師走のころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
今年ももう気づけば年の瀬ですね。
生田神社兵庫宮
今年最後に歩いてみるのは大開駅から。大開駅から程なく、生田神社兵庫宮なる神社を発見しました。こちらは中央区にある生田神社の御旅所です。生田神社の氏子は中央区だけでなく兵庫区にも広がっているため、毎年4月の神幸祭ではここまで神輿が巡幸するとのこと。御旅所といえば神輿が休憩するための施設なので鳥居や小さな社がある程度の場合が多いのですが、さすがの生田神社というべきか、小さな神社ぐらいの規模があります。かつては特に定まった御旅所はなかったそうですが、明治時代に入り氏子から土地の寄進を受けてこの位置に社殿が建立されたそうです。
柳原蛭子神社
生田神社兵庫宮からJRの高架をくぐり着いたのが柳原蛭子神社です。「蛭子」は「えびす」と読むことが多いのですが、この神社の名前ではそのまま「ひるこ」と読みます。
蛭子神社の境内
境内は思ったより小ぢんまりとしていますが、毎年1月10日には西宮神社や大阪の今宮神社と同じく「十日えびす」が開催され、多くの参拝客で賑わいます。
この神社、古い歴史を持っているのかと思いきや、由来はあまりはっきりとしていないようです。初めて記録として現れるのが元禄の頃とのことですから歴史はあるとはいえ、周辺の寺社より比較的新しい神社です。以前訪れた和田神社の由来となった「蛭子の森」に何か関係があるのかと思ったら、そうでもないようです。いずれにせよ、この兵庫という海と商売とに密接に関わった土地に根付いた神社ということでしょうか。
福海寺
柳原蛭子神社から道路を挟んだ向かいに福海寺なる立派な寺院を見つけました。この界隈では蛭子神社が目立ってしまっているのですが、この福海寺は実は蛭子神社よりも長い歴史を持っています。
福海寺の正式名称は「大光山福海興国禅寺」という長く難しい名前です。もともと兵庫の地には針ヶ崎観音堂という小さなお堂がありました。時は建武3(1336)年、豊島河原合戦で新田義貞・北畠顕家が率いる後醍醐天皇軍に敗れた足利尊氏はこのお堂に逃げ、兵庫から九州へと落ち延びました。その後、九州から再び兵庫に上陸し、湊川の戦いでの勝利を経て京都に足利幕府を開くことになりました。尊氏にとって兵庫は「福をもたらす海」であったことにちなんで「福海寺」という寺院が創建されたのは康永3(1344)年のこと。
太平記合戦図
福海寺の入り口には足利尊氏が観音堂に逃げたエピソードを描いた「太平記合戦図」が飾られています。この寺には大黒天がまつられているとのことで、「十日えびす」の際には大黒天祭が催され、多くの参拝客で賑わいます。想像ですが、先ほどわからないとした蛭子神社の由来も、もしかすると、この福海寺が蛭子神社の成り立ちに関わっていたのかもしれません。初詣や「十日えびす」の参拝の際は中世の兵庫を想像して歩いてみても面白いかもしれませんね。
今年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧いただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
では、どうぞよいお年をお迎えください。
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