せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

五百羅漢が見守る宿場町・北条を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて、加西の北条を歩いてみたいと思います。

住吉神社

酒見明神
を祀る住吉神社を後にします。

羅漢寺

住吉神社の北側にあるのは羅漢寺です。もとは酒見寺の境内の一部でしたが、明治時代に別の寺院に分かれました。

北条の五百羅漢

境内には「北条の五百羅漢」と呼ばれる石仏群があります。それぞれ表情の異なる石仏が数多く立ち並ぶ光景は迫力がありますね。

先ほど見てきましたように、この羅漢寺は元は酒見寺の一部でした。この五百羅漢を誰がいつ何の目的で作ったのかははっきりとはわかっていませんが、調査では江戸時代の初めのものとされ、酒見寺が再建された頃に作られたと考えられています。戦国時代の天正年間に、この辺りは戦乱に巻き込まれ酒見寺は焼失し多くの犠牲者が出ました。そうした人々を弔うために作られたのではないかとも言われています。

小谷城を眺める

羅漢寺のすぐ北側を通る中国道をくぐると、のどかな田園地帯が広がりました。正面の山には小谷城(こだにじょう)という城がありました。

小谷城が築かれたのは室町時代の応永年間頃と言われていて、代々赤松氏が城主をつとめていました。赤松氏は酒見寺や住吉神社の門前町があった北条に「古市場」を開き、「田舎なれども北条は都、月に六斎市が立つ」と謳われるほど繁栄したそうです。

夏の五百羅漢

羅漢寺に戻り、五百羅漢を眺めます。
夏の日差しの差し込む境内には蝉時雨が降り注いでいました。

中世に繁栄したものの、戦国時代に兵火に焼かれた北条ですが、五百羅漢に見守られながら交通の要衝として発展していきました。
また大変な状況となりましたが、状況が落ち着きましたら、播磨平野に佇む街をたずねてみてはいかがでしょうか。

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五百羅漢が見守る宿場町・北条を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加西の北条を歩いてみたいと思います。

但馬街道の景色

北条の街中には趣のある景色が広がっています。この道はかつての但馬街道で、北条から市川沿いに出て、生野峠を越えて豊岡へとつながっていました。今でも北条の町の北側には中国道が通っていて、福崎で播但連絡道路と接続し、但馬方面へとつながっています。今も但馬への経路であることは変わりませんね。

酒見寺

旧街道沿いに立派な仁王門がありました。こちらは酒見寺(さがみじ)です。

酒見寺は奈良時代の天平17(745)年にこの地を訪れた行基酒見明神の神託を受けて建立したと伝わる古刹です。聖武天皇の勅願寺とされ、平安時代から勅旨の参詣が毎年行われるなど朝廷の帰依もあって、広く信仰を集める寺院となりました。北条が宿場町として発展するのは近世に入ってからですが、それ以前の中世にかけて、この酒見寺の門前町が広がっていたそうです。

酒見寺の境内

仁王門をくぐると、二層屋根の本堂へと参道が伸びていました。両側には青銅の灯篭が立ち並んでいます。

酒見寺多宝塔

境内にあったのは鮮やかに彩られた多宝塔です。奈良時代の建立とされる酒見寺ですが、二度焼失していて、現在の伽藍は戦国時代に焼失したものを江戸時代に当時の姫路城主・池田輝政により再興されたものです。こちらの多宝塔も江戸時代初めの寛文2(1662)年に建立されたものとされています。

石橋

境内の西側には小さな池と古風な石橋がありました。

住吉神社

石橋を渡った向こうは住吉神社という神社です。こちらは酒見寺よりも古く、現在の場所に社が建てられたのは養老元(717)年とされています。住吉三神だけでなく、酒見明神を祀り、古くには「酒見大明神」「酒見社」と呼ばれていました。行基が神託を受けたのもこの酒見明神からですね。酒見寺は建立後、この住吉神社の別当をつとめるなど、深い関係にあり、近世にはともに池田輝政の庇護も受けて繁栄することとなりました。

街道の宿場町として栄えた北条ですが、それ以前にも町としての広がりがありました。
次回、もう少し北条の歴史をさかのぼってみたいと思います。

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五百羅漢が見守る宿場町・北条を歩いて(前編)

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夏の盛りだというのに雨の続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

北条町駅

神戸電鉄粟生線の粟生から北条鉄道に乗り換えて、終点の北条町に着きました。
駅前は加西市の中心の北条地区で、商業施設や商店が建ち並び、賑やかな雰囲気です。

北条町

北条町駅の周辺は真新しい建物が建ち並び市街地の雰囲気ですが、少し歩くと小さな商店や民家が建ち並ぶ昔ながらの雰囲気が広がります。この辺りは加西市に合併される前の北条町の中心で、明治22(1889)年の町村制施行の時、周辺が「村」だったにも関わらず北条町として発足していました。

北条の宿

歩いていくと趣のある街並みが続きます。

播磨平野にある北条は古くから栄えた街でした。近世には京都と山陰を結ぶ南北の街道と東西の街道がこの地で交わり、宿場町として繁栄するとともに、市場が設けられて、人と物がまさに交通の要衝でした。今に残る街並みを眺めていると、当時の繁栄が今に伝わるようです。

大日堂

街中の交差点には趣のあるお堂が佇んでいました。

商家街

大日堂の周辺には「旧家の街並み」とされ、今も立派な建物が残されています。この北条に集まる物資の取引で、とても栄えたのでしょうね。

宿場町として栄えた北条ですが、これだけの町が形成されたのはそれだけではありません。
次回はもう少し北条の町を歩いてみたいと思います。

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播磨平野の戦争遺跡・鶉野飛行場跡を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、鶉野飛行場跡を歩いてみたいと思います。

対空用機銃座

林の中を進み、ため池のほとりに円形のコンクリートの構築物がありました。こちらは対空用機銃座の跡で、飛行場の防衛のために機銃を設置した施設の痕跡です。

巨大防空壕跡

大学の農場の傍にあったコンクリートの建造物は防空壕の跡です。こちらは基地内最大の巨大な防空壕で、中には発電設備があったそうです。
のどかな田園風景の中に草木に埋もれそうになっている戦争遺跡が点在している光景は色々と考えさせられるものがありますね。

鶉野飛行場

農場や民家のある集落を通り抜けると、周囲が開けました。はるか向こうまで草むした空き地が広がっています。こちらが鶉野飛行場の滑走路です。

鶉野平和祈念の碑苑

滑走路の傍らには石碑のある広場がありました。こちらは鶉野平和祈念の碑苑です。この地にあった鶉野飛行場の碑と白鷺隊戦没者の慰霊碑が建てられています。練習部隊だった姫路海軍航空隊ですが、戦局がいよいよ悪化した1945年にはここから「白鷺隊」と呼ばれる特攻隊が編成され、63名が鹿児島の串良基地から沖縄へと出撃していきました。

鶉野飛行場の滑走路

鶉野平和祈念の碑苑の近くからは滑走路跡に入ることができました。

戦後、飛行場は米軍に接収され、一部は農地として払い下げられましたが、滑走路などには警察予備隊(後に自衛隊)が進駐しました。しかし、本格的に基地として使われることはなく、現在は加西市の所管となっていて、貴重な戦争遺産として散策マップなどが制作されています。

局地戦闘機「紫電改」

滑走路の端、田んぼに囲まれた一角に真新しい建物がありました。この中には飛行場に隣接してあった川西航空機姫路製作所鶉野工場で制作された局地戦闘機「紫電改」の実物大模型が保管されていて、毎月第一・第三日曜日には公開されています。残念ながら訪れたときは公開日ではなかったので、田んぼの向こうから眺めるのみでした。

鶉野の田園風景

滑走路跡の周りには青々とした田んぼが広がっています。飛行場や航空機の工場があったため、この辺りも幾度となく米軍の空襲を受けたそうです。今ではぽっかりと空いた滑走路跡には涼しい風が吹き渡り、特攻隊や空襲の悲しい歴史があったとは思えないようなのどかな景色が広がっていました。

播磨平野の真ん中に戦争遺跡が点在する鶉野飛行場、戦後76年を迎えようとしている今、注目されつつあります。播磨であった太平洋戦争の記憶をたずねて訪れてみてはいかがでしょうか。

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播磨平野の戦争遺跡・鶉野飛行場跡を訪ねて(前編)

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厳しい日差しの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

法華口駅

神戸電鉄粟生線の終点・粟生駅から北条鉄道に乗り換えて着いたのは法華口駅です。
「法華」の駅名は南西にある法華山一乗寺に由来していて、駅舎の横には一乗寺の三重塔の模型がありますが、寺までは5kmも離れています。

加西の田園地帯

駅の周りにはのどかな景色が広がっていました。
田んぼを吹き抜ける風が稲の葉を揺らす音が響きます。

林の中の防空壕

田んぼから林の中に入ると、鉄柵に囲まれた穴がありました。
こちらは戦時中に使用された防空壕の跡です。木陰の中の穴の中は真っ暗で、ひんやりとした空気が漂ってきます。

爆弾庫

さらに林の中には、苔むしたコンクリートの入り口をもつ穴がありました。こちらも戦時中に使用されていた爆弾庫です。静かな林の中に佇む暗い穴を眺めていると、肌が泡立つのさえ感じました。

のどかな田園地帯に佇む戦時中の遺跡はこの地にあった姫路海軍航空隊基地鶉野飛行場に関連する施設の跡です。この地に飛行場が設けられたのは太平洋戦争の戦局が悪化し始めた昭和18(1943)年のこと。基地航空兵力を増強のために新たに設けられた姫路海軍航空隊の飛行場として建設されました。

門柱

林の先に進むと、姫路海軍航空隊の門柱のレプリカがありました。
姫路海軍航空隊は練習部隊でこの地で訓練した練習生たちが旅立っていきました。

この門柱の先が姫路海軍航空隊、そして、鶉野飛行場となります。
次回は飛行場跡を訪ねてみたいと思います。

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