せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

城下町・尼崎を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、尼崎を歩いてみたいと思います。

尼信会館

文化財収蔵庫から尼崎駅前へと戻ります。
駅から程なくの場所には白いビルが。
こちらは尼信会館という地元の信用金庫・尼崎信用金庫が設けた施設です。

城下町尼崎

中はギャラリーなどに使われているのですが、こちらの3階には尼崎の歴史に関する私設の博物館が設けられています。 数々の資料や尼崎城の復元模型などは見応えがあり、他の公立の博物館に引けを取らないくらい充実しています。

寺町の景観

尼信会館から西に向かうと、こんな街並みが。
この界隈は寺町と呼ばれていて、確かに寺院が密集して建ち並んでいます。工業都市のイメージが強い尼崎でこんな街並みを見られるとは、ちょっと意外な気がしてしまいますね。

廣徳寺

寺町が造られたのは元和3(1617)年、戸田氏鉄尼崎城を築城する際に大物にあった寺院をこの地に移転集約したのが始まりです。寺町の中にある廣徳寺「大物崩れ」で赤松氏に敗れた細川高国が切腹した寺院ですが、高国が切腹した当時はここよりもずっと東の現在の大物駅の近くにありました。

近世の尼崎の城下町は城を中心に作られ、城の西側に寺町、南側に武家屋敷が建ち並び、そのさらに南の沿岸部には海を埋め立てて設けられた街が広がっていました。物流の拠点だった大坂に近かったことから商品作物を中心とした農業が発達し、物流の拠点としても大変栄えたそうです。
明治維新で尼崎城は廃城となって取り壊され、戦前・戦後は工業都市として開発がおこなわれたことから城下町の面影の多くは失われてしまいました。大きく変わった街の中に残る寺町の風情はとても貴重なものなのかもしれません。

寺町を歩いて

三回に渡って中世から近代へと尼崎という町が積み重ねてきた歴史を歩いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
尼崎の違う面を発見できたという方、是非、梅雨入り前の爽やかなこの季節に歩いてみてください。

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城下町・尼崎を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、尼崎を歩いてみたいと思います。

桜井神社

城址公園の南側には桜井神社という神社がありました。
この神社には幕末まで尼崎藩主を代々務めた桜井松平家の歴代当主をまつる神社で、明治時代にこの場所に建立されました。

尼崎市立文化財収蔵庫

桜井神社から東に向かうと学校のような建物が姿を現しました。こちらは尼崎市立文化財収蔵庫です。物々し名称ですが、一般向けの展示も行われていて、平成26年5月4日から6月29日までの間には「秀吉 尼崎の危難展」が開催中です。

元中学校の建物

尼崎市立文化財収蔵庫の建物は昭和8(1933)年、尼崎市立高等女学校(現在の尼崎市立高校)の校舎として建設されました。尼崎市立高校が移転した後は城内中学校の校舎として使用されていましたが、城内中学校も学校統合に伴い移転。尼崎市立文化財収蔵庫の建物として使用されるようになりました。館内は完全に学校の雰囲気で、何だか懐かしくなってきました。ちなみに、この建物は映画「ALWAYS三丁目の夕日64」のロケで病院として使われたようで、それにまつわる展示も館内にはあります。

企画展で開催中の「尼崎の危難」とは、秀吉の中国大返しの際の物語。天正10(1582)年、備中高松城の戦いで毛利氏と講和を結んだ秀吉は本能寺の変の一報を聞きつけて明智光秀を討つために京都へ引き返します。途中、この尼崎で信長を弔うために髪を下したのですが、そこから、光秀軍に囲まれた秀吉が僧に変装して難を逃れたという物語が生まれました。この物語はあくまで伝説のようですが非常に人気があり、江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃の題材になりました。企画展ではそれらにまつわる資料が展示されています。
中でも私が面白いなと思ったのが、戦前の学年誌の正月号の付録。「尼崎の危難」とは直接関係がないのですが、なんと、 秀吉の出世物語がすごろくになっていました。農民の子から関白・太政大臣にまで上り詰めた秀吉を「日本の英雄」と讃える内容は時代を感じさせますが、秀吉の人気を感じさせました。

尼崎城址碑

文化財収蔵庫の裏手の明城小学校には「尼崎城址」の碑がありました。この明城小学校と文化財収蔵庫の敷地は尼崎城の本丸跡とされています。次回は尼崎城について迫ってみたいと思います。

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城下町・尼崎を歩く(前編)

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風薫る季節となりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神尼崎駅前

今回のスタートは阪神電車の尼崎駅
駅を出て東に向かうと早速気になる建物が姿を現しました。

レンガ造りの旧変電所

駅から橋を渡った先にあるのは明治38(1905)年、阪神電気鉄道が開業に際して設けた変電所。レンガ造りの美しい建物です。
現在は資材倉庫として使われていて、原則非公開なのですが、2013年には写真展が開かれたことがありました。

庄下川の流れ

レンガ倉庫の南側には気になる石垣が…。
こちらは尼崎城の跡に設けられた尼崎城址公園です。
橋が架かるのは庄下川(しょうげがわ)という川。この川はかつて尼崎城の堀として利用されていました。

尼崎城址公園

庄下川を渡ると尼崎城の石垣がそびえます。
尼崎の城の始まりは細川高国の手によって永正16(1519)年から築城が始まった「大物城」と言われます。大物城は現在の阪神電車尼崎車庫付近にあったとされ、別名「尼崎城」と呼ばれるのですが、後に築城された尼崎城とは別の城とされています。
大物城を築城した細川高国は享禄4(1531)年に起こった「大物崩れ」という合戦で赤松氏に敗れるのですが、その後の大物城の城主についてはどうもはっきりしていません。
荒木村重が織田信長に謀反を起こしたことに端を発する天正6(1578)年の「有岡城の戦い」では村重の弟の村次が大物城に詰め、信長軍を迎え撃ちました。
この戦いの末期には当の村重が籠城する有岡城を脱出してこの大物城に逃れ、さらに、花隈城(詳しくはこちら)を経て毛利方へと逃れていきます。その際、有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は救出されるのですが、一方で、村重の妻子や家臣の家族は見せしめのために尼崎や京都で信長軍に処刑されました。

尼崎城の石垣

現在に残る尼崎城は元和3(1617)年に戸田氏鉄が築城したものです。大物城とは別の城であるとの説が有力とされているのですが、尼崎城が大物城の跡地に築かれたという説もあるようで、詳しことははっきりしていないようです。
戦国時代には悲惨な戦いの舞台になった尼崎ですが、近世に入ってからは尼崎藩の政治の中心として阪神間では珍しい城下町として栄えることになりました。
城には戸田氏の後に青山氏が入り、その後は桜井松平家が幕末まで代々藩主を務めます。

現在の尼崎城址公園は一部が図書館になっている他は仮囲いで囲まれていて中に入ることはできません。ちょっぴり残念ですが、先を急ぐこととしました。
次回、引き続き、城下町・尼崎を歩いてみたいと思います。

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「軍師官兵衛」展~兵庫県立歴史博物館

投稿日:



春も深まり、夏の気配を感じるこの頃ですか、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

城門風のみゆき通

今回訪れたのは姫路
久しぶりに歴史部のメンバーとあまQさんが揃っての歴史さんぽです!
駅前からはみゆき通を歩いていくことに。
みゆき通の南側の入り口はアーケードの更新で城門風にリニューアルされていました。
歴史の町・姫路らしいエントランスですね。

顔を出す姫路城

歴史部メンバーのアンテナを何かと刺激する黒田屋官兵衛商店で足止めされたりしてなかなかみゆき通を抜けることができなかったのですが、何とか姫路城の前に到着。
素屋根の解体はかなり進展し、天守閣が見えてきました。

新緑と姫路城

顔を出した天守閣の屋根はまぶしいくらいに真っ白で新緑によく映えます。
公開再開が待ち遠しいところですが、今後は内部の工事に入るとのことで、オープンは来年3月です。

県立歴史博物館へ

今回の目的はお城の裏の兵庫県立歴史博物館で開催されていた大河ドラマ特別展「軍師官兵衛」です。歴史部の第一回目の活動で訪れた記念すべき場所ですね。
館内では黒田官兵衛ゆかりの資料が数多く展示され、なかなか見応えがあります。
特に、官兵衛が織田信長から与えられた名刀・圧切長谷部(へしきりはせべ)は一見の価値があります。

また、資料がどこで保存されていたのかというのもなかなか興味深いところ。
圧切長谷部は江戸時代に黒田家が治めた福岡市の福岡市博物館蔵なのですが、官兵衛のトレードマークの白檀塗合子形兜(びゃくだんぬりごうすなりかぶと)はなんと盛岡もりおか歴史文化館蔵とのこと。
その理由はというと、官兵衛から後の時代の話になりますが、官兵衛の孫の黒田忠之が家臣の栗山利章栗山利安(善助)の子)と対立し、「黒田騒動」と呼ばれるお家騒動が起こりました。後の処分で栗山利章は盛岡の南部藩の預かりとなり、その際に代々管理を任されていた官兵衛の兜を持って行ったそうです。
…というのは、同行した歴史部顧問の民部卿(みんぶきょう)の受け売りなのですが、大人数で見学に行けば様々な着眼点があり、勉強になりますね。

城見台公園より再び姫路城を望む

県立歴史博物館での大河ドラマ特別展「軍師官兵衛」は残念ながら5月6日で終了してしまったのですが、大河ドラマで盛り上がる姫路はまだまだ見どころたくさんです。
官兵衛の足跡を訪ねて、姫路を歩いてみてはいかがでしょうか。

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三つの「湯沢山茶くれん寺」(後編) 八幡市橋本

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
引き続き、関西の「湯沢山茶くれん寺」の通称をもつ寺院を巡っていきます。

京阪電車橋本駅

到着したのは石清水八幡宮のある男山のふもとの京阪電車橋本駅
姫路の法輪寺からスタートした「湯沢山茶くれん寺」を巡る旅、随分遠いところまで来たものです。

橋本渡舟場の道標

駅前には「橋本渡舟場三丁」と書かれた石碑がありました。
昭和の中ごろまでここ橋本と淀川の対岸を結んでいた渡し舟の道標です。
下のほうには山崎停車場、長岡、粟生など淀川右岸の地名が刻まれています。

「湯澤山茶久蓮寺跡」碑

これだけでも興味深い道標ですが、これを回り込んでみるとなんと「湯澤山茶久蓮寺跡」の文字が。
ここが三つ目の「湯沢山茶くれん寺」があった場所とされているのです。
この「湯澤山茶久蓮寺」という通称をもつ寺院は常徳寺という古い曹洞宗の寺院で、秀吉の寄与を受けて発展したそうですが、江戸時代の文化10(1813)年に焼失してしまいました。現在、寺の敷地の大半は京阪電車の線路用地になっているようで、痕跡はほとんどありません。

常徳寺に伝わっていたとされる話では、天正10(1582)年、山崎の合戦の際に秀吉がこの寺を訪れ、茶を所望しました。茶人として有名だった秀吉に自分の未熟な茶を出すことを恥じた住職は白湯を出します。初めは怪訝に思っていた秀吉ですが、住職に考えに気づき、「湯澤山茶久蓮寺」の寺号を与えたと言われています。時期や背景は異なりますが、浄土院に伝わる話に似ていますね。

西遊寺

駅前には西遊寺という寺院が。
こちらは行基が創建した橋本寺を起源とする非常に古い歴史を持った寺院です。ちなみに、「湯澤山茶久蓮寺」という寺号を与えられたのはこの西遊寺であるという説もあるようです。

橋本の街並み

駅の西側には橋本の町が広がっています。
橋本は京街道の宿場で、幕末には江戸幕府の陣屋も設けられるなど非常に繁栄した町でした。しかし、陣屋があったために幕末の鳥羽伏見の戦いに巻き込まれることになり、町の大半は失われてしまいました。現在の建物の多くは明治以降に再興されたものですが、風情ある街並みが残っています。

淀川を望む

街外れの堤防を上がると、淀川を眺めることができました。
ここの地名は「橋本」というわりに、上流は八幡市、下流は枚方市まで橋がありません。 地名の由来は奈良時代の神亀2(725)年に行基が架けた山崎橋とされていますが、後に洪水で流されてしまいました。代替手段として開設されたのが駅前の道標にあった渡し舟です。この渡し舟はなんと昭和37(1962)年まで運行されていたとのこと。今も残っていたら乗ってみたかったところですね。

この対岸は秀吉が本能寺の変の後に明智光秀と戦った山崎の合戦の舞台の天王山です。
秀吉の大躍進のチャンスとなった戦いの地を眺めながら、「湯沢山茶くれん寺」を巡る旅を終えることにしました。

これら三つの「湯沢山茶くれん寺」、何か大本になる話があってそこから各地の伝承が生まれていったのだろうと思うのですが、どれが本家なのかは今となってはわかりません(秀吉が各地で「湯沢山茶くれん寺」という寺号を与えまくったということも考えられなくもありませんが)。ただ、巡っていく旅の中で、厳しい戦いの最中でもユーモアあふれる秀吉という人物を感じることができました。
何だかマニアックな道中となってしまいましたが、ご興味のある方、是非いかがでしょうか。

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