せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

異人館の街・北野地区を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて北野地区を歩いてみます。

北野天満神社

北野町の山側に小さな神社がありました。こちらは北野天満神社。北野地区の「北野」という地名はそもそもこの北野天満神社に由来していると言われています。さらにこの神社の名前はというと、やはり、京都・北野天満宮に由来しているのでしょうか。異国情緒溢れる北野の地名が神社の名前に由来しているというのはなんだか不思議な感じですね。

北野天満神社より

急な石段を登った北野天満神社の境内からは神戸の街が一望できました。天気が良ければ、まさに観光ガイドなどでよく目にする写真が撮れそうですね。

風見鶏の館

北野天満神社を降りたところにあるのが「風見鶏の館」こと旧トーマス邸です。異人館街の中では一番有名な建物でしょうか。

旧トーマス邸が建てられたのは明治42(1909) 年頃のこと。ドイツ人貿易商のゴッドフリート・トーマス氏が自邸として建てたものです。建てられた当時、異人館街は既にある程度成立していましたが、その中にあっても赤レンガを使った建物はたいへん目立ったことでしょう。後に第一次世界大戦で日本とドイツが敵対することになった際に邸宅は売却され、現在は神戸市の所有となり、美しく整備されて一般に公開されています。

北野交番

トーマス氏の名前が付いたトーマス坂を下り、西に歩いていくと、北野交番がありました。交番の屋根にはフクロウの像があり、道行く人を見下ろしています。

神戸に住んでいると逆になかなか訪れることのない北野地区ですが、ゆっくり歩いてみると新しい発見があるかもしれません。これから秋の行楽シーズン。北野地区でちょっとした旅気分はいかがでしょうか。

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異人館の街・北野地区を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて北野地区を歩いてみます。

雨の坂道

横道の急な坂道を歩いてみることにしました。アスファルトが雨に濡れて何だか情緒があります。

坂の途中の異人館

坂道の途中に異人館がありました。家や柵は洋風ですが門だけ和風で、何だか不思議な雰囲気です。こちらは結婚式場になっているようで訪れた際も結婚式の最中のようでした。

神戸市街を見下ろす

坂道を登りつめると神戸市街を見下ろすことができました。晴れていればよかったのですが、雨でも神戸の市街の広がりを感じることができます。

異人館で知られる北野地区ですが、今のような街並みになったのは幕末から明治にかけての頃から。幕末に開港地に選ばれた神戸では他の開港地と同じく外国人居留地が設けられました。しかし、以前にも説明しましたが、外国人居留地の造成工事は遅れ、江戸幕府から事業を引き継いだ明治政府は暫定措置として西は宇治川、北は山麓までを雑居地として定め、日本人の住むエリアにも外国人の居住を認めました。北野地区はその雑居地の一つで、戦災や開発を免れたために当時の建築が多く残されていて、神戸を代表する観光地となっています。

六芒星の石

道端に六芒星の描かれた石を見つけました。
この石の由来は不明ですが、六芒星といえばユダヤ教。ユダヤ系の方が住んでいたのかもしれません。

次回は坂道を降りて引き続き異人館街を歩いてみたいと思います。

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異人館の街・北野地区を歩く(前編)

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初秋の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

新神戸駅

今回スタートしたのは秋雨の新神戸駅。

坂道を歩く

山裾にある新神戸駅から歩くと早速坂道が。街中とはいえ、神戸で坂道は避けられません。雨で暗いのですが、坂道の途中にはチャペルがあったりして観光ガイドに出てくるような神戸の雰囲気を感じられます。

北野浄水構場碑

坂道の途中に「北野浄水構場」と書かれた石碑がありました。こちらはこの地にあった北野浄水場の跡を示す石碑です。

神戸に近代水道が生まれ、給水を開始したのは明治33(1900)年のこと。六甲山地の貯水池や神戸市北区・三田市・宝塚市に跨る千刈貯水池から神戸市街へ水を供給するもので、神戸の人口増とともに拡張が繰り返され、現在も一部は水道として機能しています。北野浄水場はこの神戸水道の一環として、神戸市街の山手の地区への給水を行なうために設けられました。平成15(2003)年には兵庫区の奥平野浄水場との統合で廃止され、跡地は神戸の街を見下ろす結婚式場となっています。石碑の横の黒いドラム缶のようなものは明治時代に敷設された水道管だそうで、こちらも平成21(2009)年まで現役の水道管として使われていたそうです。

北野町

坂道を登りつめると北野町に出ました。
異人館が建ち並ぶ景色は観光地としての神戸らしい景色。神戸に住んでいると逆になかなか訪れる機会がなく、ちょっと新鮮な気分になってしまいます。

次回は異人館の街を歩いてみたいと思います。

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淀川を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて、大阪は淀川界隈を歩いてみたいいと思います。

川跡か?

円稱寺から街中を歩いていると、不自然なカーブを発見しました。
この辺りはかつての川筋に相当するので、川跡に沿って道が造られたのか? とテンションが上がったのですが、どうも、地図を見ても川の流れには一致しません。かつての里道が道路にでもなったのでしょうか。

塚本神社

妙に複雑な町割りの中を歩いて行くと着いたのが塚本神社。こちらはかつて淀川左岸にあった塚本村の鎮守で、かつては八坂神社と呼ばれていたのが明治時代に中津村の富島神社に合祀されたものです。この地に戻ったのは昭和に入ってからのこと。塚本神社としての歴史は浅いのですが、元はと言えば中世にこの地に祀られた牛頭天王社が発祥だそうで長い歴史をもっています。

川跡の道

塚本神社から塚本の町を歩いて行くことに。塚本は、現在は周辺の市街地と一体になっていますが、もともとは前回の成小路と同じく、淀川左岸の集落でした。村は先ほどの塚本神社の位置にあった八坂神社から南西に広がっていたようで、今の塚本の市街地からは少しずれています。緩やかなカーブを描くこの道は塚本村の北側の淀川左岸に当たる位置を通っています。今となってはここを川が流れていたとは思えないような、住宅地が広がっています。

塚本如来塚

川跡から少し南に歩くと、「塚本如来塚」というお地蔵さんにたどり着きました。
説明によれば、この塚は建武年間に築かれたという大変古い歴史をもつとのことで、もともとは海老江新家・浦江の両村との村境にあったとのこと。古地図を見ると、その「海老江新家」「浦江」はいずれも新淀川が流れる位置にあるようで、今は見る影もありません。塚自体も淀川改修工事の際にこの位置に移されたとのこと。お堂の説明では、この塚の本が塚本の地名の由来のような書かれ方をしているのですが、他に「槻本」という地名が由来という説もあり、はっきりしません。ちなみに、この塚のお堂には古い絵図が掲げられていて、かつての塚本村の姿を忍ぶことができます。

塚本駅

市街地を抜けると、JR東海道本線の塚本駅に着きました。
塚本駅が開設されたのは戦前の昭和9(1934)年のことで、塚本の長い歴史からすれば随分と新参者です。

塚本駅から大阪方面行の電車に乗ると、程なく淀川の鉄橋に差し掛かります。新快速や快速で通り過ぎると一瞬で過ぎ去ってしまいますが、淀川を巡る旅の後に各駅停車の列車から眺めてみると、途方もなく大きく感じ、そして、この川を人の手で作ったということに驚かされるような気がしました。

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淀川を歩く(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪は淀川界隈を歩いてみたいいと思います。

成小路

淀川の堤防を降りて街中に入ってみました。
古い地形図を見ると、今歩いているこの辺りには「成小路」という名前の村があったようです。現在は淀川の右岸にありますが、かつての淀川は下流で大川・中津川・神崎川の三つの川に分かれていて、そのうちの中津川は前回訪れた「十三渡し」の付近から北へ大きく蛇行し、この辺りは中津川の左岸にあたりました。地図を見るといかにも洪水が起きそうな川の流れ方で、実際、この界隈は幾度となく洪水被害に悩まされたそうです。

円稱寺

街中にあったのは円稱寺という寺院です。

淀川改修中津村旧址記念碑

この寺院の境内には「淀川改修中津村旧址記念碑」という石碑がありました。「中津村」とは、成小路村を含む周辺の村が合併して明治時代に成立した村です。しかし、「旧址」の言葉からわかるように、中津村の村域の多くは、現在は淀川の川底となっています。

先述のように、近世までの淀川は平地の広がるこの界隈で大きく蛇行して流れていました。そのために幾度となく洪水が発生し、そのたびに多くの被害を出していました。この淀川で改修工事が始まったのは明治29(1896)年のこと。沖野忠雄という土木技師の設計で、中津川の流路をもとにした「新淀川」を開き、大川と神崎川の分流地点には堰を築いて流量を調整するようになりました。先ほど見てきた中津村のように多くの住民が移転する大工事となりましたが明治43(1910)年に完成しました。この工事は日本最初の本格的な治水工事とされ、沖野忠雄は淀川でのノウハウを北海道の石狩川の改修に生かしたそうです。

謎の石像

円稱寺の植え込みには謎の生き物の石像がありました。長年の風雨にさらされて輪郭が曖昧になっているところが何だか可愛らしくもあるのですが、これは一体…? 獅子のようにも見えますが…。ネットで調べてみたところ、それなりに知られた存在みたいで画像は出てくるのですが、その正体は結局わかりませんでした。

謎の石像に見送られながら、円稱寺を後にしました。
次回はさらに淀川界隈を巡ってみたいと思います。

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