠珺社など四か所の末社を巡る「初辰まいり」というお参りがあります。それぞれの社では変わった授与品があり、ここ楠珺社ではかわいらしい招き猫(招福猫)をいただくことができます。この「招福猫」を毎月のお参りで集め、48体集めると中猫に交換、さらに、中猫を2体に小猫を48体集めるとようやく大猫に交換で満願となるとのこと。左右両方の大猫を揃えるにはなんと24年! 気が遠くなりますが、達成感はあるでしょう。信仰心からだけでなく、楽しみながらお参りができるこのシステムを考えた昔の人はなかなかのアイデアマンだと思います。

住吉大社を歩いてみたところで、次は地形から住吉を見ていきたいと思います。

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古代史ロマンを求めて~百舌鳥古墳群を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に引き続き、大阪の百舌鳥古墳群を歩いてみたいと思います。

御廟山古墳

いたすけ古墳から10分ほど歩くと、御廟山古墳にたどり着きました。
こちらは百舌鳥古墳群の中で四番目の大きさがある古墳です。
全長200mと大型の古墳なのですが、外からもくびれが見えて、前方後円墳の形状が何となくわかりますね。
この古墳は応神天皇陵の第二候補とされていて、宮内庁が管理しています。ちなみに、現在、応神天皇陵の第一候補とされているのは羽曳野市の古市古墳群にある誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)とされています。こちらは御廟山古墳よりもさらに大きく、仁徳天皇陵に次ぐ日本で二番目の大きさとされています。

百舌鳥八幡宮の鳥居

御廟山古墳の近くには百舌鳥八幡宮の鳥居が。
この百舌鳥八幡宮は応神天皇を祭っていて、かつてこの御廟山古墳はこの神社の奥社とされていたこともあるそうです。何だか、この御廟山古墳の方が応神天皇陵なのではないかという気がしてきますが、はっきりとしたことはわかっていないようです。

宮内庁が管理する陵墓は初代神武天皇から昭和天皇まで124箇所ありますが、その他にも伝承などから天皇陵ではないかとされる陵墓が46箇所あり、「陵墓参考地」と呼ばれています。これらは調査の結果などから証拠に欠けるために天皇陵とはされていませんが、宮内庁が管理しています。宮内庁管理の陵墓では発掘調査などが制限されているためにこの御廟山古墳も結局のところ誰が埋葬されているのかはわかっていません。気になるところですが、調査ができないのは仕方ありませんので、謎は謎のまま楽しむこととしましょう。

御陵山公園

スタートの仁徳天皇陵からひたすら歩き、ようやく御陵山公園に到着しました。こちらにある土師ニサンザイ古墳で百舌鳥古墳群の主だった古墳を回ったことになります。公園の入口では埴輪を模した車止めが迎えてくれました。

土師ニサンザイ古墳

この公園にあるのは土師ニサンザイ古墳。第18代反正天皇の陵墓の第二候補とされていて、日本で8番目の大きさとされています。なお、この反正天皇は「倭の五王」のと呼ばれた人物ではないかといわれています。ちなみに、反正天皇陵の第一候補は同じ百舌鳥古墳群にある田出井山古墳と言われています。この古墳は南海電車の堺東駅近くにあるので今回の散策ルートから漏れていましたね。 ただし、この田出井山古墳は規模が小さく、この土師ニサンザイ古墳こそが反正天皇陵であるという説もあるようです。この土師ニサンザイ古墳も発掘調査が制限されているために、結局のところ、誰が埋葬されているのかはわかっていません。

百舌鳥古墳群を巡り、古代史の謎に迫ったつもりだったのですが、何だかより謎に足を踏み込んでしまったような気分ですね。
現在、百舌鳥古墳群は古市古墳群と合わせて世界遺産登録を目指しているそうで、晴れて登録なれば、さらなる学術調査が行なわれるのではないかと期待されているそうです。そのときが来るまで、謎は謎のままにしておこうと思いつつ、中百舌鳥駅から帰途に就くことにしました。

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古代史ロマンを求めて~百舌鳥古墳群を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、大阪の百舌鳥古墳群を歩いてみたいと思います。

履中天皇陵

堺市博物館で古墳の空撮映像に大興奮した後に訪れたのが大仙公園の南側にある「履中天皇陵」こと、「百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」です。こちらの古墳は隣の仁徳天皇陵古市古墳群(大阪府羽曳野市・藤井寺市)にある応神天皇陵に次ぐ日本で3番目の大きさの古墳です。

履中天皇陵の正面

15分ほど歩き、住宅街の中にある履中天皇陵の正面に辿り着きました。履中天皇陵は仁徳天皇陵とは違い濠が一重しかない(かつては二重だったそうです)ため、外から墳丘を眺めることができます。

履中天皇陵は仁徳天皇の子で第17代天皇とされる履中天皇を葬った古墳とされています。ただし、考古学的にはこの履中天皇陵の方が仁徳天皇陵よりも古いそうで、本当は誰が埋葬されているのかは謎だそうです。中国の歴史書には百舌鳥・古市古墳群の古墳の多くが築造された西暦400年代に讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の五人の王(「倭の五王」と呼ばれます)が代々朝貢に訪れたとの記録があり、このうちが第21代天皇の雄略天皇であることは確実とされています。そこから逆算し、古墳の年代を考慮するとと呼ばれる人物がこの履中天皇陵に埋葬されているのではないかという説が有力とされています。ただし、中国の記録と『日本書紀』『古事記』などの記述とが食い違うところがあり、結局のところ詳しいことはわかっていません。

いたすけ古墳

履中天皇陵から15分ほど歩くと、またまた古墳が見えてみました。
こちらは「いたすけ古墳」と呼ばれる古墳です。百舌鳥古墳群の中では8番目の大きさがありますが、天皇家の陵墓とはされていません。そのせいか、過去には住宅開発のために破壊の危機に瀕したことがあります。周辺住民などの反対で保存されることになりましたが、古墳の濠には今も工事の際に設けられた橋が残されています。百舌鳥古墳群にはかつて今以上に多くの古墳があったようですが、履中天皇陵の南西にあった百舌鳥大塚山古墳をはじめ、開発により多くが破壊されてしまいました。しかし、近年になり、古墳の歴史的価値から保存運動が盛んにおこなわれるようになり、百舌鳥・古市古墳群を世界遺産にしようとする活動も広がりを見せています。

いたすけ古墳を眺める

仁徳天皇陵や履中天皇陵と比べてこのいたすけ古墳は小さいため、濠の外からでも鍵穴型の形状がよくわかります。埋葬されている人物は謎とのことですが、後円部から発掘された衝角付冑型埴輪と呼ばれる甲冑を模した埴輪は堺市のシンボルにもなっています。

既に古墳尽くしになってきましたが、百舌鳥古墳群にはまだまだ古墳があります。
もう少し歩いてみることにしましょう。

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古代史ロマンを求めて~百舌鳥古墳群を歩く(前編)

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そろそろ初夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三国ヶ丘駅

今回訪れたのは大阪は堺市の南海電車高野線三国ヶ丘駅
山陽沿線からはあまり馴染みのない駅ですが、歴史に興味がある方なら既にむむっ!とするはずです。

駅の目の前に古墳が

駅の西口を出ると目の前にこんもりとした森のような木々が姿を現しました。
実はこちら、古代に築かれた古墳「源右衛門山古墳」という名で呼ばれています。
三国ヶ丘駅は堺市に広がる「百舌鳥(もず)古墳群」の真っただ中にある駅です。今回はこの三国ヶ丘駅から百舌鳥古墳群を巡ってみたいと思います。

古代からの森

源右衛門山古墳の裏手に遊歩道があったので歩いてみることに。
遊歩道のフェンスの向こうには鬱蒼とした森が続いています。
こちらは「仁徳天皇陵」「大仙陵」と呼ばれる日本最大の古墳「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」の森です。ただし、この古墳は三重の堀に囲まれており、今遊歩道から見えるのは3重濠と2重濠の間の第2堤で、古墳の墳丘が見えているわけではありません。

仁徳天皇陵は第16代(一説では第17代)天皇の仁徳天皇を葬った古墳とされています。墳丘の大きさは486mと日本最大で、面積の比較ではエジプトのクフ王のピラミッドや中国の始皇帝陵よりも大きく、世界最大級の墳墓とされています。ちなみに、兵庫県最大の古墳は我らが五色塚古墳ですが、仁徳天皇陵は五色塚古墳の3倍近い大きさがあります。

仁徳天皇陵の正面

外堀のほとりを15分ほど歩くと仁徳天皇陵の正面にたどり着きました。
2,700m以上あるこの古墳の外周で、唯一ここだけ第2堤への通路が設けられています。砂利が敷き詰められた先に鳥居が立っていて、神社のような厳かな雰囲気ですね。鳥居の向こうにそびえるのは仁徳天皇陵の墳丘です。

仁徳天皇陵は五色塚古墳と同じ「前方後円墳」という円形と四角形を組み合わせた鍵穴のような形をした古墳で、現在眺めているのは鍵穴の底面の部分に当たります。前方部(四角形の部分)は底面から後円部(円形の部分)にかけて下り傾斜がある構造となっており、現在見えているのは前方部の底面だけ。古墳の正面から後円部を眺めることはできないという何ともミステリアスな構造になっています。また、観光ガイドの方によると、堺市役所展望台や日本一高いあべのハルカスからも鍵穴型の形状を眺めることはできないどころか、最も内側にある1重濠の水面すら見えないということで、飛行機以外にこの古墳の全容を眺めることはできないそうです。現代でもそんな状況なのですから、古代の人々にとってはとてつもなく神秘的な存在だったことでしょう。

堺市博物館

なかなか近寄りがたい仁徳天皇陵ですが、隣接する大仙公園にある堺市博物館のシアターコーナーでは映像で仁徳天皇陵や百舌鳥古墳群の全容を眺めることができます。シアターコーナーだけは無料で見ることができるので、休憩がてら立寄ってみてもいいですね。

百舌鳥古墳群はまだまだ広がっています。
もう少しお付き合いください。

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