せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

神戸を目指した道(前編)

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夏も終わりの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神神戸三宮駅

山陽電車を乗り継いで到着したのは阪神神戸三宮駅です。
大阪からやってきた直通特急には高砂の秋を彩る「たかさご万灯祭」のヘッドマークが掲出されていました。

フラワーロード

駅から地上に上がると、三宮の街並みが広がっています。南北に通る通りはフラワーロードで、通りの上には秋を思わせる爽やかな青空が広がっていました。

現在は岩屋駅から地下を走る阪神電車の阪神本線ですが、かつては地上を走っていました。明治38(1905)年に大阪の出入橋から神戸への路線が開業した当初、阪神電車の「神戸駅」は現在の三宮駅付近に設けられました。その後、大正元(1912)年にはフラワーロードを南下し、さらに「滝道」まで延伸され、滝道が「神戸駅」、かつての神戸駅が「三宮駅」と名乗るようになりました。「滝道」とはフラワーロードの古い呼び名で、旧生田川を埋め立ててて作られた大通りが布引の滝へ続いていることからつけられたものです。そんな滝道駅があったのは神戸国際会館の前辺りでした。神戸市電との接続駅で、ホーム全体を覆う屋根が設けられた駅だったそうですが、今では何の痕跡もありません。

三宮センター街東口停留所

かつて滝道駅のあった場所の少し山側に阪神バス三宮センター街東口停留所がありました。阪神滝道駅が昭和8(1933)年に阪神本線の地下化に伴って廃止された後もこの場所には神戸市電の停留所が残りましたが、ターミナルとしての機能を失ったためか、市電の路線の再編で昭和10(1933)年に廃止されてしまいました。

三ノ宮駅前

かつての線路跡を辿って歩いてみることにしました。滝道を出たかつての阪神電車は三宮に停まります。当時の三宮駅はJR東海道本線に沿うような位置にあり、ちょうどポートライナーの三宮駅の辺りにあったそうですが、こちらも街並みが大きく変わったせいで痕跡はありません。駅前では新駅ビルの建設工事が進んでいて、この景色はさらに変わっていきそうですね。

変わりゆく街並みの中に消えていったかつての鉄道の痕跡を訪ねていきたいと思います。

武庫川を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、武庫川沿いを歩いてみたいと思います。

中国街道

現在は「琴浦通り」と呼ばれている通りはかつては国道で、西宮で西国街道ともつながっていたことから「中国街道」と呼ばれていました。今では住宅街の道路ですが、松並木や漆喰の塀を模した塀が設けられていて、街道として賑わっていた当時の風情を今に伝えているようです。

武庫川

琴浦通りを西へ向かうと、武庫川に差し掛かりました。青空の下に穏やかに流れる川面が広がっています。今渡っている武庫川橋の下流に架かるのは阪神電車の武庫川橋梁で、橋の上には武庫川駅のホームが見えます。

岡太神社

武庫川を渡り、西宮市に入ったところには神社がありました。こちらは岡太神社です。

岡太神社の境内

岡太神社の境内は木々に囲まれていました。社殿は阪神淡路大震災で倒壊したのを再建したもので、真新しいコンクリート造りです。

岡太神社はここ鳴尾地域で最も古い神社とされています。社伝では、平安時代にこの場所から北西の廣田の人々が新田を開発して、延喜元(901)年に廣田明神を祀る神社を創建したのが始まりとされています。境内で目立つのが狛犬の代わりに鎮座するイノシシ像です。現在西宮神社に祀られている戎神は元々鳴尾で祀られていて、毎年正月九日にはここ岡太神社で恵比寿大神が災害を防ぎ五穀豊穣を祈る静止(しし)打神事が執り行われていて、神事の妨げにならないように村の人々は斎籠(いごもり)をしていました。この神事の静止と猪をかけて、イノシシが神社の使いとなったそうです。イノシシ像はそれに因んで昭和60(1985)年に建立されたものです。

平重盛供養塔

境内には供養塔がありました。こちらは平清盛の嫡男である平重盛の供養塔と伝わっています。平安時代、この辺りは平氏の所領で、重盛が「小松内府」と呼ばれていたことから「小松庄」と呼ばれていました。かつてこの神社の近くにあった「伏松」という丘には「小松城」とも呼ばれる重盛の居館があったと伝わっています。

岡太社碑

境内には古い石碑が夏の日差しを浴びて佇んでいました。

今は住宅地の広がる尼崎や西宮の武庫川沿いですが、古くからの伝説に彩られた史跡が街の中に佇んでいることに驚かされるようです。台風の季節ですが、嵐が去れば気候の良い季節が訪れるはず。少し足を延ばして歩いてみてはいかがでしょうか。

武庫川を歩いて(前編)

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お盆を過ぎ、秋の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

尼崎センタープール前駅

直通特急を乗り換えて着いたのは阪神電車の尼崎センタープール前駅です。駅前にはその名の通り、尼崎競艇場が広がっています。

大庄町

尼崎センタープール前駅から離れると、静かな住宅地が広がっていました。今では競艇場や市街地になっているこの辺りですが、かつては田園地帯で競艇場のある辺りには湿地帯が広がり、蚊などの害虫に悩まされていたそうです。また、センタープール前駅の周辺は道意新田、北側のこの辺りは東新田といった地名が古い地形図には記されています。

琴浦神社

大庄町の街中に佇んでいたのが琴浦神社です。

琴浦神社の境内

木々に囲まれた琴浦神社の境内には蝉時雨が降り注いでいました。

今は小さな神社ですが、神社の前の通りが「琴浦通り」と呼ばれていることからもわかる通り、琴浦神社は歴史ある神社です。かつては海に面した高台だったそうで、周辺とは異なる景勝地だったことから「異浦」とも呼ばれていたとのこと。神社の祭神は平安時代の嵯峨天皇の皇子・源融です。源融は光源氏のモデルとも言われていて、京都六条に造営した河原院という邸宅に今の宮城県の塩釜を模した庭園を造り、モデルにした塩釜と同様に庭園で塩を焼くため、毎日ここ琴浦から潮水を京都へ運んだそうです。今では市街地となり、そんなのどかな景色が広がっていたとは思えませんね。

琴浦通りを歩く

琴浦神社の前の琴浦通りはかつて中国街道と呼ばれていて、道路沿いには街道の風情を伝える塀が設けられていました。この道は武庫川に架かる武庫川橋へと続いていきます。

次回、もう少し武庫川沿いの街を歩いてみたいと思います。

明石上ノ丸・宮本武蔵の庭園を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石を歩いてみたいと思います。

上の丸へ

明石公園から東側の坂道を歩いていくことにしました。前回も訪ねてきたように、明石城は六甲山地から緩やかに続く丘陵にあり、城の背後にはこうした高台が広がっていて、一帯は上ノ丸と呼ばれています。

明石神社

上ノ丸の高台に小さな神社がありました。こちらは明石神社です。社殿はコンクリート造りですが、江戸時代からの歴史ある神社で、境内には明石城で時刻を告げるために鳴らされていた「明石城太鼓」(とき打ち太鼓)が保存されています。

妙見社

明石神社から坂道を下ると、民家の建ち並ぶ中に鳥居がそびえているのが見えました。こちらは妙見社で、隣接する本松寺の鎮守社です。創建時期ははっきりとはしていませんが、祀られている妙見尊は島左近が祀っていたとされています。青楓の美しい境内には庭園が広がっていました。初夏にはつつじの花を楽しむことができるそうです。

本松寺

妙見社の傍に佇んでいたのが本松寺です。

本松寺は安土桃山時代の慶長元(1596)年に秀吉の家臣だった藤井新右衛門勝介という人物の寄進によって創建されたと伝わっています。当時の明石の城は現在の場所ではなく山陽電車西新町駅近くの船上にあり、創建当時の本松寺も船上城下にあったそうです。現在の明石城が築城された後も寺は船上に残されていましたが、江戸時代の元禄4(1691)年に現在の場所へと移っています。

宮本武蔵の庭

明石城を築城した小笠原忠政に仕え、明石の都市計画の他、作庭にも携わってきた宮本武蔵ですが、城下の寺院の庭園も数多く手がけたとされています。こちらの本松寺の庭園もその一つとされています。枯池式枯山水庭園という庭園で、正式な作者はわかっていませんが、作風が明石城の庭園と似ていることから、恐らくこの庭園もそうではないかと言われています。夏の日差しを浴びる静かな庭園を眺めていると、剣豪とは違った宮本武蔵の姿を垣間見るように感じますね。

本松寺を眺めて

庭園を眺めていると、流石の夏の日も傾いてきました。本松寺を後にし、武蔵の街並みが今も残る明石を歩いて帰途に就くことにしました。

明石上ノ丸・宮本武蔵の庭園を訪ねて(前編)

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お盆の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽明石駅

今回訪ねたのは山陽明石駅です。

明石公園

山陽明石駅の浜側は賑やかな明石の街が広がっていますが、山側に出てみると、木々の生い茂る明石公園が広がっていて、対照的に静かな雰囲気です。

明石城

明石公園の中にそびえるのは明石城です。明石城は江戸時代の元和4(1618)年に信州松本藩から明石へ転封となった小笠原忠政によって築かれた城で、六甲山地から緩やかに続く丘陵の端に築かれた平山城です。天守は設けられませんでしたが、櫓が設けられていて、今も二つが残されています。

武蔵の庭園

明石公園の中に茶室のような建物がありました。こちらは武蔵の庭園と呼ばれている庭です。

剣豪として知られる宮本武蔵の生い立ちは分かっていないことが多いのですが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで黒田官兵衛に従い、大坂の陣では徳川方として戦ったといわれています。江戸時代には小笠原忠政に長く仕えたそうです。ここ明石でも剣豪として試合をしたこともあったようですが、武蔵が主に任されたのは町割り、つまり、都市計画でした。当時の都市計画は城郭の計画と一体となったもので、いわば軍事戦略だったため、兵法に精通した武蔵が起用されたのでしょうか。そして、町割りと並んで武蔵が才能を発揮したのが作庭でした。

武蔵の庭園を眺めて

池の向こうに明石城の櫓がそびえる武蔵の庭園を眺めてみました。本来、武蔵が明石城に作った庭園の「樹木屋敷」は城の西側、現在はきしろスタジアムになっている位置にあったそうで、こちらの庭は平成16(2004)年に復元されたものです。

剣豪の足跡を感じる明石の町をもう少し歩いてみたいと思います。