せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

人類の進歩と調和・万博記念公園を訪ねて(前編)

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新緑が徐々に深い緑色に染まりつつある頃、いかが過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大阪モノレール

梅田から地下鉄と大阪モノレールで着いたのは万博記念公園駅です。

太陽の塔

駅を出て中国自動車道を渡った先は万博記念公園です。真正面では太陽の塔が出迎えているようにそびえていました。

大阪府吹田市の丘陵地帯に広がる万博記念公園はその名の通り、今から半世紀前の昭和45(1970)年に開催された「大阪万博」こと日本万国博覧会の会場跡地に作られた公園です。日本万国博覧会は「人類の進歩と調和」をテーマとして最先端技術を活用したパビリオンが建ち並んだ会場はまさに未来都市で、およそ半年の開催期間中に訪れた人は6400万人にのぼりました。万博の六年前の昭和39(1964)年に開催された東京オリンピックと並び、発展する日本を象徴するようなイベントでした。

国立民族学博物館

公園の奥にあったのは国立民族学博物館です。民俗学や文化人類学などに関して研究や展示をおこなう博物館で、開館は万博後の昭和52(1977)年ですが、万博開催当時に太陽の塔を含むパビリオンの一つだった「テーマ館」の展示のために集められた資料が収蔵されています。万博開催から半世紀以上経ってもこうして当時の展示が現在の研究に生かされているのですね。

大阪日本民藝館

国立民族学博物館のさらに奥にあったのが大阪日本民藝館です。こちらは万博開催当時の日本民藝館が大阪府、そして、万博記念協会へと譲渡されて、美術館となった施設です。館内には日本に古くから伝わる美しい民芸品が展示されていました。

大阪日本民藝館の中庭

大阪日本民藝館の建物を通り抜けると中庭が広がっていました。回廊状になった建物に囲まれて、初夏の青い空が広がっています。今は静かな美術館ですが、万博開催当時は多くの人で賑わっていたのでしょうか。

大イベントの開催から半世紀、当時の興奮を訪ねて万博記念公園をもう少し歩いてみたいと思います。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

宮水発祥之地の碑

西宮の住宅地を歩いていると、植栽に囲まれた石碑を見つけました。こちらは宮水発祥之地の碑です。

住宅地や西宮神社の門前町として知られる西宮は灘五郷の一つ「西宮郷」とされ、灘五郷の中でも最初に酒造りが始められた地域とも言われています。室町時代、当時関西の酒造の中心であった北摂の伊丹から雑喉屋文右衛門なる人物が西宮へ移り住み、酒造業を手掛けるようになったのが始まりとされています。その後、西宮郷を始めとする灘五郷は北摂の伊丹や池田に代わって酒造業の中心となり、西宮郷の酒は「西宮の旨酒」と呼ばれて大変な人気となったようです。

宮水井戸場

宮水発祥之地の碑の傍には様々な酒造メーカーの名前が掲げられた「井戸場」がありました。各社はこちらで宮水を汲み上げ、酒造りに使っています。

六甲山地を流れる川の流れを利用した水車で効率的な精米ができることや、すぐそばの大阪湾岸の港から製品を出荷できたことから西宮を始めとする灘五郷は酒造地として発展していきますが、それを後押ししたのが江戸時代の終わりに発見された「宮水」でした。天保8(1837)年または天保11(1840)年、今も魚崎に現存する酒造メーカーの櫻正宗の当主だった山邑太左衛門が発見したと言われています。当時、魚崎と西宮で酒造会社を営んでいた山邑は魚崎と西宮とで酒の味が違うことに気づき、その要因が水にあることを突き止めました。以後、この水は「西宮の水」そして略して「宮水」と呼ばれるようになり、各社が争うようにこの水を使って酒造りを始めるようになります。宮水の力で西宮郷の酒造業がさらに発展することとなりました。

井戸場を眺めて

住宅地の中に佇む各社の井戸場は植栽やフェンスに囲まれていて、大切に守られていることがよくわかります。江戸時代の終わりに発見された宮水は六甲山のミネラルを豊富に含む硬水で、酒造りには非常に適しているようです。この宮水を守るため、西宮市では「宮水保全条例」が制定されていて、指定された地域で地下水へ影響を与える可能性のある大規模な建築工事を行う際には市への届け出や協議が必要とされています。

酒蔵通り

井戸場の浜側へ歩くと、東西の道と交わりました。こちらは通称「酒蔵通り」と呼ばれていて、通り沿いには酒造メーカーや飲食店が建ち並んでいます。

東川

酒蔵通りを歩いていると川がありました。この川は東川で、この下流には酒の積み出し港となった今津港がありました。今は住宅地や緑地に囲まれた川ですが、かつては酒を積んだたくさんの船で賑わったのでしょうか。静かな川は門前町、宿場町、そして、酒造の中心地という様々な姿を積み重ねてきた西宮の姿を見つめてきたのでしょうか。

お土産に日本酒を買って、初夏の風が吹き抜ける西宮を後にすることにしました。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

西宮神社本殿

西宮神社の本殿は改修工事中で、参拝は仮拝殿でした。大きな社殿を目にすることができないのが残念ですが、これはこれで今しか見られない貴重な光景ですね。

本陣跡と蛭児大神御輿屋傳説地碑

西宮神社を後にしてから表大門から続く道を歩くことにします。こちらはかつての西国街道です。かつての西国街道の本陣があった場所には「蛭児大神御輿屋傳説地」と刻まれた石碑がありました。

前回ご紹介しましたが、西宮神社の創建の伝説では鳴尾の漁師が海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。当初、漁師は神像を自宅で祀っていました。しかし、ある夜に神像が漁師の夢に現れて、自分は蛭児神であること、そして、鳴尾から西にある宮地に祀ってほしいとお告げがあったそうです。お告げを受けた漁師は仲間とともに蛭児神を輿に載せて西へと運びましたが、途中で蛭児神が眠り込んでしまったので尻をつねって起こしました。その場所がこの「蛭児大神御輿屋傳説地」とされています。時代が下がり、近世にはこの辺りは西宮神社の門前町と西国街道の宿場町として栄えたそうです。特に、宿場町としては西国街道や山崎街道、中国街道が交わる交通の結節点で、多くの人や物資で賑わったとされています。現在、宿場町の面影をしのぶことができるものはあまり残されていませんが、建て込んだ街並みにかつての賑わいを感じることができます。

札場跡

西国街道と交わる南北の道は札場筋線です。その名の通り、西国街道との交差点には札場があったとされていて、現在では交番になっていました。

宮水

阪神高速の高架を潜った先には小さな公園があり、「宮水」についての説明看板が建てられていました。門前町、宿場町として栄えた西宮ですが、西宮を歩く中で欠かせないのがこの宮水ではないでしょうか。

次回ももう少し西宮を歩いてみたいと思います。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(前編)

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少し肌寒い日が続きますが、日差しにはどこか夏の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神西宮駅

直通特急で着いたのは西宮駅です。
阪神本線の主要駅なこともあり、駅の中や周辺は店舗が建ち並んで賑やかな雰囲気です。

西宮の街並み

住宅地のイメージが強い西宮ですが、阪神西宮駅の周辺には昔ながらの街並みが続いていています。

西宮神社表大門

街中に土壁に囲まれて佇んでいたのが西宮神社です。こちらの表大門は「赤門」とも呼ばれ、その名の通り、かつての西国街道に面して朱塗りの楼門がそびえています。

西宮神社の創建時期は詳しくわかっていませんが、非常に古いといわれています。伝説でははるか古代、西宮の東の鳴尾に住んでいた漁師が神戸・和田岬の沖合で海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。時代が下り、平安時代にはこの地から北に鎮座する廣田神社の境外摂社の「浜の南宮」「南宮社」と呼ばれる社の境内の夷社となりました。この夷社が中世から近世にかけて夷信仰の広まりとともに知られるようになり、発展していきました。

南宮神社

西宮神社の境内には南宮神社がありました。こちらは今も廣田神社の境外摂社とされています。

全国から信仰を集め、「浜の南宮」よりも大きな神社へと発展した西宮夷社は明治時代に入ると廣田神社から「大国主西神社」として分離し、のちに現在の呼び名である「西宮神社」となりました。ちなみに、「西宮」と言えばこちらの西宮神社が思い浮かびますが、地名の由来となった「西の宮」とは本来は廣田神社のことを指し、廣田神社自体や廣田神社の荘園を「西宮」と呼んだことに因んでいます。

西宮神社の境内

松の木が青々として眩しいくらいの境内を涼しい浜風が吹き抜けていきます。

神池のカキツバタ

境内の神池にはカキツバタが鮮やかな花を咲かせていました。

西宮神社と西国街道の町、西宮をもう少し歩いてみたいと思います。

古代人の足跡・垂水を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて垂水を歩いてみたいと思います。

縄文人の足跡

垂水駅前のビル「レバンテ垂水1番館」の地下にある垂水日向遺跡展示コーナーには縄文人のものとされる足跡が展示されていました。レバンテの建設時の発掘調査で、この辺りからは砂浜を歩いた縄文人の足跡が多数見つかったそうです。

垂水中央東地区再開発事業

「レバンテ垂水1番館」の西側では市場や商店の建ち並んでいたエリアが垂水中央東地区再開発事業として工事中です。

垂水日向遺跡は昭和63(1988)年より長年に渡って調査が続けられていて、つい最近工事が始まったこの地区でも発掘調査が行われました。やや内陸に入ったこちらでは時代が少し下った奈良時代から平安時代にかけての遺構が見つかっています。ここ垂水は奈良時代から平安時代の末頃にかけて、奈良・東大寺の荘園で「垂水荘」と呼ばれていました。発掘調査では当時のものとされる建物の遺構や硯を始めとする遺物が見つかり、一時一般公開されていました。

海神社

山陽電車とJRの高架を潜って浜側へ出てみました。JR垂水駅のすぐ浜側にあるのが海神社です。

海神社の境内

海神社ははるか古代、神功皇后が社殿を建立したことに由来するという伝説が伝わる古社です。伝説にももちろん興味深いものがありますが、これまで垂水の遺跡を歩いてから訪ねると、海の幸に恵まれて古くから人々の営みがあったこの地に海の神をまつる神社が自然と建立されたのではないか。そんな気もしてきました。

海神社からの眺め

海神社から海側を眺めてみます。鳥居の向こう、漁協の建物越しに大阪湾を眺めることができました。青々とした初夏の海沿いを少し歩いてから、垂水を後にすることにしました。