せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

八家・東山を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、八家東山地区を歩いてみたいと思います。

海久寺

住宅街を通り抜けた先にあったのが海久寺です。
山沿いにゆったりとした境内が広がっているのが印象的ですね。

海久寺の地蔵堂

寺の前には地蔵堂が佇んでいました。こちらの中に安置されている地蔵は江戸時代の文化13(1816)年の作と言われています。

東山を歩く

海久寺から入り組んだ東山の町中を歩きます。

興禅寺

田畑が目立つような地区に差し掛かったところに佇んでいたのが興禅寺です。

東山焼窯跡

興禅寺の裏手の山の中に石碑がありました。こちらは東山焼の窯の跡です。

今では田畑や住宅になっている東山地区ですが、かつては焼き物の産地でもありました。地名から「東山焼」と呼ばれた焼き物の生産が始まったのは江戸時代の文政5(1822)年のことです。東山村の庄屋・橋詰山三郎の弟の藤作なる人物と瓦職人の池田屋弥七なる人物が始めたとされ、この地に設けられた登り窯で茶碗や壺などの日用品を製造していました。その東山焼に目を付けたのが固寧倉を姫路藩内に広めた河合寸翁です。姫路藩の財政再建に奔走した寸翁は藩の収入を増やすために新田開発とともに、木綿や塩、皮革製品といった特産品の開発にも力を入れていました。その一つが東山焼で、東山の窯を姫路城近くの男山へ移しました。男山へ移ってからの東山焼は品質を高め、将軍家へ献上されるほどになったそうです。

興禅寺から東山を見下ろす

窯跡の傍の興禅寺からは東山地区を見下ろすことができました。

姫路藩の特産として知られるようになった東山焼ですが、河合寸翁が亡くなってからは藩での生産を終わり、その後続いた民間での生産も明治時代に入ってから終了してしまいました。今では発祥の地のここ東山に石碑が残されているばかりです。

静かな住宅地が広がる八家の東山地区ですが、町中に眠る史跡を訪ね歩くと、近世の姫路の姿を垣間見て、姫路藩の財政再建に奔走した河合寸翁の足跡を辿るような旅ができました。
いよいよ8月も終わり、秋の気配を強く感じるこの頃、八家・東山地区を歩いてみてはいかがでしょうか。

八家・東山を歩いて(前編)

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8月も下旬となり、夏の終わりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

八家駅

山陽電車で着いたのは八家駅です。

駅前の道標

八家駅の駅前には石の道標が佇んでいました。今は静かな町の八家ですが、八家川を下った先の木場には浜街道が通り、姫路や沿岸の町を巡る道の交わる交通の要衝でした。

大年神社

八家駅の近くに佇むのは大年神社です。播磨平野によくある小高い丘の中腹に佇む神社で、創建時期など詳しいことはわかっていないようですが、広い境内を持つ様子を見ていると、歴史ある神社であることが感じられますね。八家駅の山側に広がるこの辺りの地区は東山と呼ばれています。

東山固寧倉

大年神社の裏手には固寧倉がありました。

固寧倉は酒井氏が姫路城主をつとめていた江戸時代後半に藩内各所に食料の備蓄のために設けられたものです。もともとは文化6(1809)年に飾西郡町村組大庄屋らが、勝手向(財政担当)を命じられていた河合寸翁に請願したのが始まりで、幕末までに姫路藩の各村に300ヶ所近くが設けられました。現存するのはわずか5ヶ所で、ここ東山の固寧倉はその一つです。

東山の町並み

固寧倉を過ぎてからも、静かな住宅地が広がっていますが、趣のある建物が町中に点在しています。

海と山に囲まれた八家・東山地区を次回も歩いてみたいと思います。

姫路・中ノ門筋を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

前回に続いて、姫路城下を歩いてみたいと思います。

札ノ辻

西二階町から、かつての大手筋の中ノ門筋へ戻り、さらにお城を目指します。
西二階町を過ぎて次の交差点は札ノ辻と呼ばれ、その名の通り高札場がありました。こんな痕跡からも、中ノ門筋が姫路のメインストリートだったことをうかがわせますね。

国府寺家跡

札ノ辻から中ノ門筋を外れて、今度は大手前通りへ。
通りには国府寺家跡の看板が立てられていました。こちらの国府寺家も本陣を務めていて、中ノ門筋から現在の大手前通り辺りまで広がる広大な敷地を持っていたそうです。

中ノ門跡

大手前西交差点で国道2号線と交わりました。国道沿いの土塁のようなものは中堀の跡で、この辺りに中ノ門筋の名前の由来になった中ノ門がありました。この門を通り抜けると、中曲輪に入ります。

中ノ門筋と姫路城

中ノ門筋の向こうに姫路城天守閣が見えてきました。現在では大手前通りの景色が印象的ですが、本来の姫路城の大手の景色はこんな感じだったのかもしれませんね。

近世を通して、姫路のメインストリートはここ中ノ門筋でした。現在でも、姫路城の桜門橋と大手門へつながるのはこの中ノ門筋です。しかし、明治に入るとメインストリートは商店が建ち並ぶようになった御幸通りへ移ってしまいます。そして、昭和20(1945)年7月の姫路大空襲で城下町の街並みは失われてしまいました。戦後復興の中で姫路駅と姫路城を結ぶメインストリートの整備が計画され、戦後10年の昭和30(1955)年に完成します。これが現在の大手前通りで、それ以降、こちらが姫路のメインストリートになりました。現在では、駅から姫路城を目指して真っすぐ伸びる大通りは姫路を象徴するような景観となりましたね。

家老屋敷と姫路城

家老屋敷公園へ差し掛かり、道路としての中ノ門筋は姿を消しました。姫路城主酒井家の家老を代々務めた高須家の屋敷があった辺りは公園となり、和風の建物の土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。その向こうにそびえるのは姫路城です。

姫路城を眺める

山陽姫路駅近くの飾磨門跡から真っすぐ伸びていた中ノ門筋ですが、内堀に架かる桜門橋大手門で城の防御のために鍵型に曲がります。大手門の向こうは内曲輪、門の向こうに高くそびえる天守閣を望むことができました。

城を望む姫路の町は姿を変えながら現在のような姿になっていきました。かつての大手筋の中ノ門筋を歩くと、どこか近世の姫路の町を感じることができるような気がして、大手前通りを歩くのとは違った良さを感じることができます。姫路城への道はいくつもありますが、城下町・姫路を感じる中ノ門筋を歩いてみてはいかがでしょうか。

姫路・中ノ門筋を歩いて(前編)

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立秋を過ぎても暑さの続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城を眺めて

今回訪ねたのは姫路
真正面に「白鷺城」こと姫路城の天守閣がそびえています。

飾磨津門跡

姫路城を目指して、大手前通りを行きたくなるところですが、今回は大手前通りの西側、山陽百貨店の裏手から伸びる中ノ門筋を歩くことにします。山陽百貨店の裏手、山陽電車の高架沿いにあったのが飾磨津門跡でちょうどこの辺りが姫路城の外堀に当たります。外堀の内側が外曲輪でした。

中ノ門筋

山陽百貨店の裏手から中ノ門筋を歩きます。
今では人も車も少ない裏道のような雰囲気の細い道ですが、姫路城の本来の大手筋はこの中ノ門筋(中之門筋)でした。

池田輝政が今に残る姫路城を築城し城下町を整備したのは江戸時代に入ったばかりの慶長14(1609)年のことです。当時、現在の大手前通りのあたりは国府寺小路と呼ばれる細い道路に町屋が建ち並ぶ城下町の一角で、姫路城下を南北に貫くメインストリートは中ノ門筋でした。

西二階町

中ノ門筋をお城へ向かって歩くと、旧西国街道と交差します。街道沿いは「二階町」として商店街になっていて、特に大手前通りの西側は昭和59(1984)年から「西二階町」と呼ばれています。

脇本陣那波家跡

西二階町と中ノ門筋が交わる角のこの辺りは脇本陣那波家があった場所です。那波家は赤松氏の一族の宇野氏が出自とされています。もともとは相生の旧家でしたが、ここ西国街道の脇本陣を営むようになり、酒造や回漕業にも携わるようになった有力町人だったといわれています。中ノ門筋に面して西国街道に連なっていた脇本陣は広大な敷地をもっていたそうですが、現在は商店街に飲み込まれて痕跡はありません。

椀箱屋本陣三木家跡

大手の中ノ門筋を外れて、旧西国街道の西二階町を歩いてみました。
アーケード街のように見えてどこか風格を感じる商店街の中ほどにあったのが「椀箱屋」という屋号の本陣・三木家跡です。三木家は那波家と並び、名字帯刀を許された有力町人でした。余談ですが、本陣の跡地には「那波」という結納屋さんがあり、ちょっと混乱しそうになりますね。

近現代に大きく姿を変えた姫路の町ですが、都市の中にもかつての城下町の面影を感じることができます。
次回も姫路の町を歩いてみたいと思います。

鹿児の浜松が見守る浜の宮を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、浜の宮を歩いてみたいと思います。

浜宮天神社の参道

幹線道路に面した浜宮天神社の鳥居の前に立ってみました。
左右に広がるのは「鹿児の松原」と呼ばれる松林です。会話ができないくらいの蝉時雨が降り注いでいます。

門柱?

松原の外れにコンクリートの塊が転がっていました。門柱のように見えますが…。

旧陸軍航空通信学校尾上教育隊

松林の中にはレンガの建物の基礎が残されていました。こちらは太平洋戦争中、戦争末期の昭和19(1944)年に置かれた旧陸軍航空通信学校尾上教育隊の施設の跡です。

今は住宅地が広がる浜の宮から尾上の松にかけての一帯には、戦時中、「尾上飛行場」とも呼ばれる旧陸軍加古川飛行場が開かれました。播磨灘沿岸の工業地帯の防衛のためだけでなく、戦争末期には鹿児島県にあった知覧基地へ向かう特攻隊の中継基地としても使われたそうです。一帯にはそれに関連した軍事施設が設けられ、この浜の宮もその一つでした。松林の中には通信兵を教育する尾上教育隊の兵舎だけでなく、グラウンドや集会所、陸軍病院などもありました。戦後の一時期、兵舎は浜の宮中学校の校舎として使われていたそうですが、今は取り壊されてしまい、跡地は浜の宮公園や浜の宮中学校となりました。一部の建物の基礎はこうして松林の中に残されています。

階段の跡

公園の中には階段が残されていました。
尾上教育隊の施設は姿を消し、加古川飛行場も住宅や商業施設となり、今は残されていません。終戦から80年近くになろうとしている今、戦争の時代は遠い昔のようにも感じますが、今と変わらないコンクリート造りのこうした設備の残骸を見ると、戦争の時代を少し身近なものに感じるような気がします。

浜の宮公園

松林の向こうには浜の宮公園の市民プールが広がっています。楽しい施設と戦争の遺跡が隣り合っている光景にはいろいろと感じるものがありますね。

今の平和な時代に感謝しながら、蝉時雨の降り注ぐ浜の宮を後にすることにしました。