せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

城南・総社への道(前編)

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年の瀬も押し迫る頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大手前通りと姫路城

山陽姫路駅で山陽電車を降りると、駅前から続くのは大手前通り
冬らしい天気の空の下、姫路城が日差しを浴びて輝いています。

長源寺

大手前通りから街中に入ると、長源寺がありました。普通のビルのように街中に溶け込んでいますが、由緒ある寺院で、もとは男山山麓にあった「長彦寺(ちょうげんじ)」という寺院が池田輝政が城下町を整備した際にこの地へ移ったそうです。明治元(1968)年に無住の寺院となりましたが、大正時代に復興され、現在に至っています。

長壁神社

長源寺に隣接して佇んでいたのが長壁神社です。

長壁神社に祀られている刑部大神は古くから姫路城のある姫山の神として祀られていて、歴代の姫路城主はとても大切にしてきました。姫路城大天守最上階にもこちらと同じ刑部大神を祀る刑部神社があります。ちなみにこちらの長壁神社はもともと長源寺に祀られていましたが、大正時代に長源寺が復興する際に境内を折半して寺院と神社とで分かれることになったようです。

城南の町並み

大手前通りを渡って東側へ出てみました。昔ながらの住宅地の中にマンションがそびえる光景は賑やかな駅前の景色とは違った趣を感じます。

幡念寺

住宅の中にあったのは幡念寺です。池田輝政の城下町整備の際にこの地に創建された寺院で、輝政が姫路へ移封される前に城主を務めていた三河国吉田(今の豊橋市)に今もある悟真寺という寺院の海牛和尚なる人物によって開かれたとされています。

赤鹿稲荷神社

幡念寺から住宅地を歩くと、小さな神社がありました。こちらは赤鹿稲荷神社です。先日訪れた城北の八代にも同じ名前の神社がありましたが、こちらはその赤鹿神社から分霊して姫路城内に祀られていた神社です。池田氏が造営した別荘・御茶屋に隣接してあった赤鹿神社を池田氏に代わって城主を務めるようになった酒井忠恭が城内へ移転させようとしましたが赤鹿氏の反対を受けてやむなく分霊を城内に祀ったと言われています。神社は明治に入って城内からこの近くの北条口へ移されて戦後に現在の場所へ移られました。決して境内は大きくありませんが、歴史ある神社だけあって境内には趣を感じます。

城南を巡りながら北の播磨国総社を目指していましたが、今年の更新はここまで。続きは年明けとさせていただきます。

本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧いただきましてありがとうございました。来年2023年はこのブログのスタートから10年となる節目の年となります。来年もよろしくお願いいたします。

それでは、どうぞよいお年をお迎えください。

城北・八代を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の城北を歩いてみたいと思います。

東光寺

住宅地の中を歩いていくと、立派な寺院が佇んでいました。こちらは東光寺です。東光寺の創建はわかっていないそうですが、中世以前にまでさかのぼる古刹とされています。もとはこの少し東側の八代御茶屋町にありましたが、後に現在の場所へ移転しています。

八代御茶屋公園

住宅地の中に小さな公園がありました。こちらは御茶屋公園です。

先ほど訪れた東光寺はもとはこの辺りにあったとされています。しかし、室町時代の末期の文明16 (1484)年に山名氏の攻撃を受けて焼失。荒廃したまま放置されていたのを、慶長8(1603)年に池田輝政が現在の場所へ移転・再建しました。跡地には池田輝政の別荘の御茶屋が造営されました。池田氏が姫路を離れた後も、御茶屋は代々姫路城主の別荘として使われてきましたが、江戸時代半ばの延享3(1746)年に暴風で崩壊し、宝暦元(1751)年頃に当時の城主の酒井忠恭によって廃止されてしまいました。比較的最近まで、土塁や池が残されていたようですが、現在では御茶屋の痕跡は残されておらずこうして公園となっています。

伝伏見天皇離宮跡碑

公園の北側には「伝伏見天皇離宮跡」と刻まれた石碑がありました。一説には東光寺は鎌倉時代の後期に当時の伏見天皇が草創し、離宮としたと言われています。こちらの石碑はそれに因んで当時東光寺があったこの場所へ昭和5(1930)年に建立されたものです。

赤鹿稲荷神社

八代御茶屋公園に隣接して、お稲荷さんがありました。こちらは赤鹿稲荷神社です。赤鹿稲荷神社は妻鹿城主だった妻鹿貞祐の息子の定頼なる人物が創始となった赤鹿家が応仁元(1467)年に創建し祀ってきた神社で、小さな神社ですが歴史があります。かつてこの場所は赤鹿の森とも呼ばれ、先ほど訪ねた御茶屋を描いた絵図にもこの赤鹿の森が描かれているとのこと。

お茶の水橋

船場川に架かる橋に差し掛かりました。橋の名前は「お茶の水橋」、まるで東京の橋の名前のようですが、こちらも御茶屋に因んでいるのでしょうか。

お茶の水橋からの眺め

お茶の水橋から船場川を眺めてみました。
古い住宅地の趣のある家々が建ち並ぶ中を、船場川が曲がりながら眺めていきます。

古くからの住宅地だった城北・八代地区はかつて姫路城主の別荘となり、近代には文教地区となり、今も閑静で落ち着いた雰囲気が漂っています。船場川や大野川を辿って歩いてみれば、賑やかな城下とは少し趣の異なる姫路を感じることができるかもしれません。

城北・八代を歩いて(前編)

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年末が近づき、冷え込みが一層厳しくなった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

県立大環境人間学部

山陽姫路駅からバスに乗って着いたのは県立大環境人間学部バス停です。

兵庫県立大学ゆりの木会館

バス停名の通り、近くには兵庫県立大学姫路新在家キャンパスが佇んでいます。丁字路に面して聳えているのは県立大のゆりの木会館です。

今の兵庫県立大学の姫路新在家キャンパスは、もともとは旧制姫路高等学校として大正12(1923)年に設置されたものでした。戦後、旧制姫路高校は新制神戸大学姫路分校となったのちに神戸大学へ吸収される形で廃止され、跡地には近くの伊伝居から姫路短期大学が移転しました。姫路短期大学は後に姫路工業大学となり、現在の兵庫県立大学となっています。趣ある建物は大正13(1924)年に旧制姫路高校の本館として建てられたもので、現在は前面部分のみがゆりのき会館として残されています。

兵庫県立大講堂

バス道沿いに歩くと、木立の向こうにもう一つ趣のある建物が現れました。こちらは姫路新在家キャンパスの講堂です。こちらももともと旧制姫路高校の講堂として大正15(1926)年に建てられたものです。現在では、ゆりの木会館とともに登録有形文化財に指定されています。

大野川

さらにバス道を歩いていくと、大野川に差し掛かりました。この川は男山の先で船場川と合流して播磨灘へと注ぎます。川の向こうには姫路城の天守閣がそびえているのを望むことができました。

古くからの住宅地に高校や大学が立地し、どこか文教地区の雰囲気も漂う城北地区。次回、もう少し歩いてみたいと思います。

稲丘の麓・青山を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の青山地区を歩いてみたいと思います。

妻見岡

稲岡山の北西に小さな丘がありました。民家の中に埋もれてしまいそうな小さな丘ですが、「妻見岡」という名前が付けられています。

人丸神社

丘の上には趣のある神社がありました。こちらは飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂を祀る人丸神社です。柿本人麻呂は播磨守を務めていた頃にここに居宅を構えていました。ある時、大和へ赴いていた際に石見国から妻が訪ねてくる夢を見たため、播磨へ引き返してこの場所で妻を見たという伝説から、「妻見岡」という名前になったそうです。

西国街道の町並み

稲岡神社の大鳥居へ戻り、東西へ通る道を歩いてみることにしました。この道はかつての西国街道で、市街化が進む姫路市内では珍しく街道筋の趣のある街並みが残されています。青山は宿場町ではありませんでしたが、街道の拠点となった町で、継飛脚番所が置かれていたそうです。今に残された町並みから、当時の賑わいを感じることができますね。

教専寺

街道筋には教専寺という寺院が佇んでいました。元は稲岡山の麓にあったのが街道沿いのこの地に移されたと伝わる古刹です。境内には街道を行きかう人々が振り返って見たという「見返りの松」が植えられています。

渡し場跡

青山地区を通り抜けた西国街道は因幡街道を渡った先の夢前川の土手で行き止まりになってしまいました。現在の国道2号線は少し下流に架けられた夢前橋で夢前川を渡っていますが、かつての西国街道には橋はなく、ここには渡し船があったそうです。

夢前橋

日赤病院前からバスに乗るために、夢前橋を渡ることにしました。振り返ってみると、夢前川の向こう、こんもりと木々の生い茂る稲岡山が住宅の中に佇んでいるのを眺めることができました。「青山」の地名はこの青々とした稲岡山に由来しています。

今回訪ねてきた稲丘も、射目崎も、青山も、どれもはるか古代のことです。それが現代の地名へつながっていき、歴史が紡がれていくように感じられました。

伝説に彩られ、街道の町並みを今に伝える青山地区訪ねてみてはいかがでしょうか。

稲丘の麓・青山を歩いて(前編)

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すっかりと冬景色となった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

青山

山陽姫路駅前からバスに乗って到着したのは夢前川の畔の青山です。

青山の町並み

交通量の多い国道沿いに商店が建ち並ぶ景色の広がる青山ですが、国道を離れると住宅地の中に昔ながらの趣を感じる景色が続いています。

稲岡神社

街中にこんもりと木々の生い茂った丘がありました。この丘は稲岡山といい、『播磨風土記』には稲丘稲牟礼丘(いなむれがおか)という名で播磨の十四丘の一つに数えられています。この十四丘は大汝命が船から落とした荷物が丘になったという伝説があり、稲丘はその名の通り稲穂を落とした丘とされています。この稲岡山の麓に佇むのが稲岡神社です。

稲岡神社の境内

長い歴史を持つだけあって、境内には趣があります。

稲岡神社の主祭神ははるか古墳時代に丹波より勧請したという豊受姫大神です。十四丘伝説にちなんで、稲の神様が勧請されたのでしょうか。また、豊受姫大神のほかに射目崎大神なる神も合祀されています。もともと、射目崎大神は神功皇后の放った矢の落ちた「矢落の森」に建てられた社に祀られていましたが、この社が室町時代の応永元(1394)年に水害に遭ったため、この稲岡神社に合祀されたとのこと。この矢落の森はここから少し北側のJR姫新線の余部駅の辺りにあったとされていて、今も駅の裏に石碑が残されています。ちなみに、一説では射目崎(いめさき)という神の名前が訛って夢前川の名前になったと言われています。

青山を歩く

稲岡神社を後にして、青山の集落の中を歩くことにしました。昔ながらの曲がった道沿いには蔵のある民家が建ち並んでいて、商店の建ち並ぶ国道沿いとは別世界のような景色が続いています。

次回も青山を歩いてみたいと思います。