せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

繁華街に残る歴史の香り・千日前を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、千日前を歩いてみたいと思います。

法善寺

「千日寺」
の一つだった竹林寺は跡形も無くなってしまいましたが、もう一つの法善寺はボウリング場の裏に現存しています。

水掛地蔵

法善寺で有名なのはこちらの水掛地蔵ではないでしょうか。びっしりと生えた苔でお顔を拝見することはできません。

大坂の陣の後に大坂城が拡張される中で、千日前には墓地や刑場が設けられました。この墓地と刑場は明治時代に移転するまでこの地にありました。当時の人々にとって、「千日前」のイメージはあまりいいものではなかったのかもしれません。

法善寺横丁

法善寺の北側にあるのが法善寺横丁です。火災で焼失してしまいましたが、今は復旧されていてかつての風情を取り戻しています。あいにくの天気でしたが、雨に濡れた石畳が続く光景はむしろ風情があっていいですね。

墓地や刑場のあった千日前ですが、江戸時代の中頃から遊戯場などが設けられるようになり、娯楽の場になってきました。明治のミナミの大火の後には劇場などが設けられ、戦後には繁華街として非常に発展することになります。

道頓堀へ

表通りに出るとすぐそばは道頓堀です。大都会と観光地の喧騒が入り混じり、しっとりと落ち着いた法善寺横丁との差に目が回りそうになります。

道頓堀を見下ろす

観光地となった戎橋から道頓堀川を見下ろすことに。川沿いにびっしりと飲食店などのビルが建ち並ぶ景色を見ていると、ここが田園地帯にあった門前町だったのは信じられなくなりますね。ただし、ここまで歩いてきたように、歴史の痕跡は今もしっかりと残っています。

梅雨空の季節、お買い物ついでに歴史散策はいかがでしょうか。

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繁華街に残る歴史の香り・千日前を歩く(前編)

投稿日:



雨続きのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大阪難波

尼崎で直通特急を乗り換えて着いたのは大阪難波駅

千日前道具屋筋

大阪難波駅から街中を歩いていくと千日前道具屋筋にたどり着きました。その名の通り飲食店向けを中心に業務用品を扱う店が並んでいます。

千日前

大阪メトロの路線名にもなっている千日前、「せんにちまえ、せんにちまえ」とあまり考えずに言っていますが、よく考えてみると気になる地名ですね。

「千日前」の地名は法善寺と竹林寺という寺院を由来としています。両寺では千日念仏が唱えられていたことから合わせて「千日寺」と呼ばれていて、その門前を「千日前」と呼ぶようになりました。現在の千日前は完全に大阪の市街地にありますが、江戸時代の初めまでは大坂城下ではなく周辺の農村地帯でした。今では想像もつきませんが、田園地帯に千日寺と門前町があったのでしょうか。

竹林寺跡

その「千日寺」はというと、通りに面していた竹林寺の敷地があった場所には現在、ボウリング場がそびえて…。繁華街に飲み込まれてしまい跡形もありません。因みに、竹林寺自体は天王寺区に移転していて、一応、現存はしています。

繁華街の勢いは歴史を飲み込もうとしているかのようですが、土地に刻まれた歴史はそうは簡単に消えません。次回はもう少し千日前を歩いてみたいと思います。

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歌劇と温泉の町・宝塚を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて宝塚を歩いてみたいと思います。

武庫川と阪急

花の道の終わりから道なりに歩いていると武庫川に架かる橋に出ました。阪急今津線が並行して川を渡っています。右側は宝塚大劇場…かつての宝塚新温泉です。では、元々の宝塚温泉はというと、左側のマンションが建ち並んでいるところです。

宝塚温泉は今

橋を渡って武庫川の右岸側を歩いてみることに。某町歩き番組では「娯楽の殿堂」として紹介された宝塚ですが、今では住宅地としても人気で、高層マンションが建ち並んでいます。この辺りが元々の宝塚温泉ですが、見る限り温泉地の面影はありません。

横道

ただし、横道を見てみると何となくそれっぽい雰囲気もありました。

前回も見てきましたように、宝塚温泉は明治に入ってから整備された新しい温泉です。ただし、大阪から近く交通機関も便利であったことから発展し、最盛期には70軒もの温泉旅館が建ち並んでいたようです。今の有馬温泉のような位置付けだったのでしょうか。非常に栄えた宝塚温泉ですが、戦後、レジャーの多様化などで温泉客は減少し、阪神淡路大震災の被害もあって、現在はわずかな旅館が残るのみです。

宝塚温泉の街並み

マンションが建ち並ぶ街ですが、対岸ではあまり見かけないカラオケや居酒屋があって、わずかに温泉地の賑わいを今に伝えています。

宝塚温泉の碑

武庫川に架かる橋のたもとに宝塚温泉の碑が残っていました。この碑の周辺には温泉宿があり、「湯本台公園」なる公園もあって、温泉地らしい雰囲気がありました。

再び武庫川を眺める

武庫川に架かる橋から眺めると、川を挟んで大劇場と温泉旅館が建ち並ぶ新旧の宝塚の景色が広がります。温泉地から歌劇の町、そして、住宅都市として、姿を変えながらも人を惹きつけてきた宝塚の街を眺めることができました。

緩やかにカーブを描いた武庫川の橋を渡って、阪急宝塚駅に戻ることにしました。

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歌劇と温泉の町・宝塚を歩く(前編)

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梅雨空の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急宝塚駅

今回のスタートは阪急宝塚駅

花の道

宝塚駅から伸びるのは「花の道」です。この道、単なる遊歩道ではなく、土手のように周りから一段高くなっていますが、まさにその通りでここはかつて傍を流れる武庫川の堤防でした。

宝塚大劇場

花の道の途中にあるのが宝塚大劇場です。宝塚といえば、全国の人が思い浮かべるのはここでしょうね。

宝塚といえば宝塚歌劇の街ですが、それは新しい時代のこと。かつては有馬温泉へ向かう街道の途中の集落でした。宝塚に温泉が見つかったのは奈良時代とも鎌倉時代とも言われていますが、温泉地として整備されだしたのは近代に入った明治17(1884)年の「発見」からで、明治後半には阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)と箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)が開業して大阪に近い行楽地として栄えることになりました。ただし、温泉地として栄えたのは武庫川の右岸。左岸には湿地が広がっていました。明治44(1911)年には箕面有馬電気軌道がここに宝塚新温泉を開業。温泉内の娯楽として歌劇が公演されるようになり景色は一変し、宝塚は小さな温泉地から歌劇の町として知られるようになりました。町のイメージが非常に良いことから、今では住宅地としても人気ですね。

宝塚ファミリーランド跡

昭和生まれの私には「宝塚」といえば家族で訪れた宝塚ファミリーランドが思い浮かぶところですが、平成15(2003)年に閉園してしまい、跡地には商業施設やマンションが建っていました。

近代から現代にかけて、行楽地として発展してきた宝塚。次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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御堂筋を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の御堂筋を歩いてみたいと思います。

御堂筋を見下ろす

北御堂
から御堂筋を見下ろしてみました。
街路樹の葉は眩しいくらいに緑で爽やかです。

現在の大阪のメインストリートは御堂筋ですが、かつては和歌山への紀州街道の一部で、港町・へも続く物流の大動脈であった堺筋がメインストリートでした。一方の御堂筋はというと、明治時代の地形図では名前すら書いていない一街路に過ぎず、隣の心斎橋筋のほうが賑やかであったといわれています。それが現在のような大通りになったきっかけは町はずれの梅田に設けられた大阪駅でした。大阪の新しい玄関口となった大阪駅と古くからの市街地を結ぶ交通路として御堂筋は拡幅されることとなり、道路とセットで地下には大阪初の地下鉄も建設されることになりました。大正15(1926)年の着工から工事は急ピッチで進み、完成は昭和12(1937)年のこと。以来、御堂筋は大阪のメインストリートとなり、多くのオフィスビルや商店が建ち並ぶこととなりました。

船場センタービル

北御堂から南へ歩いていくことにします。御堂筋と交差する道路は中央大通で、上を走るのは阪神高速13号東大阪線です。高速道路の高架下は薄暗いイメージですが、この辺りはちょっと違った印象で、高架下に細長いビルが延々と続いています。このビルは船場センタービルです。大阪の道路では御堂筋が有名ですが、戦後に拡幅された中央大通も実は大規模なものでした。完成は昭和45(1970)年のことで、船場センタービルは道路用地となった地区の商店の移転先として設けられたものでした。

南御堂はいま

「北御堂」があるのであれば、「南御堂」もあるはずですね。中央大通を渡った先にあるのが「南御堂」こと真宗大谷派難波別院です。しかし、現地を訪れてみると、工事用の仮囲いが…。現在、南御堂の境内ではホテルなどが入る山門を兼ねた複合ビルが建設中とのことです。ビルが完成するまでしばらく仮囲いの景色となりますが、都心にある大寺院らしい景色である意味興味深いですね。

南御堂の境内

仮囲いの横に設けられた通路から南御堂の境内に入ってみました。

南御堂も歴史は古く、安土桃山時代の文禄4(1595)年、この地の北側の道修町に大谷本願寺が創建されたのが始まりと言われています。慶長3(1598)年にはこの地に移転しますが、程なく慶長7(1602)年には大谷本願寺の機能が京都に移転。跡地にはこの難波御堂が設けられました。江戸時代には壮大な堂宇が設けられたのですが、太平洋戦争中の空襲で焼失。現在の建物は戦後再建されたコンクリート造りのものです。

南御堂と御堂筋

御堂筋から南御堂を眺めてみました。御堂筋も南御堂も大きく姿を変えていきましたが、今も大阪の街を見守っています。大都会の中にこっそりと潜んでいる歴史を探ってみるのもたまにはいいですね。

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