せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

下山手・中山手を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、元町から山手へと歩いてみたいと思います。

旧小寺家厩舎

蘇鉄林を通り抜けるとレンガ造りの建物がありました。こちらは旧小寺家の厩舎です。

前回も見て来たように、この相楽園は三田藩士だった小寺泰次郎の邸宅でした。小寺は明治維新後の神戸で元三田藩主の九鬼隆義、同じく三田藩士だった白洲退蔵とともに「志摩三商会」を設立しました。この会社で神戸港の後背地の土地を買収し、不動産業や金融といった事業を営むようになり、大きな利益を得た小寺はこの地に私邸を建てました。これが現在の相楽園です。

旧ハッサム邸

厩舎と並んで、異人館がありました。こちらは旧ハッサム邸で、インド系イギリス人貿易商J.K.ハッサムの邸宅として北野に建てられたものが戦後にこの場所へ移築されたものです。

日本庭園

さらに園内を進んでいくと、日本庭園に行き当たりました。こちらの庭園はもともと小寺邸の庭園で、多くの建物がこの庭園を囲んでいたそうです。

船屋形

池のほとりに美しい建物がありました。こちらは船屋形で、姫路藩で藩主が河川の遊覧用に使っていた「川御座船」の屋形の部分でした。明治に入り飾磨港に放置されていた船の屋形部分だけが建物として使用されるようになり、舞子にあった実業家の牛尾健治氏の自宅に移築されていたものを神戸市が寄贈を受けてこの場所に復元移築しました。移築に当たって船の屋形として使われていた華麗な姿が復元され、もう少しすれば紅葉に囲まれた景色を楽しむことができるでしょうね。

小寺は明治13(1880)年に県会議員に選出され、市街整備に携わるようになり、明治38(1905)年に亡くなります。この私邸が完成したのは明治44(1911)年で、小寺自身は私邸の完成を見ることなくこの世を去ったことになります。昭和16(1941)年に神戸市がこの私邸を譲り受けて公園として整備しました。なお、建物の大半は昭和20(1945)年の神戸大空襲で焼失しています。ちなみに、小寺泰次郎の息子の小寺謙吉氏は衆議院議員を務めた後、昭和22(1947)年には戦後初の神戸市長を務めました。

菊花展

園内では菊花展の準備中で、現在はちょうど開催中です。これからの季節は紅葉も楽しむことができるでしょう。

今も昔も神戸、兵庫県の行政の中心だった下山手・中山手には明治以来の風情ある雰囲気が残されています。状況が落ち着き、まだまだ油断はできませんが、お出かけの気分が盛り上がってきたこの頃。ゆっくりとお散歩に訪ねてみてはいかがでしょうか。

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下山手・中山手を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、元町駅から山手へと歩いてみたいと思います。

兵庫県公館の庭園

兵庫県公館
の庭園越しには神戸の中心のビルやマンションが眺められます。
都心の緑あふれる空間はまるでオアシスのようですね。

兵庫県公館の内部

公館の内部は県政資料館になっています。その他にも通常なら内部の見学ができましたが、現在は感染症対策のために見学の受付は中止されています。

兵庫県庁

公館の山側には現在の兵庫県庁のビルが建ち並んでいました。5代目になる現在の庁舎は昭和39(1964)年から使用されていますが、老朽化のために建て替えが計画されています。山手の景色はまた少し変化することになりそうですね。

相楽園

県庁舎の間を通り抜けた先に和風の門がありました。
こちらは相楽園です。

三田藩士だった小寺泰次郎が明治時代の明治44(1911)年に完成させた邸宅だった相楽園は西洋風の庭園の影響を受けた池泉回遊式の和風の庭園です。先ほどの兵庫県公館とは門からして違った趣を感じますね。

蘇鉄園

門をくぐると完成当時の別名「蘇鉄園」の名前の通り、蘇鉄林が迎えます。

次回は相楽園を歩いてみたいと思います。

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下山手・中山手を歩いて(前編)

投稿日:



朝晩が冷え込み、秋が深まってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

元町駅

直通特急で着いたのは阪神電車の元町駅です。

市街地の高低差

元町駅の周辺は市街地になっているのであまり目立ちませんが、ここも坂の街・神戸です。山側に向かって高低差があり、駅を出ると目の前には壁が立ちはだかります。

兵庫県公館

駅から山手へ歩くと、木々に囲まれた洋館がありました。こちらは兵庫県公館です。

兵庫県庁が初めて設置されたのは江戸時代の最後の慶応4(1868)年のことで、兵庫運河沿いの旧兵庫城跡地に設けられました。のちに現在の神戸地方裁判所の位置に移転しましたが手狭になったために、下山手にあったオランダ総領事コルト・ハウスの邸宅を
購入し、県庁舎としました。このコルト・ハウス邸も手狭になったために、明治35(1902)年に隣接地に建てられた4代目の県庁舎が現在の兵庫県公館です。現在の庁舎が完成するまで、昭和58(1983)年までここで兵庫県の業務をおこなわれていました。

公館を眺める

木々に囲まれたルネサンス調の建物はビルに囲まれてしまった今でも迫力がありますね。建物は文部技官の山口半六なる人物の設計で、当時は日本最大の県庁舎だったそうです。

明治の昔から今も、兵庫県の行政の中心だった下山手と中山手、次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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大仏への道・兵庫を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、兵庫を歩いてみたいと思います。

旧湊川

かつての西国街道を歩いていくと、新開地に差し掛かりました。今は面影はありませんが、かつてこの辺りには旧湊川が流れていましたが、流路が付け替えられた今は面影はありません。かつての「神戸」と「兵庫」は旧湊川によって分かれていましたが、流路の付け替えにより地続きとなり、中間には繁華街となる新開地が生まれました。

岡方倶楽部

阪神高速3号神戸線をくぐり、さらに西国街道を歩いていくと、立派な建物がありました。こちらは岡方倶楽部です。

この辺りはかつての「兵庫津」です。古くから港町として栄えていた兵庫は江戸時代には岡方、北濱、南濱の三つに分けられていました。このうちの「岡方」は海に接しない区域を指していて、この場所には総会所があったとされています。明治以降も「岡方」の呼び名は残り、兵庫の商人たちが昭和2(1927)年に社交場として西国街道沿いに設けたのがこの「岡方倶楽部」でした。
幕末の開港以降、神戸の中心は徐々に東へと移っていきましたが、それでも明治以降も依然として兵庫も港町として大きな存在感を持っていたことを伺うことができますね。

札場の辻跡

岡方倶楽部からさらに歩くと「札場の辻跡」に差し掛かります。ここで西国街道は曲がり、柳原の方へと向かっていきます。かつてのこの辺りは兵庫の中心街で、近世には人通りの多い街道沿いに幕府の高札場が設けられていました。今では企業が建ち並んでいますが、港湾に関係する企業も多く見かけ、港町の賑わいを今も感じることができます。

能福寺

西国街道から少し外れた場所には能福寺がありました。

兵庫大仏

能福寺は平安時代の延暦24(805)年の建立とされる古刹ですが、ここで知られているのは兵庫大仏こと毘廬舎那仏像ですね。こちらの大仏は兵庫の豪商・南条荘兵衛が明治24(1891)年に建立したものが始まりです。戦時中には金属類回収令により解体されてしまいますが、平成3(1991)年に現在の仏像が再建されています。

明治以降は神戸に港町の機能が移っていった印象が強いかと思いますが、西国街道沿いに兵庫を歩いていくと、明治以降の港町の繁栄を今に伝えるものを数多く見かけることに気づかされます。
お散歩にも適した季節になってきた今、近代の兵庫を訪ねて歩いてみませんか。

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大仏への道・兵庫を歩いて(前編)

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秋も深まりつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

高速神戸駅

今回降りたのは高速神戸駅です。
あまりイメージがないかもしれませんが、高速神戸駅の地上にはこんな和風建築のような出入り口もあります。

湊川神社

出入り口のすぐそばには湊川神社があります。

湊川神社は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将・楠木正成を祀る神社です。楠木正成は南北朝の戦いで南朝の後醍醐天皇方につき、足利尊氏らと戦いましたが、延元元・建武3(1336)年の湊川の戦いで敗れて自害しました。ただし、その後も忠臣として高く評価され、明治時代には「大楠公」と称されるようになりました。そんな楠木正成を祀る神社が建立されたのは明治13年のことで、意外と最近です。

御墓所

境内の南東には楠木正成の墓所がありました。

徳川光圀公銅像

墓所の中には水戸黄門こと徳川光圀の銅像がありました。なぜ徳川光圀が?と思ってしまいますが、楠木正成が自害してからずっと時代が下った江戸時代の元禄5(1692)年にこの地へ家臣を遣わして楠木正成の墓碑を建立し、表面には光圀の筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が刻まれました。このことが楠木正成のさらなる評価につながり、この地に神社が建立されることになったきっかけの一つとも言われています。

西国街道

湊川神社の浜側、JR神戸駅の近くまで歩くと、市街地が広がっています。
市街地の中のこちらの道、実はかつての西国街道です。

次回は湊川神社の門前から西国街道を辿って歩いてみたいと思います。

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市街地の城跡・花隈城を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、花隈を歩いてみたいと思います。

東郷井

花隈公園
の中にはこんな石碑がありました。こちらは東郷井の碑です。花隈城からはるかに歴史が下った明治時代、現在の貿易センターの東側辺りにあったとされる小野浜造船所で初代・戦艦大和が建造されました。この戦艦大和の建造監督官を務めたのは東郷平八郎で、後にこの戦艦大和の艦長についています。東郷がロシア・バルチック艦隊を打ち破ったのを顕彰して、建造監督官当時に滞在していた神港倶楽部で使っていた井戸に「東郷井」という名前が付けられ、こうして石碑まで建立されました。もとは花隈公園の北側にあったものがこちらに移設されたものです。

福徳寺

市街地にあったのは福徳寺です。
この寺のあった場所に花隈城の天守があったとされています。

摂津の要衝を治める重要な城郭だった花隈城でしたが、その終わりは壮絶なものでした。城主だった荒木村重が天正6(1578)年、主君の織田信長に謀反を起こしました。当初は居城だった伊丹の有岡城を拠点に戦っていた村重でしたが、信長の軍勢の攻撃で有岡城が落城した後に尼崎の大物城、そして、ここ花隈城に逃げ込みます。池田恒興率いる軍勢の攻撃を受けた花隈城は四か月ほど持ちこたえましたが開城し、村重は中国の毛利氏を頼って亡命しました。城主を失った花隈城はそのまま廃城となり、城の資材は池田恒興が築いた兵庫城に流用されたとされています。今ではこの地に城を忍ばせるものはほとんど残されていません。

花隈城天主閣之趾碑

福徳寺の門の横には石碑がありました。天守を「天主」と書いているところに、村重の主君だった織田信長の岐阜城安土城に通じるものを感じてしまい、どこか悲しいような気もしてしまいます。

再び花隈公園へ

再び花隈公園に戻りました。柳の木と石垣の景色はまるで本物の城郭のように見えてしまいますね。

蝉時雨の降り注ぐ中、市街地に眠る強者どもが夢のあとを訪ねたのちに、地下の花隈駅に戻ることにしました。

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市街地の城跡・花隈城を訪ねて(前編)

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夏真っ盛りのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

花隈駅

暑い太陽の下、降り立ったのは神戸高速線の花隈駅

花隈城

駅のすぐそばに聳える石垣は花隈城跡です。
ただし、この石垣は城を模して現代に再現されたもので、本来の花隈城とは異なるものです。

花隈城は戦国時代の永禄10(1567)年に戦国武将・荒木村重織田信長の命でわずか一年で築いた城とされています。この築城時期には諸説があるようですが、当初は急ごしらえの城ではあったようで、後の天正2(1574)年にやはり荒木村重の手によって大改築がおこなわれました。改築後の城郭は今の花隈町一体に広がっていたとされ、この城跡の石垣とは比べ物にならないくらいの規模を持っていました。

花隈公園

石垣の上には公園が広がっています。公園の中には城跡を示す石のプレートがありました。

天守台?

公園の中には一段高くなっている場所がありました。まるで天守台か、櫓でも設けるのかという空間ですが、実際の花隈城の天守はこのずっと西側にあったと言われていて、あくまでそれらしい演出をする施設に過ぎません。

神戸の街並み

天守台のような場所からは神戸の街並みを望むことができました。現代ではビルが建ち並んでいますが、かつてはここから海を眺めることができたのでしょう。地図から想像すると、当時から重要な港だった兵庫もここから眺められたのかもしれません。

市街地の中に残る城跡。次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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四宮を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、元町駅界隈を歩いてみたいと思います。

明治天皇臨幸記念碑

下山手通沿いにひっそりとあったのが「明治天皇臨幸記念碑」と刻まれた石碑。
明治13(1880)年の明治天皇の行幸を記念して建てられたものです。当時、明治天皇は神戸師範学校(のちの神戸大学)の視察などを行なったそうです。

山手へ

兵庫県庁の横手から入り組んだ坂道を上り、さらに山手へ向かうことにします。市街地で多くの道が直線で作られている中、妙に曲がったこの道はちょっと気になるところです。古い地形図を見てみると、中山手通が設けられる前からある道のようで、大昔から山手へと上る道としてあったようです。

四宮神社

中山手通に出ると、交差点の向こうに朱塗りの鳥居が見えました。こちらは四宮神社です。

四宮神社は生田裔神八社の一つで、市杵島姫命をまつっています。この市杵島姫命は弁財天と同神ともされていて、境内には「弁財天」赤い幟が立ち並んでいます。創建時期は不明ですが、現在の場所に移ったのは幕末の安政元(1854)年のことです。古い地形図を見ると、先ほどの曲がった坂道の辺りまでが境内だったようですが、明治6(1873)年に開通した中山手通の建設の際に境内の一部を提供し、現在の姿に落ち着くことになりました。

四宮神社の境内

四宮神社の境内は神社のビルとマンションに挟まれて少々窮屈ですが、歴史ある神社の風格を感じることができます。

市街地の元町界隈ですが、少し歩いてみると近世・近代の名残を見つけることができます。お買い物の際などに散策してみてはいかがでしょうか。

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四宮を訪ねて(前編)

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春の暖かさを感じる日が増えつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

元町駅

直通特急で到着したのは元町駅

福建商業會議所の碑

駅の北側に出ると、ビルの中に埋もれるように「福建商業會議所」と書かれた石碑がありました。

近世~近代にかけて、開港地となった神戸には欧米人だけでなく多くの華僑が移り住み、貿易などに携わっていました。この華僑たちは三江地域と呼ばれる浙江省などの長江下流域、広東省、福建省など大陸南部の出身者が多く、それぞれの出身地でグループを作っていました。神戸の開港から日清戦争までの間に神戸の華僑は増加し、出身地域ごとに商人の団体を設けるまでになりました。この福建商業會議所は福建省出身者が設立した団体です。

兵庫県公館

山手に緩やかな坂道を上ると、兵庫県公館の前に出ました。兵庫県公館は明治35(1902)年に県庁舎として建てられたもので、今は迎賓館と資料館として使われています。木々に囲まれた明治の建物は存在感がありますね。

神戸栄光教会

公館の裏手に回ると、下山手通に出ました。通に面してそびえるのは神戸栄光教会の鐘楼と礼拝堂です。神戸栄光教会は大正11(1922)年にこの地に建てられましたが、当時の協会は阪神・淡路大震災で倒壊してしまいました。現在の建物は平成16(2004)年に再建されたものですが、レンガ造りの外観は初代の協会を踏襲したものです。

行政機関が集まる静かなこの界隈ですが、近代の日本や、中国、欧米の気配を感じ、神戸らしい雰囲気を感じますね。
次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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湯の町・湊山を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて湊山地区を歩いてみたいと思います。

坂の町

天王川沿いから坂道を上ることにします。六甲山地の斜面に天王川や湊川が深い谷を刻んでいるこの辺りは複雑な地形で、坂道や路地が入り組んでいます。

街中の鳥居

住宅地の中を歩いていると、石造りの鳥居を見つけました。こちらの鳥居は有馬温泉の守護神ともされる豊國稲荷神社の鳥居です。

豊國稲荷神社の創建は明らかになっていないようですが、もともとは兵庫にあった兵庫城内に鎮座していたとされています。それが明治に入って移転し、有馬温泉の守護神とされていたこともあって、有馬への道筋の山中に落ち着くことになりました。前回訪れた天王温泉の石碑には、この豊國稲荷神社が天王温泉の守護神であるとも書かれていましたね。詳しい由緒はわからないのですが、温泉の神様ということになっているのでしょうか。

城壁のような石垣

豊國稲荷神社の鳥居からさらに住宅地を歩いていくと、まるで城壁のような石垣の上に住宅が建ち並んでいる景色が続きます。

大山咋神社

坂道を上りつめ、大山咋(おおやまくい)神社の前にたどり着きました。

大山咋神社が創建された時期は詳しくわかっていないようですが、古代に比叡山日吉大社から勧請されたと伝わっています。その後、福原へ遷都がなされた前後の治承年間に、平家と関係が深く、政権内で重用されていた藤原邦綱が雪御所の鎮護とするために再造営し、今に伝わっています。

豊國稲荷神社は今

先ほど、鳥居を見かけた豊國稲荷神社はかつて鳥居の先の山中にありました。しかし、平成28(2016)年に遷座され、現在はここ大山咋神社の境内にあります。険しい山中にあり、管理が難しかったためとのことで、時代を感じさせられますね。

大山咋神社より

大山咋神社より神戸の街を見下ろしてみました。古代より温泉が湧き、清盛を始め多くの人々を癒してきた湊山の温泉地と大山咋神社。時代の流れとともに姿を変えてきましたが、今も険しい坂の上から神戸の街を見下ろし、佇んでいます。

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