せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

石屋川のほとり・御影を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、御影を歩いてみたいと思います。

西国街道の松

透き通った水がこんこんと湧き出す「澤之井」のある阪神御影駅から北西へと歩くことにしました。
中学校の裏手、住宅地が広がる中に佇んでいたのは趣のある松の木です。「西国街道の松」と呼ばれるこの松の木は呼び名の通り、この地を通っていた西国街道沿いに植えられた松の木で、江戸時代からこの地を見守ってきました。確かに風格のある美しい松の木ですね。松の木の向かいには「旧西国街道」と書かれた石碑が建てられていました。

六甲山地の麓に位置する御影は山から算出される花崗岩を使った石材の産地、そして、澤之井の伝説にみられるような豊かな水を使った酒造地として、近世にかけて発展することとなりました。現在、六甲山での石材の採取は行われておらず、御影の名前は花崗岩の別名の「御影石」に残るのみです。しかし、酒造業は今も盛んで、御影の海側は灘五郷の「御影郷」とされて今も酒造メーカーの工場が建ち並んでいます。明治22(1889)年、御影村は周辺の村とともに御影町となりますが、酒造を中心とした産業が盛んで、産業の発展を背景に大きな人口を抱えた豊かな町だったとされています。

御影公会堂

国道沿いを歩いていると、石屋川沿いに立派な建物がそびえていました。こちらは神戸市立御影公会堂という施設です。

御影公会堂の内部

戦前の昭和8(1933)年に建てられた建物の内部は重厚な雰囲気で、国の登録有形文化財に指定されています。

御影公会堂は当時の御影町が建てた文化施設で、大ホールは1000人が収容ができる当時としては巨大なもので、御影町の発展を象徴するような建物です。しかし、竣工からほどなく、昭和20(1945)年の神戸大空襲で御影の町とともに公会堂は大きく被害を受け、内部はほぼ焼け落ちてしまったそうです。戦後の昭和25(1950)年に御影町は神戸市へ編入され、公会堂の所有も神戸市へと移管されました。応急的な復旧がなされて幼稚園として使われていたという公会堂は神戸市の予算でようやく復旧され、現在も地域の集会施設として使用されています。

嘉納治兵衛像

公会堂が建てられるにあたっては御影町の資金の他、御影郷の酒造業者・白鶴酒造嘉納治兵衛からの寄付が使われました。公会堂の中には嘉納治兵衛の像がありました。

御影町章のマンホール

公会堂の裏手へ回ってみるとかつての御影町の町章が描かれたマンホールが残されていました。

石屋川と六甲の山並み

公会堂から石屋川に沿って歩いていくと六甲の山並みを望むことができました。

水や石材といった六甲の恵みとともに発展してきた御影は今も六甲の麓に佇んでいます。

石屋川のほとり・御影を歩いて(前編)

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朝晩は涼しくなり、夏の終わりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神御影駅

直通特急を下りたのは阪神電車の御影駅です。
駅前にはバスターミナルと商業施設が整備され、地域の拠点の雰囲気です。

澤之井の地

御影駅の駅前には石碑が佇んでいました。
立派な石には「澤之井の地」の文字が刻まれています。

神戸市の東灘区に位置する御影は戦後の昭和25(1950)年に神戸市へ編入されるまで御影は御影村~御影町という独立した自治体でした。御影石で知られる地名の由来になったとされるのはこの石碑に刻まれている「澤之井」という泉であるとされていて、伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地に立ち寄った際に自分の姿を泉に写したことから「御影」という地名が付けられたとされています。ただ、地名の由来には諸説があるとされています。

澤之井

石碑は駅前にありますが、澤之井自体は阪神電車の御影駅の高架下にあり、今も鳥居と玉垣に囲まれた泉が佇んでいました。

澤之井を眺めて

高架下の薄暗い場所になってしまいましたが、泉を覗いてみると今もこんこんと清い水が湧き出していました。水底がはっきりと見える透明度に驚いてしまいますね。澤之井の水を使った酒を後醍醐天皇へ奉納したことがここ御影での酒造の始まりであるともされています。実際にこの辺りで酒造が盛んになったのは江戸時代頃とされているので、この後醍醐天皇の話はあくまで伝説なのかもしれませんが、水に恵まれた御影を象徴するような泉です。

賑やかな街に歴史ある史跡の佇む御影をもう少し歩いてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河の集落をかつての湯山街道が貫いています。新しい家々が建ち並んでいますが、緩く曲がった古い道の雰囲気が今も残されています。

街道の道標

街道沿いに古い道標が立っていました。苔むした道標には「有馬大坂」「山田兵庫」という文字が刻まれています。ここ淡河は東播と有馬温泉、大坂を結ぶ東西の湯山街道と兵庫への南北の街道が交わる交通の要衝でした。

戦国時代、三木合戦の戦いの中で淡河を治めていた淡河城羽柴秀吉の手により落城してしまいました。しかし、合戦後の天正7(1579)年、秀吉は淡河に定期市を開くことを許し、市に対して税を取らない楽市とする制札を立てました。戦いの舞台となった淡河でしたが、楽市に定められたことで街道沿いの商業地や宿場町として発展していくことになります。ちなみに、この時の制札は前回ご紹介した歳田神社に保存されているのが近年発見されたそうです。

淡河本陣跡

道標の近くの街道沿いに立派な瓦葺の建物が佇んでいました。こちらは淡河本陣跡です。

江戸時代に入ると淡河は明石藩に属することになり、明石藩主をはじめとした大名が参勤交代などで湯山街道を通る際の宿泊所として本陣が整備されました。この本陣職を長くつとめたのは秀吉が楽市を定めた際に街の整備に貢献した大庄屋の村上家だったとされています。戦後、淡河は神戸市に編入されます。本陣の役割を終えた淡河本陣はやがて空き家となり放置されていました。現在のように整備され利用されるようになったのは平成29(2017)年のことで、映画『るろうに剣心』のロケ地としても使用され注目を集めるようになりました。

淡河本陣跡の内部

淡河本陣跡の内部には瓦屋根が立派な母屋だけでなく土蔵や茶室まで残されていて、現在はカフェや集会所として利用されています。江戸時代の風情を残す畳の間を山々を渡る風が吹き抜けていきました。

夏の暑さの中にどこか秋の雰囲気も感じるようになったこの頃。まもなく実りの季節を迎えるかつての宿場町を訪ねてみてはいかがでしょうか。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河城跡の山を下りて、淡河の町を歩いてみることにしました。県道に並行して集落の中を通るのはかつての湯山街道です。

歳田神社

街道を外れて北へ歩いていくことにしました。田んぼの中に立派な鳥居が佇んでいるのは歳田神社です。

歳田神社の境内

水田の中の参道の先には広々とした神社の境内が広がっていました。

現在はのどかな田園地帯の広がる淡河ですが、太古には「泡河湖(あわごこ)」と呼ばれる湖が広がっていたそうです。湖があり資源に恵まれた環境だったためでしょうか、淡河にははるか縄文時代にさかのぼる遺跡が残されています。その後、この泡河湖は中世にかけて徐々に干拓され、江戸時代の中頃には姿を消してしまったそうです。この歳田神社が建立された時期は分かっていませんが、奈良時代に泡河湖の干拓事業に際して水神を祭ったのが始まりと伝わっています。

宿場町の風情

歳田神社から淡河の町へ戻りました。街中には茅葺の民家が残っていました。湖のほとりの集落から交通の要衝を抑える戦略上の拠点となった淡河は近世には宿場町として発展することになります。

次回は宿場町の風情を感じながらもう少し淡河を歩いてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(前編)

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夏の盛りですが、暦の上では立秋を過ぎた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

道の駅・淡河

神戸三宮から新神戸トンネルを潜り抜けて北へ向かうバスで着いたのは神戸市北区の淡河町です。田園地帯が広がる淡河町ですが、バス停留所の周辺の本町地区には民家や店舗が集まり、少し賑やかな雰囲気です。淡河本町バス停の近くには道の駅・淡河があり、地域の野菜などを売るお店は朝から賑わっていました。

淡河城跡

道の駅・淡河の背後の山には気になる建物がありました。
「淡河城跡」と書かれた看板の立つ山の斜面にはつづら折りの道が設けられていて、その上には砦のような建物があります。

神戸の中心市街からは六甲山地と帝釈山系を挟んで遠いイメージのある神戸市北区淡河町ですが、古くから三木と有馬温泉を結ぶ湯山街道の宿場町として栄えていました。この地域を治め、淡河城を築いたのは淡河氏で、鎌倉時代、北条氏の一族の北条朝盛がこの地域の名前をとって「淡河」と名乗り始めたものです。淡河氏は東播地域へ勢力を拡大し、淡河城は交通の要衝を治めるだけでなく淡河氏の拠点となっていきます。

淡河城跡へ上る

小高い山の上の淡河城跡は現在は神社と公園になっていました。

淡河城跡の碑

公園の隅には淡河城跡の碑が佇んでいました。木漏れ日の差し込む石碑に蝉時雨が降り注いでいます。

淡河氏の拠点となった淡河城ですが、淡河氏は戦国時代に三木の別所氏の配下となります。天正6(1578)年から始まった別所氏と羽柴秀吉との戦いである三木合戦では別所氏側の城となりますが、秀吉の手により淡河城は落城しました。その後、秀吉の中国攻めで功のあった武将・有馬則頼が城主となりますが、江戸時代の元和元(1615)年に出された一国一城令で淡河城は廃城となりました。

淡河城跡からの眺め

山の上の淡河城跡からは先ほど訪ねた道の駅と湯山街道沿いに広がる淡河の町を見下ろすことが出来ました。

山間に宿場町として栄えた淡河、もう少し歩いてみたいと思います。