せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

加古川を見下ろす山・日岡を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加古川の日岡を歩いてみたいと思います。

日岡神社

参拝客で賑わう日岡神社の境内。現在の社殿は戦後、火災で焼失したものを再建したものです。

常楽寺

日岡神社の南東に寺院がありました。こちらは常楽寺です。境内は静かで、日岡神社の賑わいからは離れた落ち着いた雰囲気です。

宮内庁管理

常楽寺の裏手の山へ続く道を歩いてみると、厳重な柵と「宮内庁」の文字がありました。以前、神戸市西区の王塚古墳を訪ねた時に見かけたような気が…。

日岡の陵

もうお気づきでしょうが、この山にあるのは宮内庁の管理する陵墓「日岡陵古墳」です。

日岡陵古墳は日岡山の山頂にある古墳です。木々に覆われた今はわかりにくいのですが、五色塚古墳などと同じ前方後円墳で、航空写真などを見ると鍵穴型の古墳の形が何となくわかります。被葬者はわかっていないのですが、日岡神社の祭神・天伊佐佐比古命(あめのいささひのみこと)が安産祈願をしたという景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の陵墓に指定されています。

日岡陵古墳

山道を登り詰めると鳥居と玉垣が見えてきました。山頂付近のこの辺りは前方後円墳の前方部の底面を眺めるような位置です。

この山や神社、加古川線の駅の名前は「日岡」ですが、麓には「氷丘」と書いて「ひおか」と読む学校名もあります。この「ひ」はもともとは「日」でも「氷」でもなく「火」であったとされ、この日岡山が火を焚く…烽火を上げる山だったからと言われています。山頂からは加古川の市街を一望することができ、また、加古川市街からもこの山はよく見えます。日岡陵古墳の被葬者は不明とされていますが、この立地を考えると、加古川下流域のこの辺りを治めた有力者なのではないかという気がします。

加古の流れ

日岡山からは加古川を眺めることができました。この加古川の名前も、日岡山が鹿の背に似ている、日岡山から眺めた加古川の中州が鹿のように見えたなどの伝説から「鹿児川」と呼ばれるようになり、後に「加古川」と書かれるようになったとも言われています。

播磨平野にそびえる日岡山と日岡陵は今も加古の流れを見守っています。

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加古川を見下ろす山・日岡を訪ねて(前編)

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寒さも厳しいころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

加古川線

加古川駅から一両の電車に乗って到着したのは加古川線の日岡駅
加古川の隣駅ですが、のどかな景色が広がっています。

日岡駅

日岡駅は加古川線の前身の播州鉄道が設置した駅で、100年以上の歴史があります。駅舎は戦後に改築されたものですが、昔ながらの木造駅舎が残っています。

日岡の街並み

駅から歩いてみることに。加古川沿いにそびえる小さな山の麓に日岡の街が広がっていました。

随身門

街の北側、山の麓に立派な門がありました。こちらは日岡神社随身門です。

日岡神社は東播磨地域では大きな神社で、読者の皆様の中には初詣に訪れたという方も多いのではないでしょうか。大きなだけでなく、古い歴史を持っていて、創建時期はわかっていないものの、一説には奈良時代の天平年間に遡ると言われています。紀元前の第12代景行天皇の皇后の安産を祈願した天伊佐佐比古命(あめのいささひのみこと)をまつることから、安産の神様とされ、多くの人々の信仰を集めています。

日岡神社の境内

まだ正月の雰囲気の残る境内は多くの参拝客で賑わっていました。安産の神様として知られていることから、安産祈願で訪れる人も多く見かけます。

日岡は日岡神社の街…と言いたいところですが、神社の背後にそびえる日岡山にはさらなる史跡があります。次回は日岡山へ登ってみたいと思います。

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太山寺への道・妙法寺川を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、板宿から妙法寺川沿いに歩いてみたいと思います。

那須神社前

禅昌寺から再び市バスに乗り、那須神社前で降りることに。バス停の傍には神社への道がありました。

北向八幡神社

木々の中の細道を歩くと、社殿が建ち並ぶ広場に出ました。こちらは北向八幡神社の境内です。北向八幡神社は大国主命を祀っていて、その名の通り、出雲の方角の北を向いて社殿が建てられています。

平安時代の治承4(1180)年に始まる、治承・寿永の乱…、所謂源平の合戦の際、弓の名手として知られる武将・那須与一は源義経の命でこの北向八幡神社へ武運長久を祈って参拝に訪れ、守護神として信仰したと言われています。その伝説からか、妙法寺川沿いの山中に佇むこの神社は那須与一ゆかりの神社として知られています。

那須神社

北向八幡神社の境内には那須与一を祀った那須神社もあります。現在ではこちらの神社の方が有名になってしまい、神戸市バスのバス停名にもなっています。

萩の寺

北向八幡神社の裏山には寺院が。こちらは「萩の寺」こと明光寺です。こちらの寺院は歴史ある禅宗寺院とのことですが、寺院として整えられたのは江戸時代に入ってからといわれています。秋には境内の萩の花が美しいそうです。

那須与一公墓

北向八幡神社から道路を挟んで向かい側には碧雲寺という寺院があります。この寺院の境内には那須与一の墓があり、「那須与一公墓」の名前の方が知られているようです。伝説では、那須与一は北向八幡神社へお礼参りに訪れた際に亡くなり、この地に墓が造られたとのこと。ただし、那須与一の墓は全国にいくつかあるようで、本墓とされているのは京都・東山の寺院にあるものと言われています。この辺りの真相は謎ですね。

妙法寺川沿いの道

古来より多くの人々が行きかい、歴史の舞台となった妙法寺川沿いの道はここから白川峠を越えて太山寺、そして、明石へと続いていきます。この先を訪ねてみたいところですが、それはまたの機会としましょう。

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太山寺への道・妙法寺川を歩く(前編)

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寒さの厳しいころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

板宿駅

今回山陽電車で着いたのは板宿駅
地下駅の上には賑やかな商店街や市場が広がっています。

山への道

ここ板宿から山陽電車は須磨・垂水へと南西に向かいますが、交通量の多い県道はここで大きく北へカーブして、妙法寺川沿いに三木へと続いていきます。古代の山陽道は難所であった須磨海岸を迂回するため、県道と同じく妙法寺川に沿って北上し、白川峠を越えて太山寺へと続いていました。今回はこの道を少し辿ってみたいと思います。

禅昌寺前

駅前から神戸市バスに乗って着いたのは禅昌寺前

禅昌寺山門

バス停から程なく、禅昌寺がありました。
竹藪の中に山門が静かに佇んでいます。

禅昌寺は臨済宗南禅寺派の禅寺です。創建は南北朝時代の延文年間とされ、非常に長い歴史を持っています。古代山陽道や三木への街道沿いにあったことから、戦国時代、豊臣秀吉の三木合戦で堂宇は焼失、後に秀吉の桃山御殿の建物を移築して方丈としたそうです。現在の建物は明治時代に焼失したものを再建したものとのこと。

禅昌寺の境内

竹藪に囲まれた寺の境内は、山の中にあるだけあって静寂に包まれていました。

太山寺、明石、三木へと多くの人々が行きかった妙法寺川沿いの山越えの道には多くの史跡が残されています。次回、もう少し川をさかのぼってみたいと思います。

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明石市街を一望・人丸山に上る(後編)

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新年あけましておめでとうございます。
今年も山陽沿線ブログ「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします。

今回は前回に続いて、明石の人丸山を歩いてみたいと思います。

時の道

柿本神社の前を通るのは時の道です。石畳の道は風情がありますね。

月照寺

時の道に面して、月照寺がありました。

月照寺は平安時代の弘仁2(811)年に創建されたと伝わっています。創建当時の名前は楊柳寺。前回訪れた柿本神社の始まりといわれる祠が造られた寺です。この祠が造られた際に寺号を「月照寺」と改め、今に至っているとのこと。ただし、創建の地であった赤松山には明石城が築城されることとなり、現在の場所は柿本神社とともに江戸時代の元和5(1619)年に移ったものです。ちなみにこの地が「人丸山」と呼ばれるようになったのもこの時のことだそうです。

月照寺の境内

現在の月照寺の境内は広いわけではありませんが、整備された庭園は美しく、まるで京都や奈良の寺院のようですね。

月照寺山門

境内の西には山門があります。こちらはもともと伏見城の城門を移築したもので、明石城の城門として使われていたのが明治時代にこの地に移築されたものです。

亀の水

人丸山の麓に降りると、湧水がありました。こちらは「亀の水」です。もともとは江戸時代にこの地に移ってきた月照寺・柿本神社の手水として使われていたのですが、水の美味しさから名水として知られるようになったそうです。

雲晴寺

人丸山の麓の街中に寺院がありました。こちらは雲晴寺です。雲晴寺の創建時期は詳しくわかっていないようですが、江戸時代の寛永16(1639)年に当時の明石藩主・大久保忠職が姉の夫で現在の千葉県の安房館山藩主だった里見忠義を弔うために寺を整備した際に「雲晴寺」という寺号がつけられたとされています。ちなみにこの里見忠義は江戸時代の小説『南総里見八犬伝』のモデルと言われています。

宮本武蔵の庭園

本堂の裏手には宮本武蔵が作庭したものを復元した庭園がありました。江戸時代の明石城下の街づくりに宮本武蔵は深く関わっていたと言われています。雲晴寺は武家屋敷の建ち並ぶ街の東の端に位置し、広い伽藍を持って城下町の外側の寺町を形成していました。人丸山もこの雲晴寺も明石城と城下町とともに生まれた地域とでも言えるでしょうか。

今では賑やかな港町の姿の明石ですが、こうして歩いてみると、城下町として生まれ発展してきた歴史を少しずつひも解いていくような気がします。雲晴寺から山陽電車の高架沿いに歩き、現代の明石の中心市街へ戻ることとしました。

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