せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

飾磨街道と外堀川を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて亀山界隈を歩いてみたいと思います。

飾磨街道の街並み

亀山本徳寺の参道と交わる飾磨街道の街並み。うだつのある民家があり、歴史ある街であることを感じさせます。

外堀川が名前を変えた野田川の河口付近に開かれた飾磨津は古くからの港町でした。そんな飾磨津と姫路城下、今の山陽姫路駅の北西付近にあった姫路城飾磨門とを結んでいたのが飾磨街道です。姫路から北の銀鉱山で栄えた生野へ続いていたこの道は近世には「銀の馬車道」こと生野鉱山寮馬車道として整備されました。この道は当時でも珍しい馬車専用道路で、「日本初の高速産業道路」とも呼ばれています。古い町並みが残る飾磨駅の南側には今も街道の風情が残されていますが、市街化が進んだ亀山付近でもどこかほかの道とは違った雰囲気が残されています。

八の宮天満神社

飾磨街道を越えて、「現代の飾磨街道」ともいえる幹線道路の駅南大路を越えると住宅や店舗の建ち並ぶ街並みの中に小さな神社を見つけました。こちらは八の宮天満神社です。

外堀川へ

八の宮天満神社を過ぎると、外堀川のほとりに出ました。川に架かるのは三ノ切橋です。

外堀川の眺め

その名の通り姫路城の外堀の役割を兼ねて城下を流れ、さらに飾磨へと流れる外堀川ですが、この橋を境に上流側は広く整備されている一方で、下流側は細く曲がりくねっています。

江戸時代の初めに姫路城主をつとめた池田輝政は城郭の大規模改修だけでなく、姫路城と港町の飾磨を結ぶ運河の築造に着手します。輝政が目を付けたのが外堀川で、築城の際に流路を変えた川を開削し、飾磨を目指すことにしました。しかし、工事中、播磨灘と外堀川の水位に大きな差があり、外堀川をかなり掘り下げないと運河としては利用ができないことが判明しました。さらに、築造を推進していた輝政が亡くなったことにより、わずか2km程度が整備されただけで運河計画は凍結してしまいました。のちに、姫路城主となった本多忠政はこの外堀川ではなく西側の船場川を整備し、輝政が目指した姫路城下と飾磨との運河を実現します。

三左衛門堀

上流側は広く真っ直ぐな川が続いています。川幅が下流側とは全く違うことがわかります。
この辺りは池田輝政の異名にちなんで「三左衛門堀」とも呼ばれています。

運河は実現しませんでしたが、この辺りは先ほど訪ねた飾磨街道が通り、街道筋の町として鉄道開業まで栄えることになったのはなんだか不思議な気がしますね。市街地のなかに姫路が今のような城下町に発展していく過程の史跡が眠る亀山界隈を歩いてみてはいかがでしょうか。

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飾磨街道と外堀川を歩いて(前編)

投稿日:



寒さは続きますが、日差しに少しだけ春を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

亀山駅

山陽電車に乗って着いたのは亀山駅です。

国際姉妹鉄道協定

台湾鉄路
宜蘭線に同じ漢字を使う亀山という駅があることから、山陽電車と台湾鉄路は国際姉妹鉄道協定を結んでいます。亀山駅にはそれに関するパネルがありました。海外へ行けるのはまだ少し先になりそうですが、早く自由に海外旅行ができる日が戻ってくることを祈っています。

亀山御坊本徳寺

駅からすぐの場所に佇んでいるのは亀山御坊こと亀山本徳寺です。

亀山本徳寺はもとは西飾磨~夢前川駅間の一帯にあった英賀城下の英賀御坊が始まりです。戦国時代の天正8(1580)年の秀吉の英賀城攻めに際してここ亀山に移転しました。江戸時代に入る直前の慶長7(1602)年に浄土真宗が東西に分裂した際にこの亀山御坊は西本願寺を総本山とする本願寺派に属することとなり、東本願寺を総本山とする大谷派は後に姫路城下に船場御坊こと姫路船場別院本徳寺を建立します。歴史の長い亀山本徳寺のほうが知られていますが、姫路には二つの本徳寺があるのです。

亀山本徳寺を眺める

亀山本徳寺を眺めてみました。境内では巨大な本堂が目立ちますが、私は城の櫓のようにも見える太鼓楼が好きです。江戸時代に建てられたものとされていますが、どこか城郭と一体になっていた英賀御坊の名残を感じさせるように思えます。

飾磨街道

本徳寺の参道に交わるように通るのは姫路城下と港町・飾磨を結んでいた飾磨街道です。

次回はもう少し亀山界隈を歩いてみたいと思います。

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姫路・大手前を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の市街を歩いてみたいと思います。

十二所神社

光源寺の向かいにあるのは十二所神社です。

お菊神社

境内にあるのはお菊神社です。祀られているのは菊姫命。あの、播州皿屋敷お菊とされています。

十二所神社の始まりは古く、平安時代の延長6(928)年に遡るとされています。疫病が流行して村人が苦しんでいたところ、この場所の南側の南畝丘に一晩で12本の蓬が生え、医薬の神とされる少彦名大神があらわれ、この蓬を使えば病が治るとお告げがありました。お陰で疫病の流行は治まり、村人は少彦名大神を祀る祠を建てました。元の場所は少し南でしたが、平安時代の末の安元元(1175)年にこの場所へ移されています。変わった神社の名前はこの12本の蓬の伝説に由来していて、御神紋も蓬の葉です。

烈女碑

境内には「烈女」の碑がありました。

お菊と言えば播州皿屋敷やそれを題材にしたと考えられる「番町皿屋敷」の怪談が知られていますね。播州皿屋敷は戦国時代、小寺則職が姫路城主をつとめていた頃の話で、お菊が亡くなったのは永正2(1505)年とされています。お菊が十二所神社にお参りしていたことから、この地にお菊を祀る神社が建立されたとされていますが、諸説があるようです。また、播州皿屋敷も同様の伝説は全国にあるようで、実際に姫路であった出来事なのかはわかっていないようです。

大将軍神社

十二所神社から南側へ歩くと、大将軍神社がありました。こちらが元の十二所神社があった場所とされていて、今も十二所神社の旅所となっています。

南畝丘は今

12本の蓬が一晩で生えたという南畝丘はこの辺りにあったのでしょう。今ではJRや新幹線の高架がそびえ、辺りには市街地が広がっていて、丘があったような面影はありませんでした。

今は賑やかな市街地に発展した姫路ですが、少し歩いてみると伝説に彩られた史跡がひっそりと眠っているのに出会うことができます。まだまだ冬の寒い時期が続きますが、少し姫路を歩いてみてはいかがでしょうか。

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姫路・大手前を歩いて(前編)

投稿日:



寒さの厳しいころ、いかがお過ごしですか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城

今回訪ねたのは姫路
姫路城の天守閣が冬の日差しを浴びて輝いています。

光源寺跡

山陽電車の山陽姫路駅近くにあったのはこんな看板。
現在、この辺りは姫路の中心市街となり、大手前通りが姫路駅から姫路城へと延びていますが、かつては光源寺という寺院がありました。

現在の大手前通りが完成したのは昭和30(1955)年のこと、昭和20(1945)年7月3日の姫路大空襲で壊滅的な被害を受けた姫路市街の復興の際に整備されました。空襲で被害を受けて焼失した光源寺も道路の整備に伴って元の場所には戻らずに、移転しています。現在の大手前通りはお城が真正面に構えてまさに「大手前通り」という雰囲気ですが、実は近世までの大手前通りは一本西側の筋でした。今も、姫路城の大手門・桜橋は西側の中之門筋につながっていて、大手前通りはズレています。

光源寺

現在の光源寺は西側に進んだ先に佇んでいます。
戦後に市街地に建てられた寺院のせいか、新しく現代的な雰囲気ですね。

十二所神社

寺の向かい側は十二所神社で、神社との間に通る道路はその名も十二所前線です。

次回は姫路市街をもう少し歩いてみたいと思います。

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西神丘陵の大寺院・太山寺を訪ねて(後編)

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新年明けましておめでとうございます
本年も山陽沿線ブログ「せっつ・はりま歴史散歩」をよろしくお願いいたします

新年最初の更新は年末に訪れた太山寺の続きです。

奥の院への道

太山寺
の本堂の横手から太山寺川沿いに出てみました。
のどかな山間の寺院かと思っていましたが、川沿いに出ると意外と険しい地形を流れる渓谷が現れて驚いてしまいます。

閼伽橋

太山寺川の渓谷に架かるのは閼伽橋(あかばし)です。
渓谷に架かる朱塗りの太鼓橋が独特の雰囲気を醸し出しています。この橋の向こうが太山寺の奥の院です。

今も西神に佇む太山寺は南北朝時代に最盛期を迎えました。建武元(1334)年には大塔宮護良親王の令旨を受けて南朝につき、宗徒の活躍もあって発展しました。支院四十一ヶ坊・末寺八ヶ寺・末社六ヶ社と多くの僧兵を抱え、東播磨の一大法城となったようです。しかし、その後は戦火や時代の移り変わりの中で現在のような姿となっていきました。

稲荷舎

閼伽橋を渡ってすぐ現れたのが稲荷舎です。整備された本堂側とは違い、山の雰囲気が漂う中に立ち並ぶ朱塗りの鳥居は、どこか神秘的なものを感じさせます。

地蔵堂

奥にあったのが地蔵堂です。かつてはこのお堂の下から水が湧き出していて、霊水を汲む「閼伽井」があったそうです。先ほどの閼伽橋は赤いからそういう名前になったわけではないようですね。太山寺川の上流には鎌倉時代の作とされる磨崖仏が岩に彫られているそうですが、奥の院から直接行くことはできないようです。

太山寺の境内を眺める

本堂に戻り、太山寺の境内を眺めてみました。かつてはこれ以上の規模だったとされますが、今も大寺院の趣で、かつて大いに栄えたことを今に伝えているようです。

長い歴史を持ち、時代の移り変わりの中で変化してきた太山寺は今ものどかな西神丘陵に佇んでいます。

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