せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

行基の開いた寺と池・昆陽の里を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、伊丹の昆陽の里を歩いてみたいと思います。

旧街道と国道

昆陽池から南へと歩くことにしました。整備された国道171号線の南側へと歩いていくと、旧西国街道とその沿道の街に入りました。旧街道は一部が国道になっていますが、時々国道に沿って曲がったいかにも昔の道が姿を現します。

昆陽

東へ歩くとかつての昆陽村の中心へと入りました。この辺りはかつての宿場町です。

「昆陽」の地名は古代、中臣氏がこの地を治めた時に中臣氏(後の藤原氏)の祖とされる天児屋命(あめのこやねのみこと)の名前から「児屋」と名付けたのが由来とされています。前々回に訪ねた昆陽寺も「児屋寺」と呼ばれていたそうです。児屋寺の名前は後に佳字の「昆陽寺」に改められて、地名も寺の名前に合わせて今の「昆陽」と書かれるようになりました。

西国街道昆陽宿

住宅地の中に昆陽宿を示す石碑が佇んでいました。

ここ昆陽を通る西国街道に昆陽宿が置かれて整備されたのは中世~江戸時代のことでした。東西の西国街道に対して、南北の有馬道が交わる昆陽宿は大変賑わったと言われています。この近くには昆陽宿の本陣もあったようです。鎌倉時代の末の元弘2(1332)年には隠岐へと流される後醍醐天皇がここ昆陽に宿泊し、歌を残しています。昆陽池の景色が知られたこともあり、昆陽は詩歌に詠まれる名所となっていきました。

再び昆陽池へ

街道を訪ねた帰りに昆陽池を通りかかりました。池の向こうを伊丹空港を離陸したばかりの旅客機が飛んでいきます。かつては水に恵まれなかったこの地域はこの池のおかげで農地としての開発が進み、街道によって結ばれた各地から人や物が集まる町となりました。賑やかな幹線道路から外れた街道沿いの街並みや飛行機の行きかう昆陽池の畔に往時を偲ぶことができます。

行基伝説に彩られた古刹と池、そして、街道沿いの街並みをもう少し歩きたいと思いながらも、ちょうどやって来た伊丹市バスで昆陽の里を後にすることにしました。

行基の開いた寺と池・昆陽の里を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、伊丹の昆陽の里を歩いてみたいと思います。

行基塚

昆陽寺の奥の木々の中に水路に囲まれた五輪塔がありました。こちらは行基塚、または開山塔と呼ばれています。墓所のようですが、行基の墓は奈良の生駒にあるので、こちらは行基を供養するための塚ということでしょうか。

昆陽寺の境内

木々の中に石仏が並ぶ境内は市街地にあるとは思えないような雰囲気でした。

旧西国街道と水路

昆陽寺から寺の前の石畳の道に出てみました。道沿いには水路があり、風情ある景色が続いていました。

今はこうした水辺の景色も見られる昆陽の里ですが、前回も見てきたように武庫川と猪名川に囲まれた伊丹台地と呼ばれるこの辺りはあまり水に恵まれない土地でした。奈良時代の僧行基は「昆陽布施屋」を設けて貧民の救済にあたっただけでなく新田開発もおこなったとされています。

昆陽池

昆陽寺から住宅地の中を歩いていくと、木々に囲まれた大きな池が現れました。昆陽だけでなく伊丹市のシンボルにもなっているため池・昆陽池です。「昆陽大池」とも呼ばれるこの池を開いたのは行基とされていて、池からの水によって水に恵まれなかった伊丹台地で新田開発が広がっていきました。

昆陽池を眺めて

かつての昆陽池は今に残る「昆陽上池」とともに西側にあり江戸時代に埋め立てられたとされる「昆陽下池」の二つの池があり、広大な池の景色が詩歌にうたわれる景勝の地となりました。現在は残っていた上池の東側も三分の一が埋め立てられて企業のグラウンドや社員寮、支援学校の敷地となり、かつてと比べてかなり小さくなりましたが、今も一部が貯水池として使われているだけでなく、市民の憩いの場となっています。

昆陽池の水が潤した昆陽は近世にかけても賑わっていくこととなりました。次回、もう少し昆陽を歩いてみたいと思います。

行基の開いた寺と池・昆陽の里を訪ねて(前編)

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早くも夏のような暑さのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

昆陽ノ里

阪急電車西宮北口駅から乗った阪急バスは住宅地の続く街並みを走り、武庫川を渡って伊丹市へ入りました。バスが着いたのは昆陽ノ里バス停です。

昆陽寺の山門

バス停のすぐ近くにあったのは立派な朱塗りの山門です。こちらは昆陽寺の山門です。

昆陽寺の山門と石畳の道

山門の前を通るのは国道171号線です。交通量の多い国道からは細い石畳の昔ながらの道が分かれていて新旧のコントラストを描いているようでした。

昆陽寺の境内

山門をくぐって新緑が眩しい境内に入ると、国道の騒音が急に遠ざかったようで静かな雰囲気に包まれるようでした。

昆陽寺は奈良時代の天平3(731)年に僧行基が建立したとされています。街道に面した交通の要衝だったこの地に行基が貧民の救済を目的に建立した「昆陽布施屋」が今の昆陽寺の始まりとされています。ただ、創建時の寺は現在地から少し北西の場所や山本(現在の宝塚市)などの諸説があるようで、詳しいことはわかっていないようです。聖武天皇の勅願寺となったこともあり、寺院として栄えていきますが、安土桃山時代の天正7(1579)年に現在のJR伊丹駅近くの有岡城に立てこもった荒木村重織田信長が戦った有岡城の戦いの際の兵火で焼失してしまいました。現在の建物の多くは江戸時代に再建されたものです。

昆陽寺の本堂

境内に佇む本堂は有岡城の戦いで焼失したのちに再建されましたが、平成7(1995)年の阪神淡路大震災で倒壊し、平成9(1997)年に再建されたものです。

行基堂

本堂の奥に佇んでいたのが行基菩薩をまつる行基堂です。こちらも江戸時代に再建され、震災でも被災しましたが解体修理を経て当時の建物が現存しています。

武庫川と猪名川に挟まれたこの地域は伊丹台地と呼ばれる台地状の地形になっていて、古くから水の確保が難しい土地でした。農地としての利用が難しいこの土地で行基は貧民救済だけでなく、土地の開墾も進めていました。

次回、行基の足跡を辿りながらもう少し昆陽の里を歩いてみたいと思います。

霊岩の佇む磐座・高岳を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の高岳・今宿を歩いてみたいと思います。

高岳神社鳥居

昌楽寺から住宅地を歩いていくと、家並みの中に立派な鳥居と灯篭が佇んでいました。高岳神社の鳥居です。

高岳神社

鳥居をくぐり、参道を西へ歩くと、木々に囲まれた丘に突き当たります。その名の通り、高岳神社はこの丘の上にあります。よく見ると、木々の間から見えるのは岩肌のようで、この丘全体が大きな岩でできているように見えます。まさに磐座というべきでしょうか。

高岳神社の境内

石段を上がると、険しい岩山の上に佇む社殿にたどり着きました。

高岳神社は平安時代の延喜式神名帳にもその名が記された古社です。創建時はここから北の八丈岩山に社殿があったそうですが、後に現在の場所へ遷っています。この場所へ遷った理由は縁起にもはっきりと記されていませんが、この岩山があったためでしょうか。

蛤岩

社殿の裏手に上る道を歩いてみました。社殿の裏は木々がほとんどなく、岩肌が剝き出しになっていて、まるで高山のような荒々しい景色に驚いてしまいました。岩山の頂には玉垣に囲まれた巨岩が佇んでいました。この岩は蛤岩と呼ばれる霊岩です。海から離れた内陸の丘の上に佇む岩ですが、この岩からハマグリの化石が発見されたことから蛤岩と呼ばれるようになったとのこと。発見された化石は神社の宝物とされているそうです。それにしても、姫路の近郊にこんな光景があるとは驚いてしまいました。このブログで播磨平野の丘をいくつも巡ってきましたが、多くは木々に囲まれた丘で、このような岩山は他には高砂の生石神社を思い出すくらいでしょうか。

蛤池

高岳神社の裏手へ降りると蛤池と呼ばれるため池がありました。背後の新緑の木々に覆われた山は蛤山で、山の中腹には高岳神社の御旅所があります。高岳神社の丘と尾根続きになっているこちらの山は地域のシンボルとなっているそうです。木々に覆われてわかりにくいのですが、この蛤山も岩山で、木々の合間からは姫路市街を一望できるとのこと。

蛤山を眺めて

蛤池越しに蛤山を眺めてみました。
青空の下に佇む新緑の山は眩しいくらいに輝いているようです。水面を渡る初夏の風を感じながら、磐座に見守られた村を後にすることにしました。

磐座の見守る里・高岳を訪ねて(前編)

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大型連休も後半に差し掛かった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

播磨高岡駅

姫路駅からJR姫新線のディーゼルカーで着いたのは姫路駅の一駅隣の播磨高岡駅です。

西国街道

駅の傍を通るのは国道2号線で、そのすぐ北側を旧西国街道が通っています。交通量の多い国道に対して、旧街道は静かな雰囲気で、曲がった昔の道沿いには趣のある家々が建ち並んでいます。

街道沿いのこの辺りは今は姫路市に含まれていますが、古くは高岡村と呼ばれ、さらにその前は今宿村と呼ばれていました。今では姫路の郊外の住宅地が広がっていますが、かつては西国街道沿いに農村集落が広がる地域だったそうです。

高岳神社道標

旧街道沿いにお地蔵さんがあり、その隣には大きな石碑がありました。「式内 高岳神社」と刻まれていることからわかるように、こちらはここから北西にある高岳神社の道標です。高岳神社はこの地域のシンボルの蛤山の傍にある神社です。今回はこのまま高岳神社へと歩いてみたいと思います。

東今宿薬師堂

住宅地を歩いていると、お堂がありました。こちらは薬師堂です。

薬師堂の力石

お堂の裏手には力石が並んでいました。かつてはこの石で力比べをしていたのでしょうか。

昌楽寺

薬師堂から奥に入ると、木々に囲まれた昌楽寺が佇んでいました。今では静かな寺院ですが、平安時代半ばの長保年間の建立と伝わる古刹です。やはり平安時代半ばに花山天皇が書写山への御幸の際に立ち寄ったとされていて、先ほど訪ねた薬師堂には御幸の碑が建てられています。農村集落だった今宿ですが、すぐ北側を書写山園教寺への参詣路の書写街道が通っていて、書写山の影響を受けながら発展した地域でもありました。

静かな住宅地にはるか古代からの歴史が息づく高丘・今宿をもう少し歩いてみたいと思います。