せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

北摂の城下町・池田を歩いて(前編)

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桜の便りも届き、春も本番のこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急池田駅

阪急電車に乗り換えて着いたのは池田駅です。

栄町商店街

駅前からは昔ながらの商店街が続いています。

能勢街道

商店街を通り抜けると、東西の道に差し掛かりました。この道は大坂と妙見堂のある能勢を結んでいた能勢街道です。池田は近世にはこの能勢街道の宿場町として栄えていました。

旧加島銀行池田支店

街道沿いに目立つレンガの外壁の建物がありました。こちらは旧加島銀行池田支店です。加島銀行は大阪の豪商・加島屋が明治21(1888)年に設立した銀行で、大阪に本店を置いていました。明治から大正にかけて、大阪だけでなく全国に支店を展開する都市銀行へと発展しましたが、昭和に入り、昭和恐慌のあおりを受けて銀行業を廃業しています。かつては大阪だけでなく東京や中国地方へと広がっていた店舗網は他の銀行へ譲渡され、建物が現存しているのはここ池田支店だけです。現在は店舗として利用されているようですが、旧街道沿いでとても目立つ建物ですね。

白壁の道

街道から横道に入ると、瓦屋根に城壁の街並みが続いていました。

次回はもう少し池田を歩いてみたいと思います。

兵庫大仏と柳原を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、兵庫の街を歩いてみたいと思います。

月輪影殿

大仏が目立つ能福寺ですが、本堂は境内の奥に佇んでいます。「月輪影殿」と呼ばれる本堂は京都・東山の月輪御陵の拝殿を移築したものです。この地に移されたのは昭和28(1953)年のことで、それまでは明治・大正・昭和の歴代天皇陛下が参拝された由緒ある建物です。

柳原天神社

能福寺を出て街中を歩くと、小さな神社がありました。こちらは柳原天神社です。平安時代には大宰府へ向かう菅原道真が大輪田泊に上陸してこの地に立ち寄り、歌を詠んだという伝説が伝わっています。

満福寺

柳原天神社の裏手にあったのが満福寺です。建物は太平洋戦争中の神戸大空襲で焼けてしまったために新しいものですが、鎌倉時代の延慶元(1308)年に一遍上人の後を継いで時宗を率いた他阿によって創建されたという古刹です。

時宗寺院はちょっと珍しいのですが、この辺りでは、兵庫運河の向こうに普照院がありますね。一遍が開き、踊念仏で知られる時宗(時衆)は中世の都市を活動の拠点としていたそうです。この辺り柳原は兵庫の街の西端の地区にあたります。時宗寺院が多くあるところは中世に都市として栄えていた場所ともいえます。中世都市には近世以降に衰退し都市の体裁をとらなくなったところが多くあります。そうした中で、現代まで都市として発展し続けてきた兵庫の街は貴重な存在なのかもしれませんね。

柳原惣門の跡

阪神高速の高架をくぐると、兵庫駅はもう間近です。兵庫駅の近くに佇む柳原蛭子神社の傍には柳原惣門の跡がありました。ここは兵庫の西の入口にあたります。古代から中世の趣を感じながら歩いてきた兵庫の街の散策も終点ですね。

これから春を迎える兵庫、新しいスポットを訪ねながら歩いてみてはいかがでしょうか。

兵庫大仏と柳原を訪ねて(前編)

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所々、桜の開花の便りも届く頃、いかがおすごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

兵庫運河の眺め

前回まで、兵庫津を歩いていましたが、今回も兵庫運河の畔から散策を続けたいと思います。

古代大輪田泊の岩椋

運河の畔には巨大な石が置かれていました。こちらは「古代大輪田泊の岩椋」と呼ばれていて、平清盛が築いた経ヶ島の一部であるとか、古代の港湾設備や近世の護岸の一部であるとも言われています。詳しいことはわかっていないようですが、古くからここ兵庫を見つめてきた遺構の一つには違いありません。

能福寺

企業や住宅の建ち並ぶ街を歩くと、塀に囲まれた寺院がありました。こちらは能福寺です。

現在は街中にあり新しい堂宇の建ち並ぶ能福寺ですが、寺伝では平安時代の延暦24(804)年、最澄によって創建されたとも言われています。唐への留学の帰途にここ大輪田泊に着いた最澄は堂宇を建立し、薬師如来像を安置したとされています。能福寺が大いに栄えたのはやはり平安時代のこと。平清盛を始めとする平家一門の帰依を受けて、堂宇は拡大し当時周辺にあった「福原五山」の中でも筆頭の寺院とされました。

平相国廟

境内には平相国廟と呼ばれる平清盛の供養塔があり、今も平家との深いつながりを感じさせます。

兵庫大仏

能福寺と言えばこちらの兵庫大仏が知られています。

現在の兵庫大仏は二代目で、平成3(1991)年に再建されたものです。初代の兵庫大仏は南条荘兵衛なる豪商の寄進によって明治24(1891)年に建立されました。この大仏は太平洋戦争の際の金属類回収令で解体されてしまいましたが、再建の際には解体されて残されていた初代大仏の材料が一部に使われたそうです。現在の大仏は全高25mもあり、街中に佇む姿は存在感がありますね。兵庫大仏は奈良・鎌倉と並んで「日本三大仏」とも称されています。ただし、三大仏の奈良と鎌倉は固定として、残りのひと枠には高岡や岐阜が入るという説もあるとのこと。

大仏が見守る兵庫の街。次回ももう少し歩いてみたいと思います。

初代県庁館オープン・兵庫津を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、兵庫津を歩いてみたいと思います。

清盛塚

県立兵庫津ミュージアム「初代県庁館」を出て兵庫運河を渡った先に清盛塚がありました。境内にある十三重の石塔が清盛塚とされ、鎌倉時代の弘安9(1286)年に当時の鎌倉幕府の執権・北条貞時によって建立されたと伝わっています。もともとは現在の場所の南西にありましたが、大正時代に道路拡幅に伴って現在地に移設されています。

兵庫県庁から時代は遡る平安時代の末、平清盛は古くから港町として栄え、大輪田泊と呼ばれていたここ兵庫津を改修し、日宋貿易の拠点として整備しました。その工事の一環として作られたのが「経ヶ島」と呼ばれる人工島です。山を切り崩した土砂で埋め立て地を築く工事は難航したため当時の慣習で人柱を建てようとしましたが、清盛の反対により、人柱の代わりに埋め立てる石一つ一つに経を記し無事に完成したと言われています。

清盛像

境内には清盛像が建っています。こちらは昭和48(1968)年に建てられたものです。清盛は所謂「源平合戦」の最中の治承5(1181)年に熱病で没し、経が島の完成を見ることはありませんでしたが、『平家物語』では経が島に埋葬されたと記されています。その記述から、この清盛塚が清盛の墓であるとされてきましたが、先述の移転の際におこなわれた調査で、清盛塚は清盛の墓ではないということがわかっているそうです。

兵庫城跡

兵庫運河沿いの遊歩道を歩いていると、「兵庫城跡」の石碑がありました。後に初代の兵庫県庁がおかれることになった兵庫城はここにあったとされています。

清盛の死後、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡しますが、鎌倉時代に入ってから経が島の工事は再開され、建久7(1196)年に完成しました。その後も兵庫津は瀬戸内海航路の拠点として発展し、近代以降の国際貿易港・神戸港へとつながっていくこととなります。

兵庫運河を眺めて

兵庫城跡付近から兵庫運河を眺めてみました。運河沿いに大規模な商業施設が建ち、以前とは周辺の随分と雰囲気が変わってしまいましたが、ゆったりと流れる水面はそのままです。まもなく県立兵庫津ミュージアム「ひょうごはじまり館」がオープンすれば、ますます盛り上がって来そうですね。

これからの季節、運河沿いに歴史散策はいかがでしょうか。

初代県庁館オープン・兵庫津を歩いて(前編)

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暖かくなり、春を感じることが多くなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

中央市場前駅

地下鉄海岸線で着いたのは中央市場前駅です。駅名の通り、駅の東側には神戸市中央卸売市場の建物があります。

県立兵庫津ミュージアム

駅のすぐそばでは何やら工事中です。こちらでは「県立兵庫津ミュージアム」が整備中で、工事中のこちらの一角では2022年度下期に「ひょうごはじまり館」がオープンする予定です。

初代県庁館

中の島交差点を曲がり、兵庫運河の方へと歩くと、和風建築が迎えてくれました。こちらは県立兵庫津ミュージアムの中の「初代県庁館」で、先ほど訪れた「ひょうごはじまり館」より一足先の2021年11月にオープンしています。

現在の兵庫県本庁舎は神戸市中央区の下山手通にあり五代目の庁舎です。では初代はというと、ここ兵庫にありました。慶応4(1868)年に兵庫県が設置された際、県庁はここ兵庫にあった江戸幕府の大坂町奉行所の勤番所に設けられていました。もともとこの場所には中世に兵庫城があり、江戸時代初めに尼崎藩領に組み込まれた際には尼崎藩の陣屋の兵庫陣屋が設けられていて、港町・兵庫を拠点となっていました。長らくこの近くに石碑があるのみでしたが、2021年11月3日、初代兵庫県庁舎を復元した「初代県庁館」がオープンしました。

初代県庁館の内部

門をくぐると、中には真新しい瓦屋根の建物が連なっています。現在の兵庫県本庁舎や四代目の庁舎だった兵庫県公館と比べると随分趣きが異なりますね。

吟味場

内部にはこんな一角もありました。こちらは吟味場、所謂「お白洲」です。当時の兵庫県は「県」と名前が付くものの、実態は幕府領を明治新政府が治めるために設けたもので、県域は兵庫津とその周辺に点在し、その周りには江戸時代からの「藩」が残されていました。現在のような「県」が置かれるのは明治4(1871)年の廃藩置県を待つこととなり、この庁舎が使われたのはまだまだ過渡期とも呼べるような時期でした。こんな近世的な空間があるのも、そんな時代だったことを感じさせますね。

県立兵庫津ミュージアムが整備され、注目を浴びつつある兵庫津。次回ももう少し歩いてみたいと思います。